地図で日本列島を俯瞰すると,だいたい中央が滋賀県になり,ぽっかりと空いた部分が琵琶湖となります。
古来,政権交代が行われる際に,決まったようにこの近江地方が舞台となりました。
壬申の乱に始まり,瀬田川攻防戦(源範頼vs今井兼平および承久の乱の際の朝廷軍vs幕府軍),建武3(1336)年1月の北畠顕家軍vs足利軍・・・と来て,信長関連は山のようにあります(観音寺城攻防戦,姉川の戦い,横山城・小谷城攻防戦,宇佐山城攻防戦,比叡山延暦寺焼き討ち等々・・・)。
秀吉だと賤ヶ岳の戦いが有名ですね。
また,関ヶ原の戦いの際は,江の姉のはつが嫁した京極高次の大津城攻防戦がありました・・・。
まだまだ調べれば幾らでも出てきそうですが,京の入り口として東国から西上する際にも必ず通過するのが近江であり,琵琶湖東岸は美田地帯なので政争の舞台となるのも当然と言えましょう・・・。
近江-淡海とも近海とも言われ,扶桑第一の湖である琵琶湖を海と古人は準えたのでしょう。
近江の反対語は遠江(とおとうみ)となります。
こちらの海は,勿論浜名湖ということになります。
さて,ここまで能書きをたれておきながら,実は近江路に足跡を印したのは,比叡山-琵琶湖大橋-石山寺を回った高校の修学旅行を除くと殆どありません。
その時気に入った石山寺を3年半後に再訪したことと,その時ご苦労なことに上越-北陸-湖西線回りで上洛したこと,西大津駅(現大津京駅)で下車したこと,翌年京都から中央西線の夜行に乗った際に,連絡待ちで数分大津駅に停車したので,スタンプを押しに改札から出たことぐらいしかありません。
つまり,2回しか下りていないことになり,見たのは石山寺のみということになります・・・。
あとはすべて通過。
新幹線からの琵琶湖の眺めははっきり言って良くないですし,せいぜい瀬田川渡河の際にちらりと見える程度です。
だから,間近に琵琶湖を見たのは,高校の修学旅行以来・・・否,そのときだって車窓から見ただけですので,湖畔を歩いたのは,今回が初めてということになります・・・。
三井寺から大津港へ歩き,その後近江八景のにおの浜まで行くことになり,結局京阪膳所駅まで琵琶湖南岸を歩くという暴挙を敢行してしまいました。
途中,粟津の松原に散った木曾義仲と彼を慕った芭蕉の墓がある義仲寺(ぎちゅうじ)の門前を通りました。
また,打出浜では明智左馬助の湖水渡りの碑を偶然発見するなどの収穫もありました。
この明智左馬助とは光秀従兄弟の光春とも,重臣の秀満だったとも言われます。
山城国大山崎の合戦に光秀が敗れ,秀吉軍が近江にも進軍してくることになり,東岸の安土城を守左馬助は光秀の妻子の居る坂本城(西岸の比叡山下)に急行すべく,打出浜から湖水に馬を入れます。
水馬と言って,馬を水中で泳がせる技術が馬術に有ったといいますが,左馬助は何と2kmも馬を泳がせ,対岸の柳ヶ瀬に上陸。
その後坂本城へ入り,光秀妻子を刺し自害したといいます。
勿論,伝承に過ぎませんが,その子孫が土佐に逃れ,故地坂本を姓として・・・といったことはかつて述べました・・・。
琵琶湖畔の湖都大津の風光は底抜けに明るく,この地域が古代以降幾度となく血生臭い抗争の地となつたことを完全に忘れさせてくれます。
大津港自体が完全に近代的で瀟洒なものであることは,かつて読んだ「琵琶湖周航殺人歌」(内田康夫著,コミカライズはこちら,映像はこれ)の描写で分かってはいたのですが,周囲の建物と湖の明るさが調和し,好ましいただずまいに思われました。
ただ,市内第一の豪華さを誇る(と思われた)琵琶湖ホテルの外観はさほどでもない・・・と思いました(第二と思しき琵琶湖プリンスホテルは遠くから見えただけなので分からず)。
・・・ということで,今日はここまでにします。
この後の石山寺編も書いたのですが,完全に暴走モードに入ってしまいました。
それは明日にでも・・・。大津港。比叡山がくっきり見える。
大噴水が上がる
湖水の彼方には・・・
次第に遠ざかる・・・
石山寺へ向かう京阪の車内はご覧の通り・・・。
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