愛と言うと、大げさで気恥ずかしくなるが
最近、人を愛する事に(特に身内に)疲れてきたかも…と思う。
クリスチャン作家の三浦綾子さんも言ってたが『恋は感情、愛は意志』と言っていて、その言葉が私は好きだった。
誰かと接する時、人は何かしら、気を使う。
優しくあろうとする人が多いと思うが、それを持続するのは難しいだろう。
優しさとは、ずっと優しくあり続けることで、そうでなければ、その優しさはただの気紛れだとも言っていた。そして、人間は不完全なものだから、赦しあって生きていかなければいけないとも言っていた。
私は自分では大らかで小さな事は気にせず、
みんなの良さをみつけられる人間だとおこがましくも思っていた。だが、最近は違うのではないかと思うようになってきた。
私は、人一倍、神経質で人を赦せない人間なのかもしれないと…。
今日は疲れているから、そう悲観的に思うのかもしれない。
でも、今までの人間関係を思いだしてみると、私はかなり我慢してきた事にきづいた。
それゆえに人を芯から愛する事のできない人間ではなかったかもしれないと思うのだ。
私はもっと本音を率直に語って生きてきたほうが良かったのではないかと思う。
2年前、少し働いた職場で私は初対面の年上の女性に「あなたは、とても温厚と言うか……。怒ったことある?」と、言われたのである。その場は適当に受け流して笑って何か答えたが、よく覚えていない。
その言葉は、とても心に残った。
よくよく考えてみると私は温厚でいる事が
美徳だと思っていた。そう、育てられたし
それを悪い事だと思ってはいなかった。
だが、嫌みのように言われると気になるものである。
私がメンタルの病気になったのも元々は、それが原因ではなかったかと…。
大らかなのに心配性。ちょっと変。
今も具合が悪いんである。
娘が苛められているのでは…?と思うと何も、手につかなかった。
娘の前では笑顔で明るくしていなければと
思ってすごしてきた。だが、いくら心配でも毎日、監視できるものでもない。もう娘も成人したのだし。
それに私も年をとる。気力、体力が衰える。
犯人の名前を言って警察に逮捕してもらいたいと強く思うようになった。
疲れがでてきたのである。
娘の心配をしすぎたのか逆に娘と接してると疲れるようになってきたのだ。
「愛する事に疲れたみたい…」って誰かの
歌の歌詞のようだ。
普通なら、もう成人したので放っておくだろう。だが、問題はハラスメントなのだ。
家族として放っておく事はできないだろう。
私はストレスで老けこんだ。
もう、懲り懲りだと思った時、三浦綾子さんの、愛は意志と言う言葉を思い出したのだ。
メンタルを病んでしまった私に年老いた両親は、優しくしてほしいと子供のように
我が儘を言う。娘は仕事は楽しんで?やっているようだが相変わらず元夫の仲間の嫌がらせにあっているらしい…。親なら、どうにかしてほしいと言う。頭が痛い。
私も仕事がしたいのに周りからとめられて?ばかり……。邪魔されてるとしか思えない。
娘にとっては愛とは、その元夫の仲間からの嫌がらせをやめさせて守ってあげることであり、両親にとっては優しく温かい笑顔と言葉で癒してあげて、家事やら介護をする素直な態度であり、皆それぞれ違う事を思っている。私はメンタルのお薬を飲みながら、それに応えないと本当の親や娘に思われず苦しい立場である。私も持病の調子が悪く、ついブログに愚痴ってしまう。
愛する事に疲れた時、人はどうなるんだろう?私はスーパーマンではない。
1人で抱え込んではいられない。
やはり、いろんなかたに相談しなければと
思う。
もっと、素直に頼れる人を頼っていかないと、病人の私が頼られて心労で倒れてしまうのではと思う。
ニュースでよく、介護疲れとか、子供と折り合いが悪くて殺しただのなんだのでているが、そうならないように私も少し行政に、頼るとか警察に頼るとかして、やっていかないともたない。
限界を感じる今日この頃なんである。
ふと気がつくと家族を心の中で罵っていたりするんである。ほんの小さな事で…。
疲れるとダメなのだ。穏やかなはずの私も、
人より文句がおおいのではないかと思ってしまう事がある。神経質だからだろうか…?
愛は疲れさせることではない。いきいきとした元気を与えることであるみたいな事が
三浦綾子さんの本に書かれていた。
私も愛されているだろうかとふと思うのである。
私はただの世話役にされているのでは?と
疑問に思うようになったのである。
心が疲れてしまっている。
先日はパニック障害がぶり返しそうになった。少し休まなければと思った。
私なりの休み方がある。
とにかく周りに気を遣わない事だ。
こんな時に……と思うが部屋でのんびりしてるのがいい。母も私を頼っているので簡単に食事作りを済ませられる物を生協から取り寄せている。なるべくなら手作りがいい。
両親は意地汚くなっていて呆れるがそれも
仕方ない。いや、本当は文句が言いたいのだ。いろんな事に疲れてしまっているのだ。
嫌々やっている自分に頼る両親と自己嫌悪。
介護はこれからだ…。
愛とかなんとか言ってられない状況なんである。愛する事に疲れた時、他人なら離れればいい。家族の場合、どうなるのだろうと、
ギリギリのところで考える私なのである。
強い意志が必要だが心が病んでいる私には、
しんどい事なんである。とりあえず、しっかりとお薬を飲んで程々にやっておこう…としか考えられない状況になってしまった。
愛とか考えなくていい。出来る事をやっていくしかない…そう思う時、愛する事に疲れた時、人はどうなるのだろうと考えずにはいられない私なのである。