歩く

2007-05-11 23:16:15 | ひとりごと

“歩く”こと


それは必ずしも前に進めるとは限らない。


“歩く”ということ


そこに必ず前に進まなければいけないというルールはない。


 


僕は今まで“歩く”ならば、前に進まなければ意味がないと思っていたかもしれない。


けれども、たとえ前に進まなくても多くのことに気付き、学べる可能性があるんだと分かった。


だた、気付くことが何もなければ、その歩みは無駄になってしまうのかもしれない。


 


気付くために考える。


考えられるようになるために気付く。


いつも僕はその繰り返しだ。


 


ふと疑問に思う。


気付く、考えるはできるようになったかもしれないが、果たして身に付いているのだろうか。


では、どうすれば確認できるのでしょう。


確認方法はその都度違うような気がしますが、そこが見つかりません。


だから、確認を怠るがために同じことを繰り返す。


僕にとってはそこが課題ですかね。


 


なぜ、僕はこんなことを書いているのか。


 


どん底まで落ちていくと自ずと上にしか行けなくなる。


つまり、もうこれ以上は下に行けないのである。


下に行けないなら上に行くしかない。


単純なことだ。


と同時に、どん底まで落ちたことで強い耐性が身に付く。


すると不思議なことに今まで悩んでいたことや傷んでいたことなどがバカらしいと思えてきてならない。


 


どん底まで落ちて拾ってきた物。


それは、本当の自分らしさ。


今までも同じようなことを何度も書いてきたかもしれない。


でも、ようやく本当の自分を拾ってこれた気がしている。


 


人は一人では生きていけません。


なぜだと思いますか。


 


いつも自分では気付かなかったことや新しい考え方を学ばしてくれるのは他人です。


だから、一人で生きていても何の気付きも見つけられない。


だから、いつまでも新しい自分は見つけられない。


気付きというものは自分で見つけられるものではありません。


人が与えてくれるものなのです。


僕はこう思っています。


その気付きを活かせるかどうかは自分次第だと思います。


でも、まず気付きがなければ何も変化は起こらない。


 


 


ここで話を転換します。


僕はブログ上で“自分”のことを3つ呼び方で使い分けています。


僕、私、オレ。


何を基準に使い分けているかは見つけてみて下さい。


 


なぜ、僕はこんなことを書いているのでしょう。


 


2月中旬、


 


この『夢の途中で』2では、オレとしています。


僕=これは以前の『夢の途中で』の時によく使いました。今も詩を書いたりする時に時々使います。


私=これは保護者を含めた自分のもとにいる選手に公開した『In the middle of a DREAM』でよく使ったよそいき用です。


オレ=この『夢の途中で』2では一番よく用いています。


 


何を基準に使い分けをしているか


そして、今一番使っているオレ。


これが親しい者に対して自分を指すときの呼び方です。


 


なぜ、そんなことを書いているのでしょう。


 


僕は計算高い大人です。


 


教える指導者ではなく、気付かせる指導者になりたい


僕が教えられることは何もない。でも気付かせることならできるかもしれない。


気付きこそがもっと大切なことであると信じている。



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