若草山の北側にあるのが,手向山八幡宮である。
途中一刀彫りの店があり,見事な民芸品を見ることができる。
私は買わないでしまったが,大和鍛冶の刃物同様,良い南都土産となることだろう・・・。
実は,この手向山八幡であるが,高校の修学旅行で来たことがある。
ここは,受験に御利益が・・・と解説され,皆挙って合格祈願のお守りを買った。
さらに翌年,修学旅行帰りの後輩から,同じお守りを貰った。
以来,この手向山八幡宮は,私の青春の妄念が宿る場所となった。
何故,受験に御利益があるのか,当時の私は知る由もなかったが,同級生に故事に詳しい奴が居て,
「ここは菅公(菅原道真)所縁の地だ」
と,教えてくれた。
「それって,太宰府天満宮とか,京都の北野天満宮じゃないのか」
と,その程度の知識しかない私が聞いたところ,
「此の度は 幣もとりあへず手向山 紅葉の錦 神のまにまに という歌が,百人一首にあるんだよ」
と,教えられた。
確かに,その通りであるが,私が百人一首を覚えたのは,もっと後のことだった。
調べてみると,東大寺の建立の際に宇佐八幡から勧請されたらしい。
現在の位置に移ったのは,北条時頼による再建の時らしい。
つまり奈良時代に建立され,源平の兵火を経て,鎌倉中期に再興されたと言うべきだろうか・・・。
朱塗りの社殿は,雅楽が似合いそうな雰囲気で,古都奈良に相応しい面持ちだ。
幾度となく訪れてきたが,今回が一番ゆっくりと参拝できたと思う。
因みに,かつて調べたところ,私の母方の姓は,菅原流だそうだ(家康の母の実家と同姓)。
家紋も同じ梅鉢紋で,加賀の前田家と同じである。
だからどうなんだ・・・と言われればそれまでだが,若い頃我が家のルーツを調べようとして,結局分からず終いだったので,母方と,母方の母方まで調べるに至った。
母方の母方の姓は加藤。
藤原北家魚名流。
佐藤,斎藤,遠藤等,藤の付く姓と同様であるが,本拠地は庄内藩の支藩があった庄内松山(当時は中山)。
加藤清正の子,忠広が熊本を改易されて,配流された地である。
ということは,私には加藤清正の血が・・・と,一瞬色めき立ったが,この忠広の子孫は,現在でも庄内地方の中心地である酒田市(私の故地だ)に住んでおり,加藤姓ではない。
だから,私の解釈は,完全な眉唾だったという訳である。
以来,「信長の野望」をプレイするときは,前田利家と加藤清正は贔屓の武将となってしまった。
いずれも戦闘能力が高いので,重宝した。
・・・ということで,しょうもない話題を止めて,話を菅公に戻すと,これからの季節にCMが目立つ「カンコー学生服」というのがある。
これは「菅公」から採ったということだ。
学問をするのに着用する学ランに,菅公の名を冠したというのは,理屈としては理解できる。
因みに,学ランで思い出したが,90年代にはF1学ラン(グランプリ学ラン)なるものが売っていた。
プロスト(確か最高級品),ピケ(野性的で女好きになるのか?),ベルガー(頭が薄くなって,助平になるとか),パトレーゼ(おっさんくさいぜ)なる銘柄があったと記憶している(因みにセナは無かった。私の好きなマンセルは有ったかどうか・・・。有れば,ピケを着た奴と喧嘩になるとか・・・)。
・・・と,またまた暴走。
とにかく,一体何を書いたのか,主旨が一貫しないのが,私の文章であり,本論から逸れまくるのも,殆ど不治の病である・・・(猛省・・・)。
でもって,この日のピークは,この後に訪れるのであった・・・というか,南都の旅のハイライトは,常にここであった。
そこまで書きたいという意欲は有るのだが,一体どのようなことになるのか,皆目見当が付かないので,今日はいつもより少し短いが,ここで終わりにする。
明日は一体どうなるのか,皆目見当が付かないが・・・。
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