ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

(帰省旅行④) 日帰り京都旅行

2018年01月03日 | 旅行
正月に愛知県の実家に帰省中だが、天気もまずまずとのことなので、余っている「青春18きっぷ」を使って、日帰りで京都市へ行ってくることにした。
 朝食後実家を出て、中央本線に乗って、金山駅まで行き、東海道本線の大垣行き新快速に乗り換えた。結構空いていたので、ゆったりと座りながら、窓外の景色を眺めていた。電車は濃尾平野を突き進んで、大垣駅へとたどり着いたが、次の米原行きまでは、時間があって、寒いホームで待つこととなった。
 しかし、到着した米原行きは、満員で立ち続けることになったのは失敗だった。これだったらもう少し手前の岐阜駅にでも下りて待っていればよかったと後悔した。
 その上、関ヶ原駅を過ぎるころからは、雪景色にかわり、雪も降ってきたのに雨具を持ってきていないので、心配になった。それでも、なんとか柏原駅で座れることができて一息ついた。
 米原駅から乗り換えて、京都へと向かったが、雪は一向に止みそうもない。座席に座りながら、窓外を眺めて、京都駅に着くまでには、晴れてくれることを願った。
 そうこうしているうちに、京都駅へと到着したが、みぞれ交じりの雨が降っているのには、閉口した。仕方がないので、案内所へ行って、市内の地図をもらい、近場から訪ねてみることにした。
 最初に、歩いて行ける東本願寺へと向かったが、まだ少しみぞれが降っていて冷たい。それでも、10分ちょっとで大きな門の前へたどり着いた。
 この東本願寺は 京都府京都市下京区にある浄土真宗大谷派の本山で、東本願寺は西本願寺に対して呼ぶ場合の通称で、正式には、「真宗本廟」というとのこと。11世顕如の嗣子教如が、弟准如に本願寺住職を譲り本願寺派とは別に大谷派を立て、1602年(慶長7)に徳川家康から与えられた現在の地に大師堂をはじめ伽藍を創建した。このとき以降、准如の本願寺を西本願寺と称するようになり、末寺もそれぞれ分立したそうだ。その後、天明、文政、安政とたび重なる火災にあって堂宇を焼失し、現在の本堂(阿弥陀堂)と大師堂(御影堂)は1895年(明治28)の再建、その他の建築物も明治時代以降のものとなっている。寺宝には、親鸞自筆『教行信証』(国宝)、親鸞聖人画像(安城御影)、本願寺聖人伝絵(ともに国の重要文化財)などがあると聞いた。
 とにかく寺域は広く、建物も大きくて堂々としている。まず御影堂、次に阿弥陀堂へと上がって参拝したが、荘厳な感じがした。
 次に、西本願寺へと歩いて行ったが、みぞれが結構降ってきていて、雨具を持ってきていないことを悔やんだが、仕方がない。小走りに、歩道を進み、信号待ちでは、軒下に避難することを何度か繰り返しているうちに、大きな通りに出て、西本願寺の塀や門が見えてきた。
 やっとのことで、大きな門をくぐって、境内へと入っていったが、この西本願寺は、京都府京都市下京区にあるが、現在地には、1591年(天正19)に豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転したとされている。境内には、安土桃山時代の文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、1994年(平成6)に国の史跡に指定され、同年に「古都京都の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)にも登録された。豊臣秀吉が造らせた伏見城や聚楽第の遺構と伝わるものが多く移築されていて、飛雲閣、大広間、唐門等は安土桃山文化の代表的建造物と言われ、国宝建造物に指定された、絢爛豪華ですばらしいものなのだ。
 しかし、飛雲閣や大広間は一般には公開されていないとのことなので、唐門へ行ってみることにした。本堂へ参拝後、龍虎殿(寺務所)で唐門の場所を聞いたのだが、「外に出て、右に行ったところだ。」と説明され、いったん門外へ出て、塀伝いに歩いて行ったが、いっこうに唐門へは行きつかず、大変な遠回りをすることとなった。幸いなことに、みぞれが止んでいたので、少し救われたが、西本願寺の外周を一周して元へと戻ってくるはめになったのだ。大幅に時間をロスし、歩き疲れて足も痛くなったが、龍谷大学のレトロな校舎を見ることができたのが、慰めになった。それにしても案内板がはっきりしていないのが一因であったことは確かだ。
 気を取り直して、大書院の脇から、やっとのことで唐門へとたどり着いたが、それはすばらしいものだった。さすがに、安土桃山時代を代表する国宝建造物だけあって、豪華絢爛な意匠には、感嘆した。これをみただけでも、わざわざ京都へやってきた価値があるというものである。
 その後は、地下鉄烏丸線の五条駅から乗って北上し、烏丸御池駅で東西線へ乗り換えて東進し、蹴上駅で下車して、琵琶湖疎水へと行ってみることとした。
 琵琶湖疎水は、琵琶湖の南岸(現在の滋賀県大津市三保ヶ崎)から取水し、長等山などをトンネルで抜け、京都市内へ通じる水路で、舟運、発電、上水道、灌漑を目的としてつくられた。田辺朔郎の設計、施工により、明治時代前期の1885年(明治18)に工事が始まり、1890年(明治23)に大津から鴨川までの第一疏水(全長17.7km、幅6.4~11.5m、水深1.7m)が完成する。続いて、鴨川から宇治川までの鴨川運河は、1892年(明治25)に工事が始まり、1895年(明治28)に完成しました。さらに、第一疏水の北側に並行し、全水路がトンネル内を走る第二疏水(全長7.4km,幅4m,水深3.1m)が、1908年(明治41)に着工し、1912年(明治45)に完成し、蹴上で第1疏水と合流するようになった。これらの開削工事は、西欧の近代的土木技術を取得した日本人技師による大規模な土木工事であり、明治時代における日本の土木技術水準の高さを示すものだ。そこで、1996年(平成8)に第一疎水の第一・第二・第三隧道の出入り口、第一竪坑、第二竪坑、日本初の鉄筋コンクリート橋、インクライン、疎水分線の水路閣などが国の史跡に指定される。また、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から「近代化産業遺産」にも認定されたのだ。
 どうしても見てみたいものだったので、まずインクラインから見学していくことにした。これは、水路を通ってきた船を峠のところで引っ張り上げて越えさせ、再び水路に戻す施設で、ケーブルカーのような装置で、船を台車に乗せて、ワイヤーで引っ張り巻き上げ機を使って、登らせるものだ。とてもユニークなもので、気に入った。
 先人の知恵であろうが、昔は、船越と言って、陸路伝いに船をコロと人力で引っ張り上げて峠越えをさせていたところがあると聞いたことがある。
 その坂道を上がっていくと、蹴上発電所への送水管を見ることができた。そこから、疎水沿いにしばらく歩いていくと、有名な南禅寺境内の水路閣へと至った。これも見事なレンガ造りの水路橋で、なかなか絵になる施設なので、何枚も写真を撮らせてもらった。
 ついでに、南禅寺の境内も散策してみたが、この寺は、京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の大本山で、山号は瑞竜山、寺号は正式には大平興国南禅禅寺という。本尊は釈迦如来、開基は亀山法皇、開山は無関普門(大明国師)で、1291年(正応4)に亀山法皇がその離宮を寺に改めて建てたとのことだ。1335年(建武2)に京都五山の第一とされ、1383年(弘和3/永徳3)に足利義満が京都鎌倉五山十刹の制度をつくった際には、天下第一位として五山の上に置かれる。しかし、室町時代の1393年(明徳4)、1447年(文安4)、1467年 (応仁元)の火災で伽藍の大部分を焼失した。現在の伽藍は、江戸時代前期の1605年 (慶長10)以降に、以心崇伝によって再興されたもので、大方丈(国宝)は1611年(慶長16)後陽成天皇より下賜された旧御所の建物の移築、小方丈は旧伏見城の遺構とも言われ、共に狩野派の襖絵があり、山門(国重要文化財)は1628年(寛永5)に藤堂高虎による再建、勅使門(国重要文化財)は1641年(寛永18)に御所の日ノ御門を移築したものと言われている。大方丈南面の庭園は慶長年間(1596~1615)小堀遠州作と伝える禅院式枯山水庭園で、巨石の姿から俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、1951年(昭和26)に国の名勝に指定された。また、境内は2005年(平成17)に、国の史跡に指定されている。寺宝としては、「亀山天皇宸翰禅林寺御起願文案」(国宝)をはじめ、数多くの国重要文化財を含む絵画、彫刻等が所蔵されていると聞く。
 前にも、訪れたことがあるので、今回は境内の建物を見るだけにとどめたが、寺域も広く、豪壮な建物が並んでいて、さすがに京都五山の第一の寺だけのことはあると思った。
 もうとっくに昼を過ぎていて、腹も空いているのだが、周辺には、高そうな料亭みたいなものしか目に入らなかったので、別のところへ移動して食事をとることとする。
 再び、地下鉄東西線の蹴上駅に戻り、東へ向かう電車に乗って、山科駅まで行き、駅前のファーストフード店へ入って、腹を満たした。しかし、予想外に長距離歩いていて、足も痛くなり、これ以上の散策は無理と判断したので、帰途に就くことにした。
 とはいうものの、同じ線路で帰るのも面白くないし、せっかく「青春18きっぷ」で来ているので、草津線・関西線を経由して名古屋へ戻ることにした。
 そこで、東海道本線の電車で草津駅まで行って、草津線へと乗り換えたが、急にローカル色が強くなって、のどかな車窓を愛でながらの鉄道旅となった。ところが、柘植駅が近づくと、関西線の柘植駅~亀山駅が、災害のため不通となっていて、代行バスに乗り換えるようにとのアナウンスが入るようになった。
 はたして、「青春18きっぷ」で乗れるのだろうかとの不安もよぎったものの、ままよと柘植駅までは行ってみることにした。下車後、駅員に聞くと「青春18きっぷ」でも代行バスにのれるとのことだったので、胸をなでおろした。
 柘植駅前から、観光バスのような車両に乗ったが、途中の駅をすべて経由していくので、かなり細い道に入り込み、道幅ぎりぎりで走っていく、心配になったが、運転手の技量を信じて、車窓を楽しむこととした。
 それでも、なにごともなく亀山駅前へと到着し、連絡している関西線の列車へと乗り継いだ。その後は、四日市、桑名と過ぎて、名古屋駅へと至り、中央本線へと乗り換えて、実家に帰着した。続く
 


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