『老子道徳経』
リタイアして、本棚を見ると、本棚には何十年も前からあるのに手つかずのままの本が幾つもあります。自由な時間が出来たので、ゆっくりですが紹介していけたらなと。
『老子』万物平等の人生論・瀬尾信蔵著より
序より。万物は平等であるということは、天地自然の道の根本原則である。
知恵や、力の劣っている者には、教えなければならないときがあり、また、救わなければならないときがあるが、恩を着せると思われないように、見えないように、感知されないように、相手を援助しなければならない。
そのことは、有道者自身、及び道を会得せんとするものを鍛錬せしめ、向上せしめることにもなる肝要なことである。老子八十一章に於いて説かれていることは、ことごとく、この事に関することであると考えられる。
道を、あゆむということ、行うということは、これほどやさしいことはない。また、これほど難しいことはない。それは、道を行わんとするものの立場、道を守らんとするものの能力は、千差万別であるからである。
しかし、道を守り、道を行わんとすることは、立場や、境遇や、能力の如何にかかわりなく、地上に於いて、或は、この世に於いて最上の事である、ということには変りはない。
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第一章 体道(道を体する)
道の道とすべきは常の道に非ず。
名の名とすべきは常の名に非ず。
無名は天地の始め、有名は万物の母なり。
故に、常に無欲にして以て其の 妙 を観、
常に有欲にして以て其の 徼(きょう) を観る。
此の 両者 は同じく出でて名を異にす。
同じく之を玄と謂う。
玄の又玄、 衆妙(しゅうめう)の門なり。
妙は、平常に於いては感じること、考えることのないことが脳裏に浮かぶことをいうのである。脳裏に浮かぶことは、同一の人に於いても、日によって変ったことが脳裏に浮かぶことと思われる。また、人によっては何も脳裏に浮かぶこともなく、閉目したままでいる人もあるであろうと思われる。
妙を観る、ということを経験するために行うことは、一日だけに終わらないで、数年、或は、生涯のこととして継続してみるべきではなかろうか。
徼を観る、ということも毎日努力して経験を重ねて行くことが必要であるように思われる。徼を観る、ということは、自己の職業としていることに、終日努力をなし、成果を挙げることを指す。職業は農業に関するものであっても、工業に関するものであっても差支はないわけである。
同じく出でて名を異にす、というのは、妙も、徼も、専心努力した結果に於いて経験することができることであるから、奥深い意義のあることであるというのである。
玄の又玄 衆妙の門なり
玄の又玄は、奥深い意義のある上に、更に奥深い意義のあることを指すものである。
門は、境地を指すものである。
奥深い意義のあること、すなわち、常に無欲にして以て、其の妙を観、ということと、常に有欲にして以て其の徼を観る、ということを併せて修養の方法として長年励行しているうちには、いつとは無しに、変った境地に達するようになるのである。
それは、何ものにも、また、何事にも捉われることなき思想、考え方、心の動きを感ずることがあるようになるのである。
・『老子道徳経』 は、第八十一章まであります。一章・一章紹介していきたいと思います。第二章は次回に・・・・。