不思議活性

太陽の画家 フィンセント・ファン・ゴッホ 1



 私は小さい頃から絵を描くのは好きでした。いつからか、絵を描くことから遠ざかっていますが、ゴッホについて、自分なりに書いた記事(2014年・平成26年)を紹介いたします。

『太陽の画家 フィンセント・ファン・ゴッホ』

    1 
 
 ファン・ゴッホは幾度か発作し、狂気のようにいきりたったことも珍しくない。しかし、その芸術は、常に整然として一糸の乱れもなく秩序たてられ、計量され、狂いのない厳正な組み立ての上に、すっきりと形成されている。
 狂気の暗さをまじえて、かれを余りにも悲壮な天才に描きすぎると、アルル時代以降の、微塵も湿り気のない晴々とした感性と堅実な表現は、納得することができないものになろう。
 以上の文に出会った私は、なるほどと思いました。確かに、ゴッホのあまりに真面目で一途な生き方は、周りの人に敬遠されたかもしれません。また、それゆえゴッホ自身の苦しみや悲しみに思いがいきますが・・・・。波乱に満ちた短い生涯にゴッホが残した作品の数々は、21世紀の今見ても、とても新鮮です。もっとも、私がゴッホの作品をじかに見たのはほんの数点だけで、これから紹介していくのは、印刷された挿絵ですが、それはそれなりに魅力的です。
 たとえば、『糸杉と星の道』や『星月夜』などの絵ですが、それらの絵を見ている私が、目に見えぬ宇宙の渦に呑み込まれてしまいそうになります。もし、これらの絵のなかに入っていけたら、きっと、星たちの囁きを聞くことが出来るのではと思う私です。

 簡単に、フィンセント・ファン・ゴッホの足跡を紹介します。

・1853年3月30日、オランダの北ブラヴァンド、フロート・ズンデルト村に生まれる。
・1869年(16歳)ハーグの画商グービル商会の店員となる。
・1876年(23歳)グービル商会を解雇され、牧師をこころざす。
・1880年(27歳)画家になる決心をし、ベルギーのブリュッセルへ。
・1881年(28歳)エッテンの父母のもとに帰る。オランダ時代。
エッテン(1881年)ハーグでモーヴに師事(1882年) ヌエネン(1883年末~1885年)
・1885年(32歳)3月父死亡。11月アントワープへ移る。
・1886年(33歳)1月、ベルギーのアントワープの美術学校へはいったが、3月、突如パリへ出る。
・1888年(35歳)2月、アルルに移る。
アルル時代。(1888年2月~ 1889年5月)
・1889年(36歳)5月、サン・レミの精神病院へ。サン・レミでの療養時代。(1889年5月~ 1890年5月)
・1890年(37歳)5月、オーヴェル・シュル・オワーズに移る。7月、死去。


『太陽の画家・ゴッホ』

きみは 生きることに
とりつかれたのかな
いやいや 誰もが
幸せであることを
願いながら

日々の経済的自立
に悪戦苦闘している
自分を見ます
そんななかで
貧しい人に自分のパンも
与えてしまう きみ

そして 描くことの情熱は
誰にも負けはしないきみ
そんなきみは ぼくの憧れ
です・・・。

きみが描いた
アルルの跳ね橋や
ラ・クローの田園風景の絵が
大好きな ぼくではあります

ああ きらきら輝く星月夜や
糸杉と星の道に きみは
何を見たのだろう

ゴーギャンとの
爆発的な出会い
サン・レミでの精神療養
のとき きみは
訪れる死を予感して
いたのか

生きるということの
眼差しが 溢れるおもいが
きみが描いた数々の絵に
映しだされています 

太陽の画家 ゴッホです。


・続きは次回に・・・・。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「絵画」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事