平和とくらし  #茨木市議会議員 #山下けいきの日々是好日

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てつら由伽さん作成 小林多喜二没後90年①

2023年02月20日 | 今日の情報紹介 茨木市議会議員
 昨日、バタバタで今日はゆったり。市役所控室のパソコンが起動せず。購入してから10年は経っているので限界だったのかもしれません。
 
 こまごまとした用事を片付けて議会準備。議会質問のために行政の三月議会説明資料、これまでためてきた質問材料から検討します。
 
 
 以下はFacebookに投稿されていたもの。プロレタリア文学といえば小林多喜二がすぐに出てくるのですが、今日は没後90年とのこと。改めて読ませていただいたものです。
 
今日2023年2月20日は小林多喜二の没後90年。
築地警察署で拷問死した命日。⦅1933.2.20 (享年29才)⦆
【個人の尊厳を押しつぶす社会の矛盾を文学の力で告発し、不合理な現実を変えるため、たたかいに立ち上がる人々を描き、戦争反対と人間の尊厳を求めて闘ったプロレタリア作家小林多喜二】
◎本名:小林多喜二
生年月日:1903年12月1日
死没:1933年2月20日
身長:154cm
出身地:秋田県大館市、北海道小樽市
最終学歴:小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)
◎小林多喜二の代表作
『一九二八年三月十五日』(1928年)
『防雪林』(1928年)
『蟹工船』(1929年)
『不在地主』(1929年)
『工場細胞』(1930年)
『独房』(1931年)
『党生活者』(1932年)
デビュー作 『老いた体操教師』(1921年)
■小林多喜二は1093年10月、秋田県の農家に生まれました。07年、北海道の小樽でパン工場を営んでいた伯父のすすめで、一家は小樽へ移住。多喜二は小樽商業学校、小樽高等商業学校と進学しますが、在学中に文学への傾倒を強め、同人誌の編集や投稿などをしています。卒業した24年に北海道拓殖銀行に勤めますが仕事のかたわら同人誌を編集発行し創作を続けました。
 当時、多喜二は、創作や生き方に矛盾を感じ、模索を続けていた26年。アンリ・バルビュスの反戦文学運動に深い関心を示したり、プロレタリア作家、葉山嘉樹の作品に接し、「作家の態度、意識」「表現様式」に新鮮な驚きを受けるなど、新しい方向を見出しました。このころから科学的社会主義の文献も学びはじめます。
 27年は農民運動や労働運動が全国的に高揚し、北海道でも磯野小作争議や小樽港湾争議が起こりますが、多喜二はその支援活動にもかかわっています。
 28年3月、特高警察の大弾圧で小樽でも多数が逮捕され、拷問・虐待をうけました。「一九二八年三月十五日」は綿密な調査をもとにこの事件の本質を描出したものです。雑誌は発売禁止になりますが、組織された配布網を通じて広範囲に読まれ大きな反響を呼びました。
 29年には、北洋漁業での前近代的な奴隷労働の実態を「蟹工船」で描写。小作農民のたたかいを素材にした「不在地主」で、北海道拓殖銀行の収奪をあばいたことを直接の理由に、退職することになります。
 多喜二は30年に上京し、31年10月、日本共産党に入党。非合法下の困難な活動の中、家族の生計も支えながら「党生活者」など創作も続けましたが、33年2月20日、昼過ぎに張り込み中の特別高等警察により、今村恒夫と共に逮捕されました。築地署の特別室にて手荒な取調べを受けました。この取調べの主な目的は本名を明らかにすることや共産党員であるかどうか、仲間の名前や住所を聞き出すことでした。通常はこれらの目的が達成されると留置所の監房に入れられました。いつまでも口を割らなければ必然的に時間は長くなります。多喜二の場合は 12:40頃から 16:00頃まで続いたようです。その日のうちに東京・築地署で虐殺されました。29才でした。
 ちょうど、その5年前の昭和3年(1928年) 2月20日に 第1回普通選挙(男子のみ)が行われました。その後、3月15日に共産主義を中心とする労農諸団体に捜査が入りました。全国で数千人の革命的労働者・農民・知識人が逮捕されたそうです。これを、「三・一五事件」の題材にして、多喜二は 8月17日に「一九二八年三月十五日」という小説を書きあげました。これは削除や伏字だらけで「戦旗」の11月号と12月号に発表されましたが、どちらも発売禁止になりました。しかしながら独自の流通網で 8000部ほど出ているそうです。江口渙(きよし)氏は、多喜二が逮捕される前の2月上旬に警視庁を訪れた際に、特高の中川成夫から告げられた事があったそうです。
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小林多喜二のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。こんど連絡があったら、このことだけははっきり小林に伝えておいてくれ。- いいか。われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。つまりは天皇陛下を否定する。おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは逆賊だ。そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったが最後いのちはないものと覚悟をしていろと、きみから伝えておいてくれ。このことだけは、やつがつかまらない今のうちからはっきりいっておくからな。いいか、連絡であのやろうにあったら、忘れずに伝えてくれ!
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■1933年2月20日の小林多喜二への虐殺へ
 天皇が絶対的な権力を持ち、警察も軍隊もそのもとで横暴を極めた戦前には、天皇制や軍国主義に反対したために逮捕・投獄、虐殺された人はかなりの数にのぼっています。
 23年9月の関東大震災の折には混乱に乗じて初代共産青年同盟委員長・川合義虎や労組活動家・平沢計七ら10人が軍隊の手で殺され、さらに無政府主義者・大杉栄が妻・伊藤野枝、甥とともに虐殺されました。
  25年、普通選挙法(男子のみ)と抱き合わせに、天皇制廃止、侵略戦争反対を掲げる日本共産党をはじめ、革命的労働・農民運動を弾圧する目的で治安維持法が制定されました(28年に死刑・無期刑に改悪)。その違反名目での逮捕者は数10万人にのぼり、司法省調査でも送検者7万5681人、起訴者5162人、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査では、明らかな虐殺だけでも日本共産党幹部など65人、拷問・虐待死114人、病気その他の獄死1503人といわれています。
 これは戦前の法律でも殺人罪等にあたり、現在の法律では「特別公務員暴行陵虐罪」等も加わる重大な犯罪にあたります。しかし、特高の犯罪は、ほとんど何の処置も行われず、謝罪もありません。一方、特高はいったんは公職追放されますが、戦後は大手をふって政官財の各界にほとんどが復活しました。
 多喜二虐殺時の主犯格は警視庁特高部長・安倍源基、その配下で、虐殺に直接手を下したのが毛利基特高課長、中川成夫、山県為三両警部らです。
 安倍源基が警視庁特高部長や内務省警保局長だったときは、特高がもっとも残忍性をあらわにした時期で、33年には戦前でも最多の19人が拷問で虐殺されました。安倍は戦後、A級戦犯容疑で拘置されますが、占領政策の転換で釈放され、その後、右翼の結集体である新日本協議会を結成、児玉誉士夫らとともにCIA協力メンバーと目されるなど戦後政治の“陰”の存在として生きのびました。
 毛利基特は、32年警視庁特高課が部に昇格、安倍が部長になるとその下で特高課長となり、“共産党壊滅に功あり”として勲五等旭日章をもらい、異例の出世をとげます。終戦直後に埼玉県警察部長を退職しますが、東久邇内閣から「功績顕著」として特別表彰さえうけています。
 中川成夫は、高輪警察署長、築地署長と出世し、東京滝野川区長をつとめ、戦後46年に区長をやめた後、東映取締役興行部長となり『警視庁物語』シリーズなどを全国上映。一方、北区で妻に幼稚園を経営させ、これを背景に64年には東京北区教育委員長になりました。
 岩田義道の虐殺に直接手を下したといわれている山県は43年に東京府会議員となり、戦後は丸の内署長時代に知りあったビフテキ店「スエヒロ」社長から店名を借り「スエヒロ」を開業、74才で死亡するまでその経営にあたっていました。 
 多喜二の虐殺もそういう歴史のなかでのことです。同時に彼の場合は、逮捕数時間後の激しい拷問によるものでした。それは彼の作品が、治安維持法の適用による大弾圧「三・一五事件」での警察の拷問の実態を暴いた「一九二八年三月十五日」や、労働者搾取の国家構造を描き出した「蟹工船」、農民と労働者の共同闘争を描いた「不在地主」など、戦争突入前夜に、政府の戦争と労働者抑圧政策を鋭くえぐる内容で、しかも読者も多く、国際的にも高く評価され、為政者から特別に憎悪され、恐れられたからです。
 多喜二が作家同盟の中央委員・書記長、プロレタリア文化団体の党グループ責任者など重要な位置にあったことも、「生かしてはおけない」理由だったのでしょう。多喜二の作品は敗戦までは持っているだけで逮捕される国禁の書とされました。
 1926年より代表的プロレタリア作家として活躍。「蟹工船」「不在地主」「工場細胞」「党生活者」などプロレタリア文学運動高揚期に代表的記念碑となる数々の作品を残した。
 非合法活動中1933.2.20正午過ぎ、スパイ三船留吉の手引きで逮捕され警視庁特高・中川、山口、須田らの拷問により7時間後に殺された。多喜二は、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)に小作農家の次男として生まれた。書くこと自体が生死を賭けた戦いだった…この国にはそんな歴史がある。それも明治や江戸時代の話ではく、昭和のことだ。
 特別高等警察、略して特高。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場するこの組織は、体制に反対する労働組合員や反戦平和活動家など、政府に逆らう思想犯を徹底的に取り締まる目的で明治末期に設立され、その後敗戦まで強権をふるった。多喜二は1903年に東北の貧農の家に生まれた。親に楽をさせる為に苦学して小樽で銀行員になり、21歳で仕送りの出来る安定した生活を営めるようになる。音楽が好きな弟には、初月給の半分を使ってバイオリンを買ってあげた。小市民的な幸せな未来が目の前に約束されていたのだ。 
 ところが、軍国化を進める政府によって、1928年3月15日未明に全国で数千人の反戦主義者を逮捕する大弾圧事件が起きた。多喜二の周辺でも友人たちが続々と連行されていった。 特高は国家反逆罪や天皇への不敬罪を武器に、密告とスパイを活用して“非国民”を手当たり次第に検挙し、残忍な拷問で仲間の名前を自白させてはさらにイモヅル式に逮捕していった。
 多喜二が捕まった時は、共産同盟の責任者に会う用件があり、2人で出かけたら特高3人がいた。2人が同じ方向に逃げ、多喜二は着物で道がぬかるんでいたので追いつかれ、特高が「どろぼうだあ」と叫んだので、近くの大勢の運転手に取り押さえられた。
 多喜二だけではなかったのです。実に、特高に捕まって、拷問を受けて(または虐待されて)死んだ人は114人にのぼり、牢獄の劣悪な環境下で病気になり死亡した人は1,503人(出獄後病死した人も多数)。検挙された人数はというと、政府の統計でも7万5,681人、実際には十数万人と推測されています。
 多喜二は日記に記す。「雪に埋もれた人口15万に満たない北の国から、500人以上も“引っこ抜かれていった。これは、ただ事ではない」
 貧農出身の彼はもともと権力・抑圧者への反抗心を持っていたので、この三・一五事件は多大な影響を与えた。保釈された友人たちから過酷な拷問の話を聞くに及んで、元来読書好きの彼は事件を小説にし世間に国家の横暴を訴える決心をした。彼はまた、権力と戦う人物を欠点や弱さも兼ね備えた人間としてリアルに描き、安易に英雄像を作らなかった。
 「私は勤めていたので、ものを書くといってもそんなに時間はなかった。いつでも紙片と鉛筆を持ち歩き、朝仕事の始まる前とか、仕事が終わって皆が支配人の所で追従笑いをしている時とか、また友達と待ち合わせている時間などを使って、5行、10行と書いていった。私はこの作品を書くために2時間と続けて机に座ったことがなかったように思う。後半になると、一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。そこは警察内の(拷問の)場面だった。」(自伝)
 完成した作品「一九二八年三月十五日」は、特高警察の残虐性を初めて徹底的に暴露した小説として世間の注目を浴びたが、これによって彼は特高から恨みをかうことになり、後の悲劇を呼ぶことになる。
 翌年、26才の彼はオホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した「蟹工船」を発表する。蟹工船は過酷な労働環境に憤ってストライキを決行した人々が、虐げられた自分たちを解放しに来てくれたと思った帝国海軍により逆に連行されるという筋で、この作品で彼は大財閥と帝国軍隊の癒着を強烈に告発した。登場人物に名前がなく、群集そのものを主人公にした抵抗の物語は、ひろく一般の文壇からも認められ、読売の紙上では“1929年度上半期の最大傑作”として多くの文芸家から推された。
 しかし天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したことが不敬罪に問われ、『蟹工船』は『三月十五日』と共に発禁処分を受けてしまった。また、銀行からは解雇通知を受け取ることになる。多喜二は腹をくくった。ペンで徹底抗戦するために名前を変え、身分を隠して各地を“転戦”する人生を選択した。
孝丸だけが参列。
 文芸家協会から、届けられた花輪までが送り返され、プル新聞の記者達も露次の入口の空家を占領しているパイの溜りへ連行され、念入りな身体検査をされて、片っ端から追い返されるという気狂い沙汰だ。
「ほんに、みなさんから、せめてお花一本ずつなとあげてお貰しよう思うとりましたのに……」
 お母さんがしみじみという。そして真紅の布で覆うた柩の上の、息子の死顔をじっと見詰める。死体を引き取って来た通夜の晩にヤップの岡本唐貴君が、心をこめて描きあげた油絵だ。お母さんは、泣いて泣いて泣きぬいて、もう涙も出ないらしい。しかし、気は非常にしっかりしている。最初の晩からみれば、ずっと落着いて、少しも取り乱したところがない。その悲しみと、憤りをじっとこらえている姿が、かえって、たまらない思いをさせるのだ。
午後2時、お母さんを中心に、少数者で、告別式を初める。
 多喜二の2年後輩の寺田行雄には姉が2人いますが。上の姉は「ミトリ」、下の姉は「セツ」です。姉(セツ)は、親類の者と偽り警察の包囲網を通り抜けて多喜二宅に入ったそうです。ここで通夜・葬儀の手伝いをしています。骨あげにも参列して多喜二の骨を少し持ち帰ったそうです。津軽(旧姓:寺田)セツは、この分骨を昭和32年 8月2日に多喜二の生誕の地碑の土に返しました。
 江口が、親類の人達の同意を得て司会者としての挨拶をのべる。同志小林が、小説「一九二八年三月十五日」を提げて、我々の陣営へ現れて以来、最後の日まで、いかに、階級的忠誠を守り抜いて来たか、作家として組織者として、プロレタリア文化運動のために、いかに大きな貢献をして来たか、ということを、実例を挙げて熱心に話をした、そして、この思いがけない諦めきれない小林君の死が、作家同盟ひいては、日本の文化運動全体を、さらに強くひきしめ、かつ同志達の決意を新たにさせることによって、小林君の遺した事業を更に発展させるであろうし、そうすることのみが故人に対する唯一の慰めであり、且我々は必ずそうすることを遺族の皆さんの前に誓うものだといった。
 話しているうちに、人々の間から、すすり泣きの声が起った。ことに小樽の姉さんは声を挙げて泣いた。
・20日
正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。
午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)
午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。
・21日
正午ころ 東京検事局が出張検視し、死亡を確認。 
午後3時 警視庁と検事局、多喜二が心臓マヒによ り死亡したと発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。
大宅壮一、貴司山治などが築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。
築地小劇場で死亡を知った原泉が前田病院にかけつけ、「遺体に会わせろ」ともとめ、 特高とはげしくもみ合う。大宅壮一と貴司山治に救出された原泉は築地小劇場に戻り、各関係者と連絡を取る。
多喜二の母セキは 杉並区馬橋の自宅にいて、ラジオを聞いた隣家の主婦から知らされた。セキは預かっていた2才の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。
夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを2階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。
夕方 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来いと言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線(電車)でそのまま築地署に向かう。
夕方 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。
午後9時孫をおぶったセキが特高室を出され前田病院に入る。
午後9時40分 遺体とセキら親戚を載せた寝台車が前田病院を出発。江口らがタクシーで後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。10時半ころ 遺体は「幌をかけた不気味な大きな自動車」(小坂多喜子)に乗せられて小林家に到着した。
この時小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。小坂多喜子は車に僅かに遅れて到着した。
ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。
セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、安田が検視を行う。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたっている。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。
午後11時 窪川稲子の回想事件を知った時点で、窪川は中条の家(下落合)で夕食をともにしていた。時刻には他の証言と相当ズレており、その原因は稲子の思い違いにある。到着時刻は10時半前であろう。
江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)午前2時 窪川稲子の回想:壺井や、乳のみ児をおいてきた私や中條などが安田博士と一緒に外へ出た。…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った。(これは午後11時半のことであろう。窪川らが小林宅にいたのは1時間余ということになる)
・22日 
午前0時、近くになって作家同盟の同志を始めプロット、ヤップ、弁護士団、サークル員などが後から後からと駈けつけて来た。立野信之、本庄陸男、山田清三郎、川口浩、上野壮夫、淀野隆三、鹿治亘、千田是也、木村好子、後藤いく子、原泉子その他三十人ばかりが六畳にぎっしりつまった。一時近くなってヤップの国木田がデス・マスクをとった。それがすむと岡本唐貴が油絵で死顔を写し取った。3、4人が入れ代り立ち代り写真を撮った。
変わり果てた死顔の写真や、惨憺たる傷痕の写真やお通夜の写真が何枚もとられた。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。死に顔は、日本共産党の機関紙『赤旗』(せっき)が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で描き残され、千田是也が製作した、デス・マスクが小樽文学館にも現存している。
午前1時 小林家の6畳の書斎に遺体が安置され、人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。
江口渙によれば以下の如し
告別式は翌日午後1時から3時まで。通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた。
午後1時 告別式。会葬しようとした32名が拘束される。母セキ、弟三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけが参列。
翌日の夕刊で多喜二の死を知った佐多稲子(29歳)も、中条百合子(後の宮本百合子)(32才)と、多喜二が戻されたとう馬橋の家に急行しています。
十時過ぎさらに人が集まる。死に顔を油絵で書いたり、デス・マスクをとったり、写真をとったりする。
■多喜二母小林セキについて
1873~1961年5月10日87才9ヶ月で死亡。
1960年10月日本共産党に入党
2011年7月新日本出版から「母の語る小林多喜二」が出版。
「あ あ、またこの2月の月が来た。
本当にこの2月という月が
嫌な月、声を一杯に
泣きたい どこへ行っても泣かれない。
ああ でもラジオで
少し助かる
ああ涙が出る
眼鏡がくもる」
 多喜二の母セキの有名な文章です。セキが亡くなるまで毎年読んでいました。 秋田県の釈迦内村の小作農の娘・木村セキは、1886年頃に、 大館町の近くの農家・小林家に嫁ぎ、1906年に小樽に移住しました。長女ちま子、息子は多喜二と、後にバイオ リニストになる三吾、妹のゆき子を育てた平凡な幸せな母親でした。多喜二がプロレタリア作家として知られ、特高 警察に追いまわされるようになるまでは。
小林セキと、小林多喜二の波瀾万丈に満ちた生涯を描く。三浦綾子原作の小説「母」の映画化がされている。
映画母の公式ページ
■小林多喜二と志賀直哉の関係
 多喜二は白樺派の有名作家である志賀直哉を尊敬していました。
 小林多喜二が1931年11月上旬に奈良の志賀直哉を訪ねた。思想犯として特高からマークさ れている小林を2階の客間に一泊させ、志賀の次男・直吉と3人で奈良の"あやめ池遊園地に遊びにも行っている。これが、二人の最初で最後の出会いだった。
 小林多喜二は志賀文学の大ファンだった。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)時代から、志賀の作品で文学を学んだとも言われ、志賀にかなり傾倒していたとも言える。小林が初めて志賀に手紙を出し、志賀との文通が始まったのはこの学生時代の二十歳前後。その頃多喜二は、叔父の製パン工場で働くかたわら、学校に通っていた。21才で初めて書いた習作を志賀に郵送したりしたのもこの頃からだ。
 志賀は多喜二の拷問死について、「暗澹たる気持ちになった」と述べ、香典5円と弔文を送ります。一人のプロレタリア作家の死は、日本を代表する文豪の心にも暗い影を落としたのです。
■火葬場
 家から火葬場へ行く時警察の自動車がついてきて、沿道にも武装警官。大勢の人たちが街にでて多喜二を見送ってくれた。午後3時に杉並区堀之内の火葬場で焼かれて骨にされた。
 多喜二を殺した、須田と山口という大男が。
焼き場から帰ろうとしていると須田が江口をつかまえて「よくも小林を東京じゅう持って歩いて共産党の宣伝をしてくれたな」と検束しそうになったので、骨壷を抱いて車に飛び乗って難を逃れた。
■墓所
①多喜二の墓は南小樽の奥沢共同墓地にある。墓石の裏側は「昭和5年6月2日小林多喜二建立」。昭和5年(1930年)といえば、『蟹工船』発表の翌年だ。多喜二は『蟹工船』によって警察にマークされ、5月に初めて逮捕されている。そして、墓を建立した3週間後に再逮捕&起訴されており(『蟹工船』で不敬罪)、翌年1月まで約半年間、多数の思想犯が送られた豊多摩刑務所に収容されている。つまり、多喜二は当局による弾圧を日増しに実感するなか、保釈の隙をぬって自ら“小林家之墓”を建てたのだ。そこには「いま建てておかないと、ペンを握り続ければ死ぬかもしれない」という覚悟が込められているように見える。墓建立の3年後、多喜二は絶命した。
②墓所は、1930(昭和5)年に多喜二が上京後、母の念願だった墓の建立のために、原稿料を得た中から500円を送金。1930(昭和5)年6月2日に建てられ、1933(昭和8)年2月に多喜二が虐殺されて、母が遺骨を抱いて小樽に戻り納骨。住職は「物学荘厳信士」の戒名を授けた。墓の側面には父の戒名も刻まれている。タキもその後、亡くなりいま多喜二は、両親とともにここに眠る。
■多喜二以前に虐殺死とその隠蔽西田信春
 西田は多喜二より9ヵ新十津川村で育った。札幌一中、第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進学、倫理学を学ぶ一方、東大新人会の運動に参加し、卒業後は労働運動に従事した。日本共産党に加入後まもなく、1929年の四・一六事件で検挙・起訴された。31年11月、保釈されると、四・一六事件公判対策の活動を行う。
 32年4月3日付の母かめと妹静子宛の書簡の一節――「雪も消えて百姓達はそろそろ畠仕事に忙しくなる頃でせう。永い冬の圧迫から解放されて輝く陽の光の下で、体一杯呼吸している自然の万象の新鮮な姿が、今更のやうな力を以つて私の心にも蘇つて来ます」――からは、2年半余りの獄中生活の疲れを癒し、新たな運動に突き進もうとする西田の強く、明るい意志を感じとることができる。
 32年8月、党中央オルグとして派遣された九州地区で党再建活動を精力的に展開し、12月には党九州地方委員会の成立に至る。
 特高による党九州地方委員会の一斉検挙を前に33年2月10日、久留米駅前で検挙後、福岡警察署に移され、凄惨な拷問により11日未明に殺された。多喜二虐殺はこの9日後だった。
◆主な登場人物略歴順不同
▽中川成夫特別高等警察係長、高輪警察署長、築地警察署長、東京市滝野川区長、東映興行部長▽安倍源基日本の内務官僚、政治家、弁護士。警視庁特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任した。政治団体「新日本協議会」代表理事▽毛利基内務官僚、特別高等警察で活動、佐賀県・埼玉県などの警察部長を歴任した▽児玉誉士夫右翼運動家、自称CIAエージェント、暴力団・錦政会顧問
▼川合義虎大正期の労働運動活動家共産党員▼大杉榮思想家、作家、ジャーナリスト、社会運動家▼伊藤野枝日本の婦人解放運動家、作家、翻訳家、編集者▼江口 渙小説家共産党員多喜二死去葬儀委員長▼今村恒夫詩人共産党員▼三船留吉日社会運動家、実業家。日本共産党員でありつつ、特別高等警察(特高)のスパイとして活動した。「小林多喜二を売った男」として知られている▼岩田義道社会運動家共産党員7年スパイ飯塚盈延と連絡中に検挙され、同年11月3日拷問により死去35才▼大宅壮一ノンフィクション作家、評論家、三女はジャーナリストの大宅映子▼貴司山治プロレタリア文学の小説家、劇作家▼国木田独歩小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者▼笹本 寅時事新報記者、のち小説家▼窪川稲子- 佐多稲子 小説家▼原 泉女優、本名は中野 政野、夫はプロレタリア作家・文学者の中野重治▼千田是也演出家、俳優▼立野信之小説家▼本庄陸男小説家共産党員▼山田清三郎小説家、評論家▼川口浩ドイツ文学者、文芸理論家▼上野壮夫詩人、小説家、コピーライター▼淀野隆三文芸評論家、フランス文学者▼鹿地亘小説家共産党員▼木村好子詩人▼岡本唐貴プロレタリア画家、洋画家
◆付記
※多喜二の訃報を聞いた中国の作家・魯迅は次の弔電を寄せた--
「我々は知っている、我々は忘れない、我々は固く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」
※後年、多喜二の弟が兄の思い出を語っている--「地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。その第一楽章のクライマックスで泣いていた兄の姿が忘れられません」
※治安維持法1925年、社会主義運動や労働ろうどう運動をとりしまるために制定せいていされた法律。天皇を中心とする国家体制たいせいや私有財産制度を否定するすべての結社や行動を禁止。のち、1928年には処罰しょばつに死刑が加わり、労農運動や自由主義者の弾圧にも利用されるようになった。悪法として名高く、戦後の1945年に廃止はいしされた。
(写真)①小林多喜二
(写真)②小林多喜二の「蟹工船」
(写真)➂多喜二拷問の痕
(写真)➃ 変わり果てた多喜二の亡骸を悼む友人たち
(写真)⑤小林多喜二の母セキ
(写真)➅多喜二が立てた墓
(写真)⑦小樽文学館にあるデス・マスク
写真⑧小樽旭展望台にある小林多喜二文学碑
 
2023年2月20日    
作成者てつら由伽78才
 
 
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【地域宣伝活動 2023年1月1日~】
・のぼり 駅ラン 5回 
・のぼり 自転車 3回
・自転車街宣   1回
・のぼり街中ラン 1回
・のぼりウォーク 3回
・狭山街頭宣伝  1回
・総がかり行動  2回
・スタンディング 1回
・反原発茨金行動 2回
・反原発 11日行動  1回 
 
ビラ配布 2023年1月1日~】
・今日のビラ配布    0枚
・1月のビラ配布 9650枚
 
【ランと健康メモ】
・今日のラン        0㎞(含むビラニック)
・2月のラン 計   43 ,5 ㎞
・1月のラン 計  91㎞
・体調         良好
 
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HK & Les Saltimbanks "On l�・che rien" (Japanese subtitles)あきらめないぞ! (いつの世もあきらめたらおしまい。自民党安倍政権が政治の私物化をもくろみ、国民だれでも逮捕自由自在の「なんでも秘密」法(特定秘密保護法は自由民主党が自由と民主の真逆であるのと一緒で、特定ではなく官僚が秘密と言ったら秘密になる)に反対し続けます。この歌に勇気をもらって頑張ります。)
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