トアール星にて。
『考える山』
先日、ぼくは、次のような文章に出会いました。
・・・人間の心というのは他の人の心と共通の基盤をもっているはずなのに、それが失われてしまったときに、自分が生きている根源から浮いたようになってしまう。そのときには皆、非常に不安定な、いわゆる鬱の状態になる。それが今の世の中だから、真面目な人ほどそういうふうになりやすいのです。そして、気の小さい人ほどそういうふうになりやすい。
そうかも知れません。 人はみな誰でも淋しがり屋で、心を開いて話せる友を必要としているのですね・・・。
そう、ある日のことです。 ぼくが、ワクワクランドにある考える山にひとり登ったのは、あたたかな陽ざしがまぶしさとともにキラキラ輝いている日でした。考える山は標高1000メートルほどの頭は岩だらけで中腹から下は、松やブナなどの林におおわれていました。ぼくがなぜ考える山に来たかというと、自分でも良くわからなかったのです。ただ、足が自然と向かったのです・・・・。
もっとも登ったと言っても頂上ではなく、ブナ林のある中腹あたりまででした。そこで目にしたのは、小さな少し色あせたな立て札でした。そこにはこう書かれていました。
・この山に入るにはよーく考えてください。なぜあなたはここに来たのか?
おかしな看板でした。ぼくはそんな文句を気にすることなく、ブナ林のなかへ入って行きました。チィチィとどこからか小鳥たちの声が聴こえてきました。ぼくは思いました。いつかこんなところへ来たことがあるような気がするな・・・・。
ぼくの頭のなかには、次のような言葉が浮かんできました。
死んだ人なんかいないんだ。
どこかへ行けば、きっといいことはある。
夏になったら、それは花が咲いたということだ、高原を林深く行こう。
林の奥には、そこで世界がなくなるところがあるものだ。
そこまで歩こう。それは麓をめぐって山をこえた向うかも知れない。誰にも見えない。
僕はいろいろな笑い声や泣き声をもう一度思い出すだろう。
それからほんとうに叱られたことのなかったことを。
僕はそのあと大きなまちがいをするだろう。
今までのまちがいがそのためにすっかり消える。
ぼくは、その言葉の意味を考えてみました。
死んだ人なんかいないんだ。ということは、人間は誰も死ぬことはないんだ。この世で肉体は消えてしまうけれど。魂は、生き続けるのだ・・・・。
それから、ほんとうに叱られたことがなかったということは、生まれたままの無垢な状態を指しているのだろうか。
そして、そのあとの大きなまちがいとは何だろう・・・・。そのことによって、今までのことがすっかり色あせてしまうということなのだろうか。
ぼくは考えました。大きなまちがいと言うが、誰でも、あやまちはあるだろう。ぼくだって、振り返って見れば、誰にも言えない、自分の心だけが知っているあやまちが幾つかあります。もし、その幾つかが、おもてだって他の人に知られてしまったら・・・・。いやいや、そっと閉まっておかねばならないあやまちなのです・・・・。
完全な?人間なんていませんから、人間ってあやまちを犯して当たり前な存在なのかも知れません。ただ、あやまちに気づいたら、再び同じあやまちをしないように気をつけていかなければなりません。でなければ、世の中は、まちがいだらけになってしまうだろうから・・・・。
おっと。考える山に来たせいか、普段は頭のなかはからっぽなのに、いろいろな考えが浮かんできます・・・・。おや、いつのまにか、わかれ道が見えてきました。
ここにも小さな立て札があります・・・・。
・よーく考えてください。左の道を進みますか、それとも右の道を進みますか?
立て札の下のほうには添え書きのように、小さな文字で書いてありました。左の道は過去への道、右の道は未来への道です。
ぼくは考えました。左へ行くか右へ行くか。でも、ぼくの足は、頭のなかの考えを気にすることなく、右の道を選んでいたのです。なぜって、やっぱり、どんな未来が待っているのか、そっと覗いて見たくなったのですから・・・・。
* * * * * *
その後どうなったかと言いますと、未来の道を歩き始めたぼくでしたが、途中で霧が立ち込めて元の分かれ道、現在の地点に戻り下山となったのです。なかなか未来は見ることができないのがこの世かなと思いもしたのですが、下山してワクワクランドの輝く青空を、何を考えるでもなく見上げたぼくは、「考える山」のことも、すっかり忘れていたのです・・・・。
ところで、いつからか、ワクワクランドの考える山がどこにあったのか、ぼくは、とんと思い出せないのです・・・・。
・『トアール星と地球』のお話、続きは次回のお楽しみに・・・・。