詩について 4 に書きましたが、1983年から1992年の間、詩誌『月刊近文』が、送られてきたのですが、実際はほとんど読むことなく積読だったのです。それが、過去を顧みるようになり、40年たって本棚から拾い読みしてみるのでした。
1984年度 詩誌『月刊近文』より紹介です。
『仏さまの顔』 嵯峨京子
世の中には似た人が三人いるといいます
京都蓮華王院、三十三間堂には
中央の千手観音座像を中心に
左右五百体づつ等身の千手観音立像がおわします
嫁いでからはじめて娘の手をひいて訪ねます
娘にはわたしによく似たお顔を探すようにといい
わたしは母の顔を探します
世の中には自分に似た人が三人もいるのです
千体もの仏さまなのだから
一体ぐらい似た仏さまがあっても良いと思うのですけれど
娘もいっしょうけんめいわたしの顔を探します
母の顔を知らないわたしはわたしの顔を探します
親子はいずれ別れなければならないもの
女の子はよそ様の預りものと思って育てよとか申します
娘はここで母の顔を探したことを覚えていてくれるでしょうか
おばあちゃんにそっくりの仏さまがいたよ
そうなのです
主人の母に似た仏さまはいらっしゃるのですが
『駅__しらない風景』 前田敦子
一度もおりたったことのない
それでいてなつかしい場所
窓からみるだけの風景
いくつもの駅と同じようでいて
すこしずつ違った顔をしている
知らないことが違うという感覚を生み
刺激的なそぶりをみせて
激しく引きつけさせる
降り立ってしまえば
きっと 見なれたというよりももっと
見たくもない風景に変化してしまうのだ
記憶の底に無造作に捨てられ
なつかしさのかけらも感じさせずに
ゆっくりと日常に組み込まれ
窓からも見えなくなるのであろう
かかわりのない部分での
知らないこととの甘い邂逅
好奇心はふくらみながら
日常のなかを濾過してゆく
『幼女沼』 小坂直子
柔かい手の人と握手すると
自分の手が柔かく感じる
声の通る人と歌を歌うと
自分の声がよく通っているようでうれしい
可愛がられて育った人と
一緒にいるのが好きだ
人を信じることができ
自分が愛されていることを疑わない人といると
埋まることがないと思っていた
私の幼少期の空洞に
温かいものが注がれていくように思う
いい人といると
欠けている部分が
満たされていくのがわかる
『静座に』 当間万子
手を合わせて
座っていたいのです
無念にはなれないけれど
生きてきたことが 許されて
これからも生きてゆけそうな気がするのです
手を合わせて
座っていたいのです
幾億光年も前から
つづいていたのか 私の命
だから女の業も 罪も
宿命みたいにみえて
少しは気が楽になるのです
手を合わせて
座っていたいのです
あまりしあわせではなかったけれど
いつもしあわせだと思えたのは
天地の存在に
こころ 馳せていたから
小川を流れる水のように
岩や草の根にぶつかりながら
澄んだ水でありたい
ちろちろと流れて
静かに終る命でありたい
唱名も読経も
私には必要なく
いつまでも座るのです
・積読のままの詩誌『月刊近文』を読み終えるのはいつになるか、ときどき、これからも紹介していけたらな。それらが書かれたのが40年も前だったとしても、今こうして読む自分にとっては、今現在のことですから・・・・。