前回の龍王宮について
祖母からいろいろ教えてもらっていたのに
すっかり忘れてしまい
もう一度、龍王宮について詳しく知りたいと思い
梼原町関連のHP、高知県関連のHPなどで
検索してみましたが
何処も詳しい情報は得られませんでした。
諦めかけていた時
フッと頭をよぎりました。
龍王宮のある場所は愛媛県との県境付近。
もしかして愛媛県側にに詳細情報が残っているのでは?
思い立って調べると
愛媛県生涯学習センターのHPにありました。
龍王宮の宮司さんからの聞き取り内容をまとめたものが
データベース『えひめの記録』として残っていました。
高知県の神社に関する知りたかったことが
愛媛県でデータベース化されていたとは驚きです。
(私が見つけられなかったのかもしれませんが)
データベース『えひめの記憶』からコピペさせて頂きました。
愛媛県生涯学習センター
県境山間部の生活文化(平成5年度)
(エ)山と海の関わり-竜王神社の信仰
檮原町四万川の竜王神社は、豊漁、雨乞いに霊験あらたかな神として、高知県・愛媛県各地から、現在も多くの信者を集めている。
神社鎮座の縁起として、以下のことが棟札(むなふだ)と口碑に伝えられている。「中の川の『峯(山頂)古池』の水上にしばしば不思議の霊象が現われ、里人は神秘の事象として、安永5年(1776年)に池の神として祀る。
その後大風雨起こり古池決壊し、大洪水となり山林田畑を押し流し、それより度々奇限な事変が起こった。
巫女をもって神意を問えば、無信心の輩が池を冒涜(ぼうとく)したことによるものとし、さらに『われは、この池を去り、人跡まれなる大野が原小松が池に身を隠すべし。
されど、われを祀らば、神鎮まり諸々の幸福を与うべし(㉘)』とのことで、寛政6年(1794年)蛇王権現として社殿を建立したとされる。
その後現在地の壁路(へきろ)山城(中世の城郭があった)に遷宮し、竜王大権現(だいごんげん)(明治初年の神仏分離令で海津見(わだつみ)神社に改称し、豊玉姫(とよたまひめ)を祭神とする)として、四万川地区の総鎮守として杞(まつ)るよう(⑬⑮)になった。
この竜王神社には、峠を越えての愛媛県からの参拝者が多く、城川とのつながりが深いことから、その関わりを、現宮司の**さんからお聞きした。
**さん(檮原町四万川茶や谷 明治34年生まれ 93歳)
**さん(檮原町四万川茶や谷 昭和10年生まれ 59歳)
**の家は須崎の出で、明治初年ころ曾祖父がこちらのほうに移ってきました。
四万川小学校の学校創設の記念碑に、円明寺の住職さんとともに曾祖父の名前が刻んでありますので、寺子屋時代から学制頒布(はんぷ)の頃に教育に関わっていたようです。
読み書きができるのと併せて何らかの経験があったのか、その後、この同じ村のHさんから神職の譲りを受けて、曾祖父は竜王神社の宮司となったそうです。
祖父は檮原村村長も一時勤め、その時に電灯が初めてついたということです。
父や夫が宮司として神社を守ってきましたが、十数年前に夫を亡くし、昭和50年から私か宮司を勤めております。そんなこともあって、神社の由来や昔の事ははっきりしないことも多いのですが、伝えられている縁起によると中の川の峯古池から信仰が始まっております。
「大祭(新暦4月29日、11月23日)には、戦前は神社の石段が自分であがれず人波で押し上げられるくらい、数万以上の人が参拝に来られてました。
昭和30年代以降は参拝者が減ってきましたが、最近は自動車やバスでちょっと寄られることが多いです。
昔から参拝者の半数以上は漁師さんで、県内の佐賀(幡多郡)、須崎・久礼(高岡郡)や宇佐(土佐市)から、よく来られてました。愛媛からの参拝者も未だに多いです。
昔から参拝者の半数近くは愛媛からの人で、遊子(現宇和島市)では竜王様の分社をお祭りしていることから、漁業組合の人が毎年お参りに来られます。
以前は3人ほどの代参(代表して参拝すること)でしたが、最近はバスで30人ほど一緒に来られます。
戸島(としま)(現宇和島市)や足成(あしなる)(現西宇和郡瀬戸町)にも講があって、講員の方がお参りに来られてました。
他には、双海町(伊予郡)や、吉田町・津島町(北宇和郡)からの参拝者も多いです。鳥居は長浜町(喜多郡)の方の寄進によるもので、拝殿向拝(はいでんこうはい)の彫刻は内子(喜多郡)の発助さんの作で、本殿一間四面流造(神に幣帛を捧る所)の彫刻は山口県大島郡東和町の中本喜助さんが、釘を使わずに夜中にランプをつけて10年がかりで作ったものだそうです。
両方とも明治時代の製作で、今はこんな手のこんだものは作れないんじゃないかと思うくらいの細工がしてあります。
境内の下に旅館が2軒あって、大祭の日にはそれも一杯で、私等の家にも泊まってもらう有様で、学校の生徒まで、一杯になった自転車の整理に駆りだされていました。
大祭以外にも、参拝客は絶えずありまして、毎月のように、お供えのブリ等の魚を俵に入れたままいただき、近所にも差し上げたりしておりました。」
神社の神事としては、お正月は元旦祭、昔は4月28日が大祭で翌29日の天皇誕生日は四万川の集落の神祭(じんさい)として、『おなばれ』=お神幸をやりました。六丁の集落まで1里(4km)ほどの路を御輿(みこし)や牛鬼が連なって賑やかであったのですが、今は過疎化で本殿から石段を降りるまでが精一杯です。
6月30日が『大祓(おおはら)い』で、茶や谷集落の者がそれぞれたいまつを持って、昔番所のあった松が峠に集まり、下組の集落との境まで、虫送り(害虫退治)と夏病みの退散を願って歩きます。
私は神職総代として参加しております。なごし(夏越し)の祭とも言っております。
11月の23日が秋の大祭で、勤労感謝の日とあわせ、集落の神祭とお神幸がございます。12月31日は神社の大祓いとして、神事を行っております。
私は坪(つぼ)の田(た)の生まれで、ここは桜が峠(さくらがとう)・韮(にら)が峠(とう)がすぐそばで、峠を越えて野井川(城川町)や惣川(野村町)との行き来が多く、いとこなどたくさん縁づいております。
惣川には買物などにもよく行きました。この竜王様に嫁に行くとは露ほども思わず、小さい時は、1銭もらって2里ほど歩いて、大祭に来よりました。
大祭には、戦前までは奉納相撲があって、境内に土俵をついて、伊予からも大きい相撲取りさんが何人も来ておりました。
私は親に無理を言うて高知の女子師範に行かしてもらい、嫁入りしてからも小学校に勤めましたんで、あまり神社のことは知りません。嫁入りの時は、坪の田からずっと徒歩で、六丁では夜に皆が大火(おおび)をたいて迎えてもらって、火が着物にかかりそうだったので恐ろしかったです。
嫁入りしてからは、買物は主に六丁でしましたが、伊予から行商にもたくさん来ておりました。ミカンや野菜売り、おじゃこ(雑魚)売り、反物売りの入らかよく出入りして、本村のUさんはおじゃこ売りさんと結婚して、一緒に行商に回っておりました。
円明寺の孝山祭の時の地芝居は、朝早くからゴザを敷きにいって、近くの親戚も来て御馳走を持っていって、夜露にぬれながら見に行っとりました。
山間奥地の竜王神社と漁村のむすびつきは、現在の我々から見ると不思議にも思えるが、前述の雨包山の恵比寿神社と並べて考えて見ると、広く山間地域にそのような関係があったように思える。
また大野が原の竜王神社との関わりも興味深い。現在の道路事情では、この茶や谷の集落が行き止まりとなるが、ここには松が峠番所があり、大野が原、惣川方面に旧道が抜けていたため、大野が原を通して各方面に古くからの交流があったと考えられる。ともかく、この神社の存在が土佐と伊予との交流を大きく発展させたことに注目すべきであろう。
___読みやすくなるよう一部割愛、数か所改行させて頂きました__
薄曇りの日にガラスの外側の格子の間から
覗いてみた本殿の宮彫りです。素晴らしい!
石段の参道を登っていくと3組(?)の狛犬が次々と迎えてくれます。
一番好きな狛犬たち
私が小さい頃は石段の両側は背の低い木がまばらに生えていて
遠くまで見渡せる草原でした。
今は苔むした石段と緑に囲まれたこの参道が大好きです。
二つ目の石段の下から。
人々の篤い信仰を集めてきた龍王宮には
歴史と素晴らしいパワーがあるのですね。
納得です。