私が、初めて自死(自殺)ということに考えがいったのは、高校生の時でした。同じ部活動の仲間のひとりが、学校に来なくなったのは、後日、自死したからだと耳にしたのです。それと、授業中、教師から三島由紀夫が割腹自殺をしたと聞かされたことも思い出されます。また、高校を卒業してから三十年もたった頃、出会った幼なじみから、「小学生のときの友のひとりが、三十代の半ばで自死となり、今はその家には誰も住んでいなくて、その傍らを通るたびその友を思い出す。」と・・・・。
その自死(自殺)についてですが、自殺は様々な事情が絡み合って行われ、自殺の多くは、人生のストレスが各人の対処能力を超えてしまい破綻状態となって、たとえば経済的苦境、人間関係の破綻、病気と疼痛などの長期化などによって行われると。
また、自殺というと、36歳の頃に亡くなったフィンセント・ファン・ゴッホや芥川龍之介のことを思い浮べます。それに、幾人かの著名人が・・・・。 私がなぜ36歳頃を気にするかというと、私が結婚したのが36歳の頃であり、振り返れば、結婚した36歳頃から自分の人生が新しく始まっていったのに、それらの自殺者は、その36歳くらいで、人生を終わりにしていたからです。
もっとも、自殺者は10代から80代までどの年齢でもあり、年齢は余り関係ないのですが・・・・。ちなみに、厚生労働省による令和4年度ですと、男女の構成割合は男性が67.4%、女性が32.6%と、男性は 女性の約2倍であった。 年齢階級別にみると、総数では「50~59 歳」が4,093人と最も多く、次いで「40~49 歳」(3,665人)、「70~79歳」(2,994人)の順で 多かったとありました。
50~59 歳が最も多かったのは、若い人の自殺と違うのは、自分の人生をある程度生きて来て、もう自分の人生はそれなりに生きたのだから、もうこれ以上生きることはいらないのでは(それぞれの理由があり)と・・・・。10代20代の若い人は、若さゆえの純粋さから内向的に自殺に走ってしまうのではないのかと思う私です・・・。
それら自殺ですが、衝動的な自殺は別として、自分がこの世に生きている意味が感じられない虚無感のようなものから来る自殺もあるのでは。やりがいや目標がない、大切な人を失った、趣味が何もない、理想と現実のギャップを感じている、睡眠不足、コロナ自粛、など・・・・、「もう生きられない」「死ぬしかない」と追い込まれた末に亡くなっているのではないのか・・・・。
また、自殺に至ったその人自身、本当は自殺に至ったということに納得してはいなかったのではと思う私です。
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改めて考えるに、自死に至ってしまうひとつには、その人自身、生きていることの充実感、生きていることの実存感のようなものが無くなってしまったのではないのでしょうか。
その原因のひとつとして、人と人とのあたたかな心のつながりを持てなくなってしまうことがあるのでは。人って一人では寂しい存在だと思います。
自分の気持ちをわかってくれる人と出会えたら、人ってうれしくなりますよね。思えば人ではないですけれど、一緒にいる犬と気持ちが通じあえることもうれしいですね。そんなわけで、やっぱり、身近な家族との心のふれあいが、一番大事かも。オギャーと生まれた赤ちゃんは、母親とのスキンシップとともにあたたかな愛情を感じて育っていきます。愛情を感じて育った子供はいつしか成長し、異性を恋い慕うようになり、社会人となった大人は周りの人たちの愛情を感じるようになります。
人生においての人と人との出会い。その出会いが一度限りということは多いでしょう。私自身ふり返って、二十歳前に上京しそこでの七年間ほどの一人暮らしでしたが、そこで出会った人たちとはその後、殆ど逢うことはないのですが、今となっては、それらの人たちとの出会いにおいて愛情を感じることが出来たことはしあわせだったなと・・・。
・『自死について』ですが、自死に至ってしまうひとつには、その人自身、生きていることの充実感、生きていることの実存感のようなものが無くなってしまったのではないのでしょうか。と、書いたように、『いかに生きるか』ということにつながってくるお話でもあるのでは・・・・。
生きていることに喜びを感じることが出来る人には、自死という言葉は無縁ではないでしょうか。私は人生って何なのか何もわからない、社会人になって数年たった頃、静かに目をつむり内面を見るという瞑想ということに出会ったことが大きな出会いでした。それは、今でも続いている新しい自分との出会いなのです。いろいろ考えたりする自分があるのですが、その自分とは、宇宙そのものであると感じられれば、こうして、この地球に生きていることは、素敵なことなんだと思えるのではないでしょうか。