私はこの境域のどの一角も好きである。
とくに一カ所をあげよといわれれば,二月堂あたりほどいい界隈はない。
立ちどまってながめるというより,そこを通りすぎてゆくときの気分がいい。
東域の傾斜に建てられた二月堂は,懸崖造りの桁や柱に支えられつつ,西方の天に向かって大きく開口している。
西風を啖い天日没のあかね雲を見,夜は西天の星を見つめている。
二月堂へは,西の方からやってきて,大湯屋や食堂(じきどう)のずっしりした建物のそばを通り,若狭井のそばを経,二月堂を左に見つつ,三月堂と四月堂のあいだをぬけて観音院の前につきあたり,やがて谷へ降りてゆくという道がすばらしい。
(司馬遼太郎著「街道をゆく」奈良・近江散歩より引用,朝日文庫刊)
私のような凡百の者が,如何なる美辞麗句を尽くしたとしても,この素晴らしい建造物について語ることは,不可能だと思う。、
それが故に,端的にその良さを示している文面を,引用させていただいた。
大和を訪れたこの日,私は上着のポケットに,この文庫本を忍ばせておいた。
特に理由は無い。
只,それが一番相応しいことと,勝手に思ったからである・・・。
今回は,手向山八幡宮から,その上にある不動堂に登って詣でたので,東大寺二月堂には,少し降りていくようなアプローチとなった。
5年前に訪れて以来(多分,修学旅行でも,その後の関西紀行でも行っている筈だが),私はこの二月堂のただずまいと,眺望が大のお気に入りとなった。
大和盆地を一望できるのが,先ず素晴らしい。
大仏殿の甍の向こうには,彼方の生駒~志貴の山系の麓まで,広大な大和盆地が広がる。
まさに,やまとはくにのまほろば・・・といった風情である。
久々に日の高いうちに訪れたのだが,今まで訪れた夕刻には,次第に点る灯が増えていくという独特の情緒を味わうことができた。
若草山の頂からも,きっとこのように大和盆地を俯瞰することができようが,その風情は天平の昔から変わらないと思う。
以前も幾度となく述べたが,遣唐使として不本意ながら異郷に果てた阿倍仲麻呂(698-770)や井真成(いのまなり699-734)といった人々の脳裏を終生過ぎったのは,きっとこの美しい平城の都の風物だったのではないだろうか・・・。
遠く異郷にある者にとって,国とは,政治機構とか組織といったことを超えて,土や風の臭いとか木々の緑や葉擦れ・・・といった自然の織りなす現象こそ先ず第一に手折られるべきことなのではないだろうか・・・。
天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも 阿倍仲麻呂
皮肉なことに,これは天平勝宝4(852)年,帰国の途に就き,故郷を偲んで詠んだ句とされる。
周知の通り,暴風雨による難破により,帰国は果たせなかった訳だが,遣唐使船の生還率は30%程度という話を聞いたことがあり,まさに決死行であったと言えよう・・・。
玄宗皇帝にに仕え,安史の乱を経て高位に上り(安南-ヴェトナムの総督も務めた),異郷に没した仲麻呂の無念は,如何ばかりだったであろう・・・。
真成は,仲麻呂の1つ年下と想像されている。
というのは,平成16年に西安で,当時の墓誌が見つかり,日本からの留学生で官吏の井真成が35歳で亡くなった・・・というものだったらしい。
非常に勉強家で,官吏としても優秀だったと記されていたという。
どうやら,仲麻呂と同時期に入唐だったと思われ(吉備真備とも一緒ということか),それ以外のことは,皆目分からないというのが現状のようだ・・・。
まだ10代だった若き日の彼等も,ここに立ったのであろうか。
東大寺の成立が,740年代とすると,彼等は二月堂には登らなかっただろう。
但し,三笠山や若草山からの大和盆地の俯瞰はしていたと思いたい・・・。
この二月堂の創建は,やはり天平年間だったと思われるが,何と二度の戦火から奇跡的に逃れたらしい(1180年,平重衡の南都征伐と,1567年の三好党と松永久秀による戦い)。しかし,江戸時代初期に,お水取りの最中に失火して全焼。
現在の建物は,その後に造られたものとのことだ。
因みに,二月堂という呼称は,上記お水取りが旧暦2月に行われたことから,起こったらしい。
若草山の山焼きも含めて,一度見てみたいものだ・・・。
毎度のことながら,後ろ髪を引かれる思いで,二月堂を後にする。
降りる回廊がまた素晴らしいし,正倉院や大仏殿に至るまでの道筋の雰囲気も素晴らしい。
そして,一気に人が増える大仏殿前を経て(必ずトイレに入るのだが),南大門に至る。
天竺様と言われる鎌倉初期の傑作であるが,左右の金剛力士像を見る。
さすがに,上の子も運慶と快慶の作と知っていた。
この素朴な力強さこそ,鎌倉の武家文化の象徴なのであろう。
私なんか,ついつい昭和54(1979)年の大河ドラマである「草燃える」のタイトルバックを思い出してしまうのだが・・・。
東大寺を後に,東大寺大仏殿・国立博物館バス停までの間に,森鴎外の旧居の門を見つけた。
晩年の鴎外は,国立博物館の館長を務めたという。
その官舎の門が残されていた。
本日3本目のバスで,切符の元を取る。
まだ日は落ちていなかったが,疲れたので京都に戻って夕食を摂ることにする。
勿体ない話だが,家族連れの辛さでもある・・・。
往路同様近鉄急行で帰途に就いたのだが,京阪三条に行きたかったので,丹波橋で京阪に乗り換えた。
夕食については後述したいが,京阪三条からの地下鉄の運賃は,嬉しいことにフリー切符に含まれていた。
そして何よりも,帰途に就く際,万感の思いでふりさけ見た若草山の斜面に西日が照り映えていたことが,印象的だった・・・。
(ようやく2日目終了・・・)
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