【侍従長・入江相政の随筆「古典逍遥」より(抜粋) の巻】
■南伊豆早春
両陛下のお供で、伊豆の須崎へ行く。
藤沢、辻堂、このあたりに限ったことではないが、
東海道の沿線もすっかり変わった。
(中略)
下田の駅からまもなく海。
吉田松陰は、長州の萩からここまでたどりつき、
アメリカの船に載せてもらって、
国禁を犯してこの浜からアメリカに渡ろうとした。
私の祖父は、明治五年にドイツに行き、農芸化学を学んだ。
心臓を病み、志しなかばにして七年に帰国、
そしてすぐこの世を去った。
私なんか全く意気地なしで、昭和四十六年に、
それもひとりでいくのではなく、
両陛下のお供でというのに、外国行きは気が重かった。
先人にたいしてはずかしき極み。
でもいよいよ行ってみれば、驚きがつづき、楽しいことばっかり。
(中略)
生きたるもの蓋しや無けむ極北は大空も海も凍て果てにつつ
今日、両陛下のお車に陪乗しながら、
松陰のひそんだあたりが目に触れた時、
わが身のだらしなさを、祖父に恥じ、松陰に恥じた。
「玉泉寺」という看板、ハリスはこの奥にいた。
そして「駕籠で行くのは お吉じゃないか」、
日本の黎明の世の話である。
◇
思い返すと、わたし(漂流男)も20年ほど前、
中国・天津にひとりで行ったっきり、だったか。
渡航は、このところ、とんと、ご無沙汰。
空港のタクシー乗り場では日本語も英語も通じず、
漢字なら分かるだろう、と筆談でホテルへ。
翌日、現地通訳と会うまで、大変だった。
「よく、何事もなく、たどり着きましたね」
某法人会長(党幹部)や、別の現地法人社長(日本人)から
お褒めに預かった。
新型コロナ騒ぎもあって、もう海外には行かないかもしれないな。
映像メディアの発達で、あちらの様子が見られないワケではないが
自分の足で、目で、鼻で、耳で、指先・舌先で感じるのは全く違う。
そう思うと、せっかく世界が狭くなってきたというのに、
逆戻りしたかのようで、遠く感じるのに一抹の寂しさがある。
在宅勤務の「おうち生活」が増え、定着して久しいが、
これから見ることのないかもしれない世界のことを
ぼんやり考えるようになっている。
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いりえ・すけまさ 明治38年、東京生まれ。昭和4年、東大文学部卒。学習院で教鞭をとる。侍従になり、同44年に侍従長、60年死去。座談の名手で、硬軟織り交ぜたユーモア、機知あふれる語り口に定評があった。著書に「いくたびの春」「侍従とパイプ」「天皇さまの還暦」など多数。「古典逍遥」は没後の1986年初版。遺稿となった書下ろしを多数収録している。1300円。