花を召しませ 召しませ花を
ラ・セーヌの花売娘なw
私は、花の応援団も読みながら育った
みろよ 青い空 白い雲
そのうちなんとかなるだろう
役者やのう
花を召しませ 召しませ花を
ラ・セーヌの花売娘なw
私は、花の応援団も読みながら育った
みろよ 青い空 白い雲
そのうちなんとかなるだろう
役者やのう
よく降るな。風呂屋に行かれへんわ。明日は晴れかな。
風呂屋にはもっぱら朝風呂で。夜は、ホモのニイチャンカップルがチラホラ。似たような年恰好、顔つき、体つき、双子さんみたい。大阪の風呂屋にはたくさん。ちょっと苦手💦
四十超えたくらいから、ほとんどしなくなった。それまでは、たとえば、ファッション誌もパラパラと項を繰った。
昨今では、他で見かける表現をあえて避けるほどだ。ほんの少しだけ。大きく抵抗すると、自分が間違ってしまうことになりかねない。
こういった算数の解法にしても、必ず、塾の先生諸兄の解法も確認するようにしている。まぁ、もちろん私も含め、たいてい似た方法をもっている。当たり前といえばそうだし、それはそれでいいのだが、自分の解法がちょっと違ったときに喜びを感じる。これを、ちょっとした自我といおうか。エゴではないはずだ。結局、答えは同じなのだから。何か奇をてらっては傾くような特殊の答え(間違い)を自負したいわけではない。そんなことはありえない。まったく。キッパリ
さらに、「答えのないことが答えだ」などと、答えがないことをいいことかに、四の五の何とでも何でも言う手合いも見かける。他、すごいのがあって、「終わりは始まりである。むしろ、始まるために終わるのだ」などと嘯き、メルマガ配信料300円をせしめようと試みる情けない手合い準著名人も X で見かけた。そういった思想を私は好まない。そして、たとえば、(歴史的な)算術が好きだ。算数・数学にかぎらず、列記とした解法は尊いものだと思っている。必ず役に立つからだ。
ところで、私ハ、個性を追求したりはしない。それは、私の耕す畑にはなく、知るところではない。むしろ、普遍的な<私>(英語では<I, >)という一人称にこそ拘っているのだ。そして、こう考えても私の自由勝手だ。
こういうのをちょっとしたメモ書き、草稿といおうか(笑)
「 次のような地点A、B、C、Dを結ぶ直線の道路があります。
A B C D
BとCは84m、CとDは1260m離れています。最初、太郎さんはA、次郎さんはCにいます。
2人がBに向かって同時に歩き始めると、同時にBに到着します。また、最初の状態から2人がDに向かって同時に歩き始めると、同時にDに到着します。このとき、AとBは何m離れていますか。なお、太郎さんと次郎さんの歩速は一定です。」 2020
B C : C D = 84:1260 = 1:15
A と B の距離を X mとする
太郎と次郎の歩速の比は、X:1 かつ 、( X + 1 +15 ):15
つまり、15X = X +16
14X = 16
X = 8/7
B C 間「1」が84なので、A B 間の距離は「8/7」を乗じた、96m(答え)
ニャダの大サービス問題やん。イージーでニャロメ
文句いう人は嫌い > <
「 17で割ると3余り、13で割ると7余る3桁の整数で最も大きいものを求めなさい。」 2008
パッと見て、
17で割ると3余り、13で割ると7余る数は20
17と13の公倍数で3桁の数は、221、442、663、884まで
とすると、20たすことの884で904(答え)
確かめてみよか
904わる17は、53あまることの3
904わる13は、69あまることの7
コレもやったかな まぁええわ
おはようございます