日々是口実~引っ越し版~

Yahoo!ブログから引越してきました。更新の予定は。。。

全勝と昇進の陰で・・・

2010-03-29 22:11:56 | 大相撲
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大相撲3月場所は昨日で千秋楽。序ノ口の優勝決定戦で大館出身の佐々木山が、同部屋の柴原を下して見事優勝しました。おめでとう!

県勢では、豪風以外は全員勝ち越し。豪風がんばってよっ!ていうか、あんな軽いブログを書いているようではねぇ。豪風応援率30%ダウンしました。あんまり見たくないです・・・。

幕内ではご存知の通り、白鵬が13度目の優勝を全勝で飾りました。全勝優勝は実に5回目。

あの朝青龍でも、25回の優勝のうち全勝は5回。その5回目までに19度優勝を重ねなければならなかった事を考えると、この速さは異常かも知れません。それに今場所は安定感も抜群でしたね。

そして把瑠都。4大関を見事撃破して14勝1敗。これぞまさしく大関相撲といった感じでした。来場所以降、大関の役目を是非果たしてもらいたいものです。

で、その把瑠都が「役相撲に叶う~ば~る~と~」と勝ち名乗りを受けるのを見て、おやっ?と思った事がありました。

それは「矢」の受け方です。

普通、矢を受ける時は「下」から手を入れて、手首を返し、矢をクルッと回して体の横に持ってくるハズなのですが、把瑠都の場合は、上からむんずと鷲掴み。当然あの掴み方だと、矢は回転させられません。

あの矢を回す所作が、勝負の後の清涼感いうか、何ともいえない華やかさがあっていいなぁと思っていたので、気づいた次第です。

細かい事かもしれませんが、誰か教える人はいないのかな~?

その嬉しい話題の陰で、またも不祥事の報が飛び込んできた。
出羽海部屋の幕下行司、木村林ノ助が逮捕されたとの事。幼い息子への暴力容疑の様ですが、うーん、どうなっているんでしょうかね。後味が悪い場所になってしまいました。

写真は場所入りする白鵬。着物姿も「粋」ですね。

勝負審判

2010-03-26 21:29:07 | 大相撲
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2敗の雅山が3敗に後退し、全勝の白鵬と1敗の把瑠都に優勝が絞られてきたようです。2人の対戦が終わっているので、少々白鵬に分があるかな?

しかし、把瑠都は3大関を破っているので、これぞ本物の大関ですね。

この分で行くと来場所は5大関。弱い大関をなんとかする措置を早急に考えるべきだと思います。

それが出来ないのなら、他の大関と差別をつける意味でも、とりあえず「張出大関」を復活させた方がいいかな。

で、今日の本題。安美錦と豊ノ島の一番は物言いがつきました。その時の審判長は、元魁輝の友綱審判部長。

彼の説明は非常にうまかった。

「ただいまの協議についてご説明いたします。行司軍配は安美錦に上がりましたが、同体ではないかと物言いがつき、協議の結果、豊ノ島の体が飛んでおり、軍配通り安美錦の勝ちといたします。」(確かこんな感じでした。)

と、協議の理由、内容、結果が端的に述べられていた。

先日、三保ヶ関親方の時は「~と物言いがつき、協議の結果、~の勝ちといたします。」と協議内容がわからない説明でした。

かつての佐渡ヶ嶽(元琴桜)親方は「物言いがつきました”が”」というので、これを聞いた観衆が取り直しと期待して「うぉ~!」と盛り上がってしまい、何度も「が!」「が!」と客をなだめている説明には、随分笑わせていただいたものです。

それよりはいいですけどね(笑)。


写真は、数年前の貴乃花審判と、行司の木村勝次郎(現 朝之介)さんと私。今より太かったので写真小さくしました(笑)。

屋形の変遷

2010-03-20 23:19:13 | 大相撲
本場所で土俵の上にある「吊り屋根」は、正式には「屋形」といいます。


この屋形、実は時代によって形が違うのです。



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上の写真は「切妻造」。江戸時代から明治41年まではこの形でした。本を開いて被せたような形が切妻造。
ちなみにこの絵は、勝川春章 筆「江都勧進大相撲の図」



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明治42年に旧両国国技館が開館してからは、「入母屋造」になります。最初は左のような「四方」に破風がありますが、大正6年に火災で焼失してからは、右のような「二方」の破風になりました。



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そして、現在の「神明造(しんめいづくり)」。神社などと同じ建築様式になっています。
ただし昭和27年に「四本柱」が廃止されてから、現在のような「吊り屋根」式になっています。
4本の房をつけているのは、四本柱の名残です。


なぜこんな変遷を辿ったのかはわかりませんが、絵や写真を見ていたら気づきました。


こういった違いを見つけただけでも面白いですね。



雷電 秋田に来る その3

2010-03-19 21:47:01 | 大相撲
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この雷電日記、実は俗称で現役時代の巡業日記が「諸国相撲控帳」の壱と弐の2冊。引退後、出雲藩相撲頭取になってから書いた公文書「萬御用覚帳」の計3冊をひっくるめて「雷電日記」といっています。
 
その1で書いた内容が「諸国相撲控帳」の壱から、その2と今回の内容は同書の弐に書かれています。
 
で、今回は最後の訪問、文化8年(1811)6月、坂田(山形県酒田市)から秋田入りします。
 
松ヶ崎というところで、3日間18両で興行。
久保田では晴天7日間、85両に定め興行。出羽久保田では、いずれも繁盛した。
ほう沢というところでは、2日で9両、大達というところに向かい晴天3日、40両に定め7月11日に場所を終えた。
 
松ヶ崎は秋田県由利郡岩城町松ヶ崎、久保田は秋田市内、ほう沢は秋田県北秋田郡鷹巣町坊沢、大達は大館市です。こうしてみると、街道の宿場町で興行を打っているのがわかります。(旧町村名です)
 
それから一行は御城下(弘前)、小づくり(木造町?)、鞍石(黒石市?)、青森、森岡(盛岡)を回っていきます。
 
当時の南部藩は丸い土俵ではなく、四角い土俵を使っていました。
 
雷電はもしかして、盛岡の四角い土俵で相撲を取ったのかなぁ。興味が尽きません。

雷電 秋田に来る その2

2010-03-18 23:59:09 | 大相撲
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雷電来秋、第2弾です。文化元年(1804)の記述、山形は天童から秋田入りします。
 
(7月)14日秋田久保田へ到着した。場所は85両で契約 ~ 8月4日まで相撲をとった。
 
宿は秋田のやばせというところ。やばせよりみなとまで40丁もはなれていて、馬の足代が25文かかった。
女郎屋に通うのに馬代が金2分かかった。
 
馬に60貫ほどの うり なす すいかを積み、毎朝6~7里、海辺から城下まで通い、朝6時に来て9時前には売り切っていく女馬方がいた。
 
この女は自分でも40貫ほど背負ってきていた。馬も女もなかなか強いものだ。大きなうりを一本食べながら商売をしていた。帰りには馬の上に横になってタバコをふかして帰っていった。早朝2時には荷物を馬に積み終わっているという。
 
8月5日に出羽ヶ岡へ出発した。途中、六合から本庄、塩越を通ったところ壁は壊れ、家は倒壊し、石地蔵は壊れ墓石も倒れていた。塩越についたときには家はすべて倒壊し寺の杉の木は倒れ、地面深く逆さまに突き刺さっていた。
 
喜サ形では、以前来たときには陸地であったところに海水が膝までつかるようになり、満潮には首までつかるようになった。
 
九十九島といわれた景勝地も大地震で隆起し、丘になってしまった。
6月4日夜9時のことだという。
 
 
今回は秋田市内だけの巡業です。「やばせ」は八橋、「みなと」は土崎港です。豪傑な女の売り子に大変関心している様子が面白いです。
 
で、問題はその次の項。
出羽ヶ岡は山形県の鶴岡。道中、六合(岩城町?)から本庄(本荘市)、塩越(象潟町)、喜サ形(象潟)では、「文化の大地震」のあとを通っている。
 
詳しく描写しているところを見ると、前回通った頃には「東の松島、西の象潟」と比較されるほどの景勝地だった象潟が、地震により一変した様子がわかります。
 
このあと、象潟から酒田までも地震すさまじさが書かれています。この「雷電日記」は地震の研究でも重要な資料になったと思います。