自身3度目のオリンピックとなるピョンチャンで日本選手団主将を務め、女子スピードスケート1000mで銀、500mで金メダルを獲得した小平奈緒選手。
長野県出身のアスリートとして、地元民はその活躍はうれしいものです。
大学卒業時、内定していた企業への入社が白紙となり、選手生命の危機に陥ったことがある。それを救ったのが、やはり地元・長野県の相澤病院です。相澤病院は小説「神様のカルテ」(夏川草介さん著)のモデルとなり、櫻井翔さんや宮崎あおいさんが出演して映画化され話題を呼んだ、長野県内でも有数の大病院です。私も、いろいろとお世話になっています。
バンクーバー・オリンピックを1シーズン後に控えた2008年12月。長野市エムウェーブでの練習の帰りに駐車場を歩きながら、小平選手が同行していた記者に「朝日新聞で雇ってください。このままじゃ、ニートスケーターで……」と言ったそうです。地元には、スケルトンでオリンピックに出場した記者がいたこともあり、そんなことも話題にしながら、「私、自分で滑って自分で記事を書きます」言っていました。
当時の日本経済は低迷し、学生は就職難。信州大教育学部4年生だった小平選手は内定を得ていた企業への入社が白紙になってしまいました。将来は「先生になってスケートの楽しさを伝えたい」という目標が夢はあったが、結城匡啓コーチのもとで、まだ地元で競技を続けていたかったとのことです。卒業時も就職は決まらず、小平選手の両親は「1年ぐらいは面倒を見よう」と思っていたそうです。
そんな時、相澤病院の理事長は、知り合いから「アスリート(小平)が、他の会社に就職が決まっていたんだけど、事情があって行けなくなってしまったそうなんだ」と相談を受けて悩んでいました。当時同病院の事務局長が「アスリートの採用なんて、これまで考えたこともなかった。病院で採用しなきゃいけない理由もない」とやんわりと返すと、理事長は「だけど、(相談者から)『困った』といわれた。どうするんだい」と反論しました。
事務局長は理事長に対して「理事長先生は“義を見てせざるは…”という精神を持つ方です。『困っている人をなんとか助けなきゃ』と初めから思っていたのでしょう」と意図を読み取り、「(当時、同病院の職員はパートを含めて約1400人)1400分の1だったら、なんとかできるのではないですか。先生がやりたいなら私は賛成ですよ」と事務局長が賛成し、結果的に相澤病院が小平選手を救うことになりました。
最初の面接は2009年の3月末だったとのことですから、本来の就職活動の時期からは大きく遅れており、同期約100人は通常通り4月1日付の入社ですが、小平選手だけは16日付とのことです。それでも、「初任給で家族を食事に連れていけました」と小平選手はうれしそうに話していたそうです。
相澤病院にはスケート部があるわけではなく、所属アスリートも小平選手ただ1人です。小平選手は松本市から電車で1時間ほどかかる長野市のスケートリンクのエムウェーブを拠点に、大学時代から師事する結城匡啓コーチの指導を現在も受けています。当初は、午前中に2時間ほど病院で働き、長野市へ移動して午後から練習するプランもあったそうですが、「そんな生活をしていたら両方ともダメになる。『(2010年の)バンクーバー・オリンピックまで競技に専念してもらおうよ』と決めました。もし目標がかなわなかったら、うちで働いてくれればいい」とスポンサーとして生活を支える形を取っています。
そのサポートに、小平選手はバンクーバー・オリンピック初出場を果たし、女子団体追い抜きで銀メダルを獲得しました。帰国後、メダルを持って病棟を回ったそうです。病気で動けない患者やその家族の方は小平選手の訪問を心から喜んだそうです。人工呼吸器を付けた患者さんに、「小平さんが来てくれたよ。頑張らなくちゃね」と声を弾ませて話しかける家族もいました。
2014年ソチ・オリンピック後に、レベルアップを求めてオランダへの留学を願い出てきた小平選手に対して、理事長は長期出張扱いとし、二つ返事で送り出しました。「地元の長野の選手が、やりたいように競技を続けられないのはおかしい。彼女らしくスケートをしてくれれば病院も患者も地元も前向きになれる」とのことです。
相澤病院としてアスリートを雇用するのは異例で初めてのことでした。給料はもちろん、家賃に遠征費、オランダ留学の滞在費だって支援しています。もちろん、海外遠征の費用もサポートしています。
理事長は3代続く医師で、父からは「利益が出たら世のために使え」と言われてきたそうです。脇目を振らずに競技に打ち込む小平選手の姿勢に心を動かされ、「スケートに人生をかけている。あれだけ追求できる人はいない」と支え続けるそうです。
小平選手の好きな言葉は「勇往邁進」だそうです。
スケート部のない高校に進んで同好会で活動し、実業団の誘いを断って大学へ進みました。選手生命の危機でもあきらめず、決めた道を真っすぐ進んできました。
その一念が実を結びました。そして、それとともに小平選手の頑張りから、元気や勇気をもらっている方はいっぱいいると思います。
小平奈緒は信州産!