久しぶりのくっきりした富士山なので、逗子まで見に行った。
蘆花記念公園からの富士山
徳冨蘆花は4年間、逗子の旅館に泊まって執筆活動を行ったそうです。
散策路には随筆「自然と人生」の文章、ちょっと読むだけでも秀逸ですね
逗子郷土資料館
横浜の実業家の別邸として建てられたとのこと
公園から10分ほど山道を行くと、
長柄桜山古墳群の2号墳に出ます
地元の考古学愛好家が1999年に見つけた古墳で、
4世紀、古墳時代前期に築造された古墳と推定されている。
どんな人が造ったのか謎だけど、この絶景、ここを選んだ気持ちはわかる
月が傾いてきた
(4世紀についてメモ追記)
卑弥呼が記載される3世紀の「魏志倭人伝」以降、倭の五王が記載される5世紀の六朝の歴史書(宋書倭国伝など)まで、
中国正史から抜けており、空白の4世紀と呼ばれている。
日本書紀の記載が頼りであり、
崇神天皇から応神天皇に相当すると考えられます。
崇神天皇は崇神天皇10年に、四道将軍を派遣した。
稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える意富比垝(オホヒコ)とされる大彦命を北陸(越、高志)へ、
大彦命の子の武渟川別(タケヌナカワワケ)を東海(会津で大彦命と会ったとか)へ、
吉備津彦を西道へ、丹波道主命(古事記では彦坐王)を丹波(~尾張?)へ派遣したという話です。
景行天皇は、子の日本武尊(ヤマトタケル)を西征の後、東征に派遣した。
日本武尊は、相模国の焼津(やきづ)、走水を通ったという話です。
日本武尊の子、仲哀天皇崩御が366~7年頃、神功皇后の崩御が389年頃、応神天皇の即位が390年頃、という説がある。
好太王碑によると、391年、百済・新羅を臣民とした倭を好太王が撃破。
百済では、392年に辰斯王が殺され阿莘王が即位。
5世紀になると、仁徳天皇、倭の五王(履中?、反正?、允恭?、安康?、雄略?)の時代となり、
大型古墳は百舌鳥・古市古墳群に移ります。
(古墳についてメモ)
四道将軍や日本武尊の平定説話に見られるように、4世紀の大和政権は地方の首長と関係を持った時期であり、
大和川水系の古墳と似た古墳が地方にも造られた。
平野ではなく段丘や丘陵に造られる、海浜型前方後円墳も多い。
海上交通や交流ルートを掌握するためとか、人々に誇示するためと言われてるようですが、
単に絶景に墓を造りたかったんではないかなぁと思います。
山道にはまだ紅葉が残ってた
瓦屋根に紅葉、京都みたい
名残の紅葉でした