「まちがいにされたけど、けど」…この記事タイトルは、3つのこころあたりがあってのものでしたが、記事中にふれることができず、3つ以上思い出しかけていたのに、今3つ以上思い出せていません。
1つは、中学卒業アルバムにそれぞれ個人が一言・・ということで載っけてしまった私のが、「現在に生きよう、夢を担いで」。それを見ておそらく受け取られるのは、過去のことに縛られずこだわらずに今を有意義に って感じ。
でも今の私は、過去のことを自分でつなげていないといけない・・そんなことに、こんなこと(証拠がことごとく改竄されていくこと等々)にまでなるとは思ってもいなくて・・という部分はありました。
(まさかに、その卒業アルバム覚えがあるだとか持ってるって人がこのブログを見ていないことを願います(ニャンカハズイカラ)が。。)
でも、意外と子供の頃からの考え方は同じだったり、出発点でもあるもの。
現在、表面的にはまちがっているように見えても、自分としての主旨はあまりはずれていません。
将来に向かういま現在は、その過去(の現在)の積み重ねがあって初めてなりたっているもの。
過去は変えれない(変えていいものでもない)けれど、
責任をもって自らはたらきかける事をすべきは今、現在。
気持ちも受け取りもナマで、
(必須の)温故知新ができるのも、いま現在。
と、本来の私自身の解釈は、維持しております。
「まちがいにされたけど、けど」の1つは、「やあ」に記しましたが、
[アタマノイイヒトハイイヒト]発言が、覆されたようなこと。
でも、(ブルータス化のように)わるい人になっちゃうときは、どんなに頭のよかった人でももう、「隠れ犯」に使われない(じゃまとなる)脳機能が、完全におバカになってる(←おかしくなってる)・・・ということは、
たしかに、言えましたね。
それは・・ 見えるところで誰かが ’ちちんぷいぷい’と言ったから起こるわけではなく、見た目上、’ちちんぷいぷい’のときなどの条件~かなにかで、起こされているのだと、数々の現象で思うのです。
ここでいう頭いい悪いは、何かの判定やテストの点数ということではありません。
人のことを誤解無い方向へ理解できたり、そうしようと意志を持てる人はすべて、頭のよい人です。
(知能判定のみでは少なからずあてにならないケースが存在するとみられます。また、他いかなる場合もそうですが、データやAIが放流状態にあれば、それだけでも正確性を欠くことととらえねばなりません、残念ながら。)
・・・
いかにも自主自発的内容ながら、キッカケいただいての「あ、そういえば」的で書いております、受け身型の私でもあります。。こういうところ、あまったれ。。諸ギャップ、ごめんなさい。
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