マックス・ピカート著『沈黙の世界』から。
言葉は、自己がそこから立ち現われたところの沈黙と、つねに連関を保っていなければならない。
人間の言葉は単に真理のみによって決定されるのではなく、また愛情によっても決定されている。言葉は愛情をこめてふたたびその源泉を振り返るのである。一人の人間の内部にある沈黙は、その人間の生涯を超える。そして、この沈黙のなかで、人間は過去及び未来の世代につながっているのである。
愛のなかには多くの沈黙があり、愛の女神アフロディーテも沈黙から生れたのである。沈黙は過去・現在・未来をひとつとして、言葉だけでなく相愛の人々を始原へと連れて行きます。
そう、幼児は沈黙の一つの小さな丘のようです。この沈黙の小さな丘から突然言葉があらわれ、幼児の言葉は始原からの言葉であるゆえ幼児の語る言葉は詩的です。幼児の沈黙から語ることの出来る大人は幸いです。
そして、老人の言葉もふたたび沈黙に向っているのです。老人は、他の人々に語るよりも、自分自身の沈黙にむかって語りかけるのです。
老人は、子供であったときに殆ど気づかれることもなく、沈黙から受けとった言葉を、彼自身が地上を立ち去るまえに、今やふたたび沈黙に返そうとしているのです。
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思えば、離れて暮らす長女に赤ちゃんが誕生したときの喜びを、自分なりに一篇の詩にしたのが、
『再生の詩』
つぶらな瞳の
小さな赤ちゃん
生まれたばかりの
小さな赤ちゃんを
見ることの
よろこびとしあわせ
小さな赤ちゃんが
初めて見る
この世界の奇跡と
つぶらな瞳
母さんの笑顔と
背伸びをする
小さな赤ちゃんの
しあわせとよろこび
生まれたばかりの
生きる力と
つぶらな瞳の
小さな赤ちゃん
それから、下の子が出来、その子も今は二歳。長女は、何かと、忙しくも楽しい日々を過ごしています。私はというと、リタイアして二年、つましい年金暮らしの静かな日々ではあります・・・・。
日課として、ブログ仲間への訪問が楽しみですが、いつのまにか更新されなくなり、止まったままのブログに出会うとどうしているのかなと・・・・。でも、思えばそれらの人たちとも沈黙のなかでつながっているのであり、それぞれの過去につながり未来につながっているのですね・・・・。