2月22日、いつもいつも一人息子の私を気に掛けてくれていた母を見送った。
いつかこの日が来ることは覚悟していたが、こんなにも突然その日はやって来るのだな。。。
2/12 21:00頃、父から定例の特養に入居する母のお見舞い報告をLINEで受ける。痰が絡んで辛
そうだが、食欲はあり夕飯のことを看護師さんに聞いていたとのことだった。
2/13 朝08:30、父から電話。こんな時間に何かと思って受けたら、母が呼吸をしていないので、
特養から病院に救急搬送するので病院に同行するという。
朝09:20、再度父から電話あり「母さんダメだった、亡くなっちゃった」と。2年前に意識
失った時のこともあり、今度も大丈夫だろうと考えていたので、突然のことで頭の理解が
追いつかない。仕事を早退し急いで帰宅する。
この日は春一番吹き荒れ、自分の住む地域はいたるところ記録的な砂嵐。車で急いで横浜
に向う。強風の影響で途中の高速はあちこち事故渋滞。
昼12:20、斎場に到着。病院で対面出来ると考えていたが、既に斎場で、棺の中の母と対面。
とても穏やかな顔、亡くなったようには見えない。まだ現実として受け取れず涙も出ない。
死亡診断書をそこで確認した”急性心不全”、食事途中に意識がなくなり特養自室のベッドに
戻りAEDや救命措置が取られたがそれが最期だったとのこと。
午後15時くらいまで葬儀の打ち合わせ。葬儀の様式(宗派)、棺の色、祭壇の花、遺影の
写真、精進落としのメニュー、参列者の調整、、、、決めることが非常に多い。父と私、
男2人で不慣れなことばかりだが、やるしか無い! 横浜市は火葬場が大変混み合っている
とのことで、随分と先だが最短で2/22の葬儀と決まった。
この日ばかりは父を一人にするのも心配で、横浜実家におよそ25年ぶりくらいに宿泊した。
2/21 16:00に斎場に向かう。この日は納棺式だった。映画 ”おくりびと” で見たシーンのよう。
母にエンゼルメイクをしてあげて、旅立ちの装束を身につける手伝い。生前着ていた洋服
を身体の上に掛けてあげて、愛用していた口紅を手元に。趣味の皮工芸で作ったバッグ、
社交ダンスのシューズを足元に。好んで宿泊していた横浜や鎌倉のホテルの写真や風景を
顔の周りに。最後に我々家族の匂いのするものということで、自分は汗の匂いが付いた
ジョグTシャツを納めた。この日も横浜の実家に宿泊して明日に備える。
2/22 告別式当日。
10:30に会場に向かい葬儀場の担当さんと事前の最終確認や、お布施を持ってお坊様へ挨拶。
遠方から参列の親族が、式場の場所がわからないということで走って外まで迎えに行く。
11:30から告別式開始、初七日法要のお経、お別れの儀へと続く。ここが母に触れられる最後
の機会だったので、ほっぺを両手で触って
「今まで本当に有り難うね。また向こうで会おうね。」と今までの感謝の気持ちを伝えた。
冷たかったけど柔らかいほっぺだった。
参列者は11名、葬儀式の途中は母の大好きな ”タブレット純” の曲がずっと流れていた。
12:30にレンタルしたマイクロバスで横浜南部斎場(火葬場)に向かう。噂に聞いてた通り、
火葬場の入口から霊柩車の渋滞が始まっていた。場内も非常に沢山の人でごった返していた。
13:00、火葬炉の前で最後のお経。ここまで何度も涙を流してきたが、炉に入っていく母の棺
を見送る時が一番悲しかった。
13:20頃から控え室に移動して参列頂いた皆さんに精進落としを振る舞った。父は喪主として
挨拶、自分は母のちょっとしたエピソードを話して献杯の挨拶。控え室の正面にある大きな窓
の外に、この冬初めての雪が降り始めた。これも母の演出だったのかな。
14:20、火葬完了のアナウンスがあった。事前に聞いてはいたが母のように高齢で小さな身体
はあまり時間が掛からないようで思っていたより早かった。
父と自分で火葬炉に行き、故人と火葬炉番号の確認作業。予想していた以上にお骨が少ない。
晩年、母は歩行困難で ”くの字” に曲がっていた右膝下はそのままお骨になっていたから
間違いなく母のお骨だ。参列者でお骨を拾って骨壺に収めた。骨壺の重さは5kgくらいあり、
喪主の父は長時間抱えるのが心配というので代わりに自分が抱っこし告別式会場まで戻った。
15:30、告別式会場で解散。一連の葬儀を取り仕切ってくれた担当さんに心より感謝。こんな
機会ではあったが親しみある心から話せる方だ。毎度人との出会いに恵まれていると感じる。
16:00、父と私、妻、子供らで横浜自宅に戻り、祭壇の母にお線香をあげた。
昨年6月のコロナ入院から有料老人ホーム、特養と長らく自宅を離れていた母であったが、漸く住み
慣れた家に戻ってこれた。母さん、おかえりなさい。