ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「炭鉱」

2017年10月11日 | 旅の豆知識
 旅行先で、炭鉱跡を目にしたことはないでしょうか。かつては、北海道の夕張地方や九州の筑豊地方などに多くの炭鉱があり、盛んに採掘されていました。
 昔は、発電用、製鉄用、蒸気機関の燃料、家庭用の燃料などとして、多くの需要があったのですが、戦後の高度経済成長期に、国内エネルギーの石油への転換がはかられ、安価な海外炭にも押されて、次々と閉山してしまったのです。
 しかし、それらの産業遺跡を保存しようとする動きもあり、かつての産炭地には、「石炭博物館」なども出来て、見学できるようになりました。中には、坑道の一部に入れるようにしてあるところもあったり、模擬坑道を造って、再現しているところもあるので、機会があれば、立ち寄ってみることをお勧めします。

〇「炭鉱」とは?
 石炭・亜炭を採掘する鉱山のことですが、採掘した原炭を選別して商品として積出す付属施設を含んでいます。坑内掘りと露天掘りに大別されますが、日本の炭鉱はほとんどが前者でした。
 石炭は、室町時代の古文書に出てきて、そのころから家庭用に採掘されたと考えられています。江戸時代には、藩で開発するようにもなり、製塩用などに使用されていました。明治時代になるとに三池炭鉱や高島炭鉱は官営で開発されるようになり、その後民間に払い下げられたのです。この頃から、蒸気機関の燃料や製鉄の原料などとして、石炭の需要は急激に高まり、本格的な開発が始まりました。北海道の石狩地方、福島県の磐城地方、山口県の宇部地方、九州北部などに炭鉱が増えていき、盛んに採炭されるようになります。太平洋戦争中に、一時採炭量が減りますが、戦後は回復したものの、国内エネルギーの石油への転換や安価な海外炭の増加などによって、1960年代頃から次々と閉山に追い込まれるようになりました。現在では、国内で坑内掘りを続けているのは、北海道釧路市の「釧路コールマイン」(旧太平洋炭鉱)だけとなり、露天掘りも数ヶ所残るのみとなっています。

☆見学できる炭鉱跡のお勧め

(1)夕張炭鉱(北海道夕張市)
 北炭夕張炭鉱は、最盛期の1960年代には、年間100~150万tの出炭量を誇った日本有数の炭鉱でした。しかし、エネルギー政策転換によって、1977年(昭和52)に閉山させられることになります。その炭坑の跡は、現在では「石炭博物館」という文化施設となり、見学することが可能です。石炭と炭鉱のテーマに分け、石炭の生成から開発、利用など技術や労働、生活を実物の資料、坑道、石炭層などから紹介しています。採炭現場の動態展示など石炭産業関連としては世界でも有数の博物館です。周辺には、「幸福の黄色いハンカチ」想い出ひろばがあり、映画撮影で使われた炭坑住宅なども残され、繁栄時の様子を追想することが可能です。

(2)常磐炭鉱(福島県いわき市)
 常磐炭田は、明治維新の頃に、神永喜八、片寄平蔵らにより発見されました。そして、明治時代前期の1870年代から、茨城県北部~福島県浜通り南部にかけての海岸線に面する丘陵地帯にかけて、大規模な炭鉱開発が行われたのです。これは、首都圏に最も近い炭鉱としての地の利があったためでしたが、硫黄分を多く含有した低品位炭という不利な条件がありました。その上、地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下深層部へ掘り下げなければならず、高い掘削技術を要したのです。このような条件下で、太平洋戦争後の高度経済成長期になると、各鉱は採算が次第に悪化し、最後まで残った常磐炭礦(1970年より常磐興産)の所有する炭鉱も1976年(昭和51)に閉山せざるを得なくなりました。尚、常磐興産は、炭鉱から出ていた温泉を活用し、炭鉱従業員の雇用先として、「常磐ハワイアンセンター」(現在のスパリゾートハワイアンズ)をオープンさせたことは有名です。その後、1984年(昭和59)10月18日に「いわき市石炭・化石館」が開館し、いわき市が産炭地として繁栄した当時の資料と、市内で発掘された動植物化石と世界の貴重な化石資料を併せて展示しています。また、2007年(平成19)に経済産業省により、常磐炭田が近代化産業遺産として認定されました。今でも、みろく沢炭鉱資料館、石炭発見の地、加納作兵の碑、片寄平蔵の碑、宮沢炭砿長屋、常磐炭礦住吉一坑跡などを巡ると常磐炭鉱の面影を感じることが出来ます。

(3)宇部炭鉱(山口県宇部市)
 ここでは、江戸時代前期から、瀬戸内の製塩用に細々と石炭の採掘が行われていたと思われます。しかし、江戸時代後期の19世紀後半には、山口藩による石炭局開設を機に採掘が本格化しました。明治時代になると炭鉱は民間の手に移り、東見初炭鉱、沖ノ山炭鉱、長生炭鉱などに複数の資本が参入し、開発が進められたのです。その後、太平洋戦争の期間を通じて買収や合併が進み、現在の宇部興産の一部となりましたが、1967年(昭和41)に閉山しました。宇部市内のときわ公園には、1969年(昭和44)に、日本初の石炭記念館としてオープンした「石炭記念館」があります。その展望台は、宇部興産東見初炭坑で閉山まで使用されていた立坑櫓を移設設置したものでした。野外展示としては、石灰石輸送の貨車用で活躍したD51型蒸気機関車をはじめ、矢弦車、坑道で使われた人車や坑内石炭運搬車、鉱業所で使われたランカシャボイラーや巻上機などがあります。屋内の1階展示室には、明治時代から閉山まで実際に使用されていた採炭用機械等が展示され、宇部炭鉱の坑道や採炭現場が再現されていました。2階展示室には、炭坑の保安道具や炭坑で使用された小道具、各炭田出土のいろいろな化石を中心に展示し、宇部炭田の歴史と民俗についてもわかりやすく紹介しています。また、2007年(平成19)に経済産業省により、近代化産業遺産として宇部炭鉱関連遺産が選定されました。長生炭鉱が存在した海上には、吸・排気や排水を担っていた巨大なコンクリート構造物(ビーヤー)2基が残るほか、石碑もあり、本山炭鉱の斜坑坑口跡や市内の各所にかつての炭鉱住宅が散在しています。

(4)筑豊炭鉱(福岡県直方市・田川市など)
 筑豊炭田は、室町時代頃から、家庭用に採炭が始まり、江戸時代には製塩の燃料とされていました。明治時代以降、蒸気機関の燃料や製鉄の原料などとして、石炭の需要は急激に高まり、本格的な開発が始まります。八幡製鉄所の創業が発展を加速させ、明治時代末期には全国出炭量の過半を占めるようになりました。これは、北九州工業地帯の重要な立地条件となり、日本の産業発展に大きく寄与したのです。戦時に出炭量が落ちましたが、太平洋戦争後は回復傾向にあったものの、エネルギーの石油への転換等により、1960年頃から石炭産業の斜陽化が急速に進展しました。最盛期には300近くあった炭鉱も、筑豊最大の三井田川をはじめ、三菱飯塚、日鉄二瀬、麻生、貝島など有力な炭鉱が次々に閉山していって、1983年(昭和58)には、稼行中の炭鉱はほぼ皆無となったのです。そんな中で、1983年(昭和58)にオープンした「田川市石炭・歴史博物館」(福岡県田川市)は、筑豊地方最大の炭鉱であった三井田川鉱業所伊田坑の跡地に出来たもので、日本のエネルギーを支えた筑豊炭田の石炭産業に関する資料を展示した石炭鉱業史の専門館でした。屋外展示スペースには実際に炭坑での作業に使われた電気機関車やトロッコ、炭坑用機械などが展示され、当時の炭鉱夫が暮らした標準的な炭鉱住宅が再現されています。また、この公園内には三井田川炭鉱の二本煙突と伊田竪坑櫓、筑豊地区で使われた蒸気機関車9600形(59684)と石炭用の貨車1両が保存されていました。館内の第1展示室では、「石炭をつくった新生代の植物のイラスト」・「三井田川鉱業所の歴史」・「手掘り採炭道具」・「採炭機械」・「坑道のジオラマ」・「川ひらた(川舟)・鉄道での石炭輸送」や、「石炭の利用」に関する資料などを展示し、石炭のなりたちや石炭採掘の様子、石炭産業の歴史がわかります。第2展示室では、「山本作兵衛コレクション」(ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に登録)を展示し、第3展示室では、「田川地方の歴史と民俗」をテーマに、郷土の歴史資料を展示していました。尚、2007年(平成19)に経済産業省により、近代化産業遺産として筑豊炭田関連遺産(「田川市石炭・歴史博物館」、復元炭鉱住宅)が認定されています。

(5)三池炭鉱 宮原坑(福岡県大牟田市)
 この地での石炭掘削の歴史は古く、室町時代には発見されていたと伝えられ、江戸時代には、三池藩の直轄で行われていたのです。明治維新後の1873年(明治6)には、工部省がこれらの炭鉱の官有を決定して、開発してきました。しかし、1889年(明治22)に払い下げられて、三井財閥の所有する所となり、かの団琢磨が技師として、腕を振るい、かつての大炭坑地帯を形成したのです。太平洋戦争後、石炭産業が斜陽化していく中で、1959年(昭和34)に三井三池争議が勃発して、大きな社会問題となりました。1963年(昭和38)には、三川鉱で爆発事故が発生して 458人の犠牲者を出したことが知られています。その後、石炭需要の減少により、1997年3月30日閉山するに至りました。閉山後、関連施設が国の重要文化財や史跡に指定されています。また、2007年(平成19)11月30日に経済産業省により、近代化産業遺産として三池炭鉱関連遺産が認定されました。さらに、宮原坑と万田坑は、2015年「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産の文化遺産に登録されています。現地には、1995年(平成7)に開館した「大牟田市石炭産業科学館」が建っていました。館内は、三池炭鉱の歴史に関するの展示を見た後で、模擬坑道に入って、炭鉱内の様子を学べるようになっています。その入り口は坑道に下りるエレベーターのようになっていますが、中にはいると振動するだけで、実際に降下するわけではありません。その内部は、採炭用の機械が展示してあって、自動的に解説してくれます。中には、センサーで切り羽が回転するものもあって、結構工夫されていました。そこを、出て三池港の方へ行ってみましたが、展示の中には、石炭積出港として、人工的に造った港湾で、かつては石炭船でにぎわったとあったものの、現在は、人影もなく、かつての大型の石炭積出機がさび付いたまま放置されていたのです。貨車の引き込み線跡は、草ぼうぼうとなり、荒れ果てていて、かつての栄光今何処、海と岸壁だけが昔のままに静まっていました。

(6)端島炭鉱(長崎県長崎市)
 端島は、南北に約480m、東西に約160mで、面積は約6.3haの小さな島ですが、明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、最盛期の1960年(昭和35)には5千人以上の人口があり、東京以上の人口密度を有していました。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していました。しかし、1974年(昭和49)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島となっています。遠景が軍艦に似ていることから、軍艦島とも呼ばれています。また、2007年(平成19)、経済産業省により、近代化産業遺産に認定され、さらに、2015年(平成27)、端島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されています。長崎港から数社によるクルーズ船が就航していて、上陸して見学することも可能です。

☆見学できる炭鉱跡一覧

<北海道>
・空知炭鉱(北海道歌志内市)関連施設の遺構、ズリ山(選炭の後、不純物や商品にならない石炭を積み上げた山)が見られる
・夕張炭鉱(北海道夕張市)「石炭博物館」(坑道見学もある)、関連施設や高松北炭夕張炭鉱専用鉄道などの遺構など

<東北>
・常磐炭鉱(福島県いわき市)「いわき市石炭・化石館」、「みろく沢炭鉱資料館」、宮沢炭砿長屋、常磐炭礦住吉一坑跡など

<中国>
・宇部炭鉱(山口県宇部市)「石炭記念館」、ビーヤー2基、石碑、本山炭鉱の斜坑坑口跡など

<九州>
・筑豊炭鉱(福岡県直方市)「直方市石炭記念館」、機関車の展示や救護訓練坑道など
・三池炭鉱 宮原坑(福岡県大牟田市)外観のみ自由公開だが、毎月一度内部を定期公開、「大牟田市石炭産業科学館」
・端島炭鉱(長崎県長崎市)軍艦島と呼ばれ、規定の見学コースか船での周遊観光(軍艦島クルーズ)がある
・池島炭鉱(長崎県長崎市)現場体験できる国内唯一の炭鉱施設で、元鉱夫の案内で坑内見学・機器の模擬操作体験等(要申し込み)
・高島炭鉱(長崎県長崎市)「長崎市高島石炭資料館」、炭鉱経営の拠点グラバー別邸跡、立坑の坑口の遺構などが残る
・三池炭鉱 万田坑跡(熊本県荒尾市)捲場建物は切妻二階建、イギリス積みのレンガ造で、巻胴はドイツで、無料区域と有料区域がある