北の庄落城後,浅井三姉妹は秀吉に引き取られ,長女茶々は仇である秀吉の側室となり・・・。
と,ついつい単純に思いがちですが,茶々が秀吉側室となったのは1588(天正16)年頃と思われます。
つまり四国・九州征伐が終わり,聚楽第行幸の年です。
残るは関東の後北条氏のみ,という争乱が終息しつつある時期です。
では,それまで三姉妹は何処に居たのでしょう・・・。、
まず戦後処理の間,安土城に居たのは確かなようです。
庇護へしたのは,どうやら信長弟の長益(有楽斎-有楽町の語源)だったようです。
秀吉にとっても主筋にあたる訳でして,粗末には扱われなかったと思われます・・・。
今回は,何故か利休が出てきましたが,長益は利休十哲の一人でしたので,もしかすると接点が有ったのかもしれません・・・。
京極竜子とは,京極マリアの子です。
マリアは浅井長政の姉で,京極高吉夫人。
竜子はその子で,後にお初の夫となる京極高次の妹(姉という説も)に当たります・・・。
・・・で,秀吉側室になったのはいつだったのでしょう・・・(というか,何で側室が浅井三姉妹と安土城で会うのか・・・)。
松の丸殿・・・と言った方がしっくり来るでしょうか・・・。
前夫は若狭の名門武田氏(甲斐や松前の武田氏と同祖の源氏の名家)の当主元明。
解説にあったように山崎の戦いでは明智勢に付いて没落しました。
尤も「討死」と言っていましたが,厳密に言うと元明は本能寺の変に際して,神戸信孝と共に四国へ出陣しようとしていた丹羽長秀の佐和山城を攻め落としており,その遺恨からか長秀に謀殺された(或いは切腹)筈です。
この時,後にお初の夫となる京極高次も秀吉の居城である長浜城を落としているので,そのあたりのことは想像するしかありません・・・。
今回は京極氏について述べなくてはなりません。
TVでは,いきなり京極竜子が出てきて,浅井の縁者・・・という設定になっていましたが,そもそも北近江の陪臣に過ぎなかった浅井氏の主筋が京極氏ということになります。
そのあたりが無かったのは明らかに説明不足でしょう。
北近江の守護職にして,室町幕府の三管領家(細川・斯波・畠山-足利一門)に次ぐ四職家(他の三家は一色・山名・赤松各氏)の一つという家柄です。
出自は近江源氏と言われる佐々木氏で,源平の争乱期以前から宇多天皇を始祖として北近江に根を張っていました。
木曾義仲と源義経という源氏同士が争った宇治川の戦いで先陣争いをした佐々木四郎高綱は,この一族です(近江の佐々木一族が何故関東の源氏に仕えたのかを述べると,とんでもない量になるので今日は自粛します)。
佐々木氏は,南北朝の争乱期に婆娑羅大名と呼ばれた佐々木道誉(高氏)が有名ですが,その後,隠岐と出雲の守護職だった尼子氏とこの京極氏が残りました。
道誉自体京極姓を名乗ったようなので,京極氏の歴史は少なくても700年ということになります。
京極-京の端という意味ですが,京都西郊に館があったということでしょうか・・・。
例えば,現在の京都で言うと,西五条通と葛野大路の交差点より西は「西京極」なる地名が残ります。
女子プロ野球で有名になったわかさスタジアムを含む一帯は,西京極運動公園と呼ばれていたと記憶しています・・・。
その京極氏の勢いは昔日のものであり,家臣だった浅井氏に取って代わられたということでしょう・・・。
ですから,秀吉の閨室では,松の丸殿の方が淀殿より家格が上で,それによっての対立があったということを聞いた記憶があります・・・。
脱線ついでに,北近江の守護が京極氏だったのに対して,信長に駆逐された南近江の守護は六角氏です。
これまた佐々木一族です。
さらに余計なことを言うと,京極・尼子・六角の他に,近江源氏出身で大名になったものには黒田氏が居ます。
秀吉の謀将として有名な黒田官兵衛(如水軒)は,何代か前に近江から播磨の福岡郷に土着するようになったということです(だから,博多の町を「福岡」と命名した)。
・・・ということで,今日もお江には触れませんでした・・・。
お市の方の魂魄が出てきたり,お江の背後に信長がオーパーラップしたり・・・と,あまりの演出に笑ってしまいました・・・。
なればこそ,こうしてエントリができるわけでして,根多を提供していただけるので,有りがたいことなのですが・・・。
さて,佐治與九郎はいつ出てくる・・・・・・??
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