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<成願寺のビャクシン>
初夏の湯河原;万葉公園・五所神社・成願寺周遊(中編)
(親族旅行・単独散策)
2016年7月5日(火)~6日(水)
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第2日目;2016年7月6日(水) 曇
<ルート地図>←クリック拡大
<2日目の朝>
■朝風呂を楽しむ
昨夜,寝付きは良かったものの,部屋の空気が,なぜかヤケに乾燥していて,鼻の奥が乾いてしまう.隣に寝ている家内が,夜中に鼻をグスグスと音を立てながら,鼻をかんだり,ゴソゴソ音を立てたりするので,暫くの間,眠れずにいる.でも,何時の間にか,再び寝込んでしまう.
何時もの習慣で,夜中に眠れなかったにも拘わらず,3時半頃,目が覚めてしまう.隣で熟睡している家内を起こしてしまうのも忍びないので,4時半頃まで,寝床の中でジッと動かずに我慢する…が,その間に,奇妙な夢を見ながらの浅い眠りを何回も繰り返す.
窓から外を眺める.すでに夜はすっかり明けているが,朝霧か低く垂れ込めている.
朝食は7時からである.まだまだ時間がタップリあるので,私は時間つぶしを兼ねて,地下1階にある大浴場へ向かう.
まだ早い時間なので,多分大浴場は空いていると思っていたが,結構,沢山の方が朝から入浴を楽しんでいる.
大浴場に居られる方,全員が私と同年配かそれ以上のお年の方のように見受けられる.それに大半の方が良く太っておられる.
”私も決して痩せては居ないが,ここにお見えの方々に比較すれば,私の太鼓腹など大したことないな…”
と思えてくる.
大浴場の風呂の温度は41℃に保たれている.私が自宅の風呂に入るときの温度とほぼ同じである.それにもかかわらず,大浴場の方が身体の心底から暖まるのはなぜだろう.
<霧深い朝>
■朝食はバイキング
7時頃,5人揃って,1階の食堂へ向かう.
朝食はバイキング形式で,席も自由である.私達は食堂中央で食べ物が摂りやすい場所にあるテーブルを確保する.
さて,何を食べるかである.胃袋の容量は限られているので,何をチョイスするかが大問題である.まずは和食にするか,洋食にするかの選択がある.これで結構迷うが,今朝は和食で行くことにする.
私の選んだ和食のメニューは下の写真の通りである.
<私の朝食>
<まずはバス通りに沿って>
■独り歩きのはじまり
食事を終えて,一旦,部屋に戻る.
私が歩きたそうな素振りをしているのを見て,家族一同が,
「先に出掛けて歩いて行っても良いですよ…私達はもう少しユックリしていきます.」
とのこと.さすがに家族である.私が歩き足りないでいるのを,ちゃんと察している.
”それでは…”
ということで,
8時20分,ホテルの玄関に飾り付けられている七夕の飾りを見上げながら,ホテルを出発して,湯河原駅へ向かって歩き出す.まずはホテルがある静岡県側から橋を渡って神奈川県側に入る.
私としては途中に鎮座する五所神社を参拝拝観したいと思っている.さらに成願寺を訪れて,土肥一族の墓と,有名なビャクシンの木を見たいなと思っている.
これまでホテルWellCityは何回も訪れているが,何時も路線バスかホテルの送迎バスを利用していた.歩いたことはないので一体どの程度の郷里があるかも見当が付かないが,まあ大したことはないだろうと想っている.
<ホテル玄関の七夕飾り付け> <橋を渡って神奈川県側へ>
■バス通りをそのまま歩く
まずは,バス通りに沿って,湯河原駅方面に向かって歩き始める.
まだ,朝が早いので,自動車の往来は少ない.道路の両端には歩き易い歩道が完備しているので,危険を感じることもなく歩けるのが嬉しい.
歩いていると,沿道にコンビニが幾つもあるのに気が付く.ときどき枝道が分岐する.
”この枝道は多分先の方でまた合流するだろうな…”
というのが,これまでの街道歩きで習得した勘で何となく分かる…が,今日の所はとにかく早く五所神社に行きたいので,枝道歩きは止めておくことにする.ただ,次回,また歩くチャンスがあったら,そのときは裏通りを通るぞと心に決める.
8時28分,「肌が綺麗に美人の湯」という看板が立っているところに到着する.看板にはお湯の組成や効能書きが書いてある.温泉の温度は61℃とのこと.好奇心から,貯まり湯の端っこにチョット触ってみる.なるほどメチャクチャ熱い.
<バス通りに沿って歩く> <美人の湯>
■豆相人車
美人の湯のすぐ先に豆相人車が展示されている.
案内板の説明によると,この豆相人車は明治29年(1896年)から約10年間稼働したという.この車1台に3~6人の客が乗り,3人の車丁の人力で動かしたとのこと.
なかなか興味深い.
もっとも,この展示物は,当時のものを復元したもの.中を覗くと,板張りの腰掛けが対面に備え付けられている.内部の写真を撮ろうと試みたが,写るのは窓ガラスに反射した自分の顔だけ.何回かトライしたが上手く行かないので車内の写真を撮るのを諦める.
”オレもこんなのに乗って,ノンビリ旅してみたいな…”
<豆相人車>
■夥しい数の石塔・石仏
8時30分,右手から路地が合流する.先ほど私が多分先の方でまた合流するだろうと予想した路地に違いない.合流点には夥しい数の石塔や石仏が並べられている.これは,多分,この辺りの歴史が古いことの証しだろう.
自動車道は,ここでY字型に分岐する.
”はてさて…どっちの道だろうか…?”
と私は少々迷う.手許に地図がないので,状況で判断するしかない.第六感では左のような気がする.進行方向左手の山の形状から察して,左手に間違いないだろうと判断する.間違っていたら,また,ここまで引き返せばどうということはない,そう思った私はY字路を左折する.前方に東海道新幹線と在来線の東海道本線のガードが見えている.
<夥しい数の石塔・石仏> <東海道本線のガード>
■湯河原小学校・湯河原頌徳社
8時38分,湯河原小学校の前を通過する.
何時ものブラブラ歩きと違って,今日は手許に地図がない.地図を持っていれば,小学校は絶好の現在地確認の情報になるが,地図がないと何となく手持ち無沙汰である.でも,往路のバスでこの辺りの様子を見ているので,いまのところ間違いなくあるいているなと思っている.
8時40分,湯河原小学校の直近にある湯河原頌徳社に到着する.ここは五所神社の境内社.境内にある案内板の記事によると.明治以降,太平洋戦争に至るまでこの地の戦没者約1000人を祀るために俊線直後に建立された神社だという.
<湯河原小学校> <五所神社境内社頌徳社>
<五所神社>
■境内の七福神
頌徳社が五所神社の境内社なので,私は8時40分に五所神社に到着したことになる.
頌徳社の前に,大きな弁財天が祀られているのに気が付く.五所神社の境内を散策すると,弁財天だけでなく,他の七福神も,ところどころに祀られている.境内をざっと散策したところ,弁財天の他に,大黒天,恵比寿神,福禄寿を拝観することができたが,境内をくまなく歩けば,多分,残りの三神も祀られているに違いない.
<弁財天> <大黒天>
<恵比寿神> <福禄寿>
■ご神木のクスノキ
境内に入ると鳥居の先に数十段の石段がある.石垣の右手に巨大なクスノキがある.ご神木である.
このクスノキを見上げながら,石段を登ると本殿前の広場に出る.
<ご神木のクスノキ>
■五所神社本殿
まずは五所神社本殿で詣でる.この建物は神奈川県指定重要文化財のようである.
立派な拝殿である.私には神社のことは良く分からないが,荘厳な拝殿から察して社格はかなり高いんだろうなと想像する.
境内にある案内板の記事によると,祭神は天照大神他8柱.約1350年余り昔の天智天皇の時代にこの地方の鎮守として祀られた.源頼朝が石橋合戦の前夜,土肥一族と盛大に護摩を焚いたと伝えられている.
<五所神社拝殿>
■境内を散策
参拝を済ませて境内を散策する.
目の前の木立の間に新幹線の線路が見えている.ときどき列車がブーンというような音を立てながら通過する.
近場に見えている七福神や山神社のお社などを廻って,8時53分,五所神社を出発する.
<境内近くを新幹線が走る>
<一旦,湯河原駅へ>
■二ヶ所のガードを潜る
五所神社を出発して,目の前にある東海道新幹線のガードを潜る.さらに,引き続き,8時55分,東海道本線(在来線)のガードを潜る.
<東海道新幹線のガード> <東海道本線(在来線)のガード>
■バス通りを通って湯河原駅へ
ときどきバス停がある.ということはこの道をたどれば間違いなく湯河原駅に到着する.
8時58分,湯河原温泉をPRした井戸に到着する.熱そうな温泉である.用心しながら,ちょっと手で触ってみる.
やっぱり,めちゃめちゃ熱い湯である.
道なりに歩いて,9時05分,湯河原駅に到着する.
まずは湯河原駅構内の観光案内所に立ち寄って,湯河原の地図を頂戴する.私としては湯河原駅から成願寺辺りの詳細地図が欲しかったが,湯河原全体の地図しかないようである.
確か,駅前に土肥の殿様が乗馬した姿を模した立像があったように記憶しているので,駅前を探してみる.でも見当たらない.どうやら私の思い違いのようである.
<温泉> <湯河原駅>
<成願寺>
■ガードを潜る
9時11分,駅前から歩き出す.
東海道本線の線路沿いの細い道を少し登る.進行方向左手には大きなマンションが建っている.
坂道を登り切ると,今度は下り坂になる.坂道を下り終えたところが十字路になっていて,左折するとすぐに東海道本線を潜るガードになっている.
9時17分,ガードを潜る.
<ガード入口の案内板> <ガードを潜る>
■成願寺へ到着
ガードを潜ると急勾配の登り坂になる.坂道を少し登って,9時18分,十字路に到着する.右折すると鍛冶屋方面に抜けられるようである.私は左折して成願寺方面へ向かう.
石垣沿いの登り坂を少し登って,9時20分,成願寺に到着する.
<十字路> <成願寺山門>
■成願寺のビャクシン
鬱蒼とした木立に囲まれた参道を進む.
ちょっと長い石段を登ると,大きなビャクシンの木が聳えている.この木が有名な「成願寺のビャクシン」である.
私のボロカメラでは,騎全体の姿は,到底,写すことは無理.
<ビャクシン>
■成願寺本堂
まずは成願寺本堂を詣でる.ここは土肥實平の菩提寺である.
成願寺のホームページを見ると,次のようh名説明がある(「」内はコピペ).
「湯河原町の城願寺は約八百数十年前、この地(相模土肥郷)の豪族土肥次郎實平が、萬年の世までも家運が栄えるように「萬年山」と号して持仏堂を整えたことからその歴史は始まる。鎌倉時代後期には五山十刹につぐ寺格である諸山に指定され、西相模地方では指折りの禅刹だったと伝えられる。その後衰退していたが、南北朝時代に土肥氏の末裔の土肥兵衛入道が、清拙正澄(大鑑禅師)の弟子の禅僧雲林清深を開山に招請して再興。もと密教寺院だったものを臨済宗に改め、清拙正澄を勧請開山(名目上の開山)とした。やがて土肥氏が失脚し、小田原大森氏の時代になると再び衰退するが、戦国時代に大州梵守-大永5年1525年卒-(早川村海蔵寺三世、肥田山保善院三世)が再興、曹洞宗に改宗し現在に至る。」
<成願寺本堂>
■七騎堂
次いで七騎堂を見学する.
近くに建っている案内板の記事によると,石橋山合戦で敗れた源頼朝が七騎を伴って分で安房に逃れたという.謡曲でも歌われているというが,浅学の私には謡曲のことは全くわからならい
<七騎堂>
■土肥一族の墓
境内の案内板に従って,土肥一族の墓を詣でる.
一族の墓は墓地の一段と高い所にある.夥しい数の五輪塔や石塔が立ち並んでいる.下の写真は向かって左半分を撮ったものである.
鬱蒼と茂った樹木が頭上を覆っている.
<土肥一族の墓>
■素晴らしい眺望
土肥一族の墓から,相模湾を望む.素晴らしい眺望である.しばらく立ち止まって眺望を堪能したいところだが,立ち止まっているとヤブ蚊に刺されそうなので,絶えず動き回って居なければならない.
眺望を堪能した後.9時35分,成願寺を出発する.
<土肥一族の墓の前からの眺望>
<城掘公園・ゴルフ練習場付近を一回り>
■城堀公園を目指して
成願寺から湯河原方面へ向けて往路を下る.トンネル前の十字路で,もう少し歩いてみたいなという気分になる.
先ほど観光案内所で頂いた地図を見ると,近くの城掘公園というところがあるらしい.
”ちょっと覗いてみよう…”
ということで,十字路を左折する.
いきなりの急登である.最初,東海道本線の線路沿いの道だが,大きく左に曲がって高度を増す.坂の上り口には何件かの住宅が建ち並ぶ.
道路は大きくS字型に登って,9時41分,舗装道路に突き当たる.この突き当たりを右折すると幕山公園方面に出られるようである.ここを左折する.地図を見ると左折してすぐの山側に,城掘公園があるはずだが,どうも見当たらない.
その代わりに,左の海側に遊具のある児童公園のような所がある(9時43分).
”ここが,新城公園なのだろうか…?”
どうもおかしい.
<右折すると幕山公園方面> <新堀公園かな?>
■高い所からの眺望
今居る遊園地が新堀公園だと仮定して,参考のために,ここからの眺望をデジカメに収める.
前方には城山の山裾がうねるように見えている.城山の山頂は右手のかなり上の方である.山裾をもう少し左に下ると,先ほど訪れた成願寺がある.
あいにくここから直接海を眺めることは方向的に無理のようである.
<新城公園(?)からの眺望>
(つづく)
つつきの記事
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