そのⅤ 紫野
天平八年(736)八月、薬狩りが生駒山中で慣行された。
阿部親王は小子(皇族)軍と中衛府軍を率いて意気揚々と狩りに挑んだ。
この一隊には真備の娘由利、梓中将の娘愛菜を始め、十人程の采女と女孺が
加わっていた。薬草を採取するためだ。
藤原氏は、仲麻呂の指揮する南家と京家の一隊と、弘嗣が指揮する式家と北
家の一隊が参加した。この二隊は、おなじ藤原氏ながら頗る仲が悪かった。狩
りと戦の区別がついていなかった。
「兄じゃ、宮城を出れば、我ら藤原氏の天下じゃ」
併走する南家の二人、仲麻呂と豊成。
「仲麻呂、あまり無茶をするな」
「なんの、皇族軍と弘嗣隊に一泡吹かせずにおく物か」
五十騎程の狩衣の武者が二人の後を追っている。
勢子も猟犬も追い付くのに躍起に成っている。
弘嗣の率いる式家と北家の目的は単純明快で有った。
沢山の獲物を狩り、阿部内親王隊に合流して、それを捧げる積もりだった。
阿部は狩衣ではなく胴巻き等の武具を纏っていた。真備が万一に備えて、憤
る内親王を宥めて付けさせたのだ。
いやいや付けてみた物の、阿部は気に入ってしまった。念願の戦に出陣した
が如くの気持ちに成って、いやが上にも身体も心も異様に昂揚していた。
「ソレッ!」とばかりに、一鞭、そしてもう一鞭くれて速駆けるが、真備と高
梓と中衛府の隊正(五十人隊長)、礫の五郎の異名を持つ勇者・佐伯五郎の三人
は余裕を持って併走していた。が、三騎は決して阿倍の前には出ない。
阿部は扇形に矢を並べた平胡(ひらやな)ぐいから矢柄を取り出し、手綱を離
し、矢を口に咥えて弓の弦を鳴らした。
「梓殿、わたくしの梓弓聞こえましたか?」
「確かに、厳かなる音に御座います。将兵は皆勇みに勇みましょうぞ」
梓弓とは儀式などで使う飾弓の事だ。
だが、高梓の弓は飾りでは無かった。
梓は無造作に弓に矢を番えて、虚空に放った。
日の本一の梓の放った矢は、上空に飛翔していた山鳥を射貫いていた。
「見事じゃ、流石に梓、見たぞ、鮮やかな手並み」
阿部も将兵も、皆箙を叩いて梓の弓に賞賛を送った。
阿倍の一隊は、草原に乗り入れた所で馬を止めた。
前方に原始の森が聳えていた。
その彼方から、勢子達の鳴り物と猟犬のけたたましい声が響いて来た。獲物
を阿部へと追い立てているのだ。
眞備と梓が鋭い目で前方に眼を凝らした。
森から一頭の巨大な猪が姿を現した。
生駒の主なのか、続々と猪達が続いて森から出て来た。
森の中から、鹿の角が見え隠れしている、鹿の群れは猪に護られていたの
だ。
更に狼の群れも姿を現した。今は生駒の住人達は争いを止め、心を一つにし
て狩人達に立ち向かっているのだ。
「内親王、慌てては成りませぬ」
眞備が阿部に心得を諭した。
「まずは敵の大将を射止めるのです」
「心得た!」
阿部は矢柄を弓に番えて猪の大将に的を絞って、キリリと引き絞った。
一斉に弓矢を構える狩衣の将兵達。
佐伯五郎だけが弓を構えずに礫を握りしめた。
その時、草原の左手から弘嗣隊が、右手から仲麻呂隊が雪崩れ込んできた。
狼の群れは二手に分かれて、それぞれに弘嗣隊と仲麻呂隊に立ち向かい、襲
いかかろうとしていた。
更に、様子を伺っていた鹿達も狼の後を慕った。
「兄じゃ、見たか! 面白くなって来たぞ」と、仲麻呂は豊成に叫ぶが如くに
して、雄叫びを上げた。
実は、この森の勇者達を阿倍のいる草原に追い立てて来たのは、他ならぬ仲
麻呂隊であった。
由利と愛菜達の周りを護衛の衛士が固めた。
幼い愛菜は恐怖に戦いて由利に縋り付いた。
「愛菜、案ずるでない。獣共はここまで辿り付けませぬ」
由利は脅える愛菜を優しく抱きしめた。
阿部は引き絞った鏑矢を大将猪に放った。
ヒュルヒュルと音を立て、弧を描いて大将に向かって行く阿倍の矢は、将兵
達を鼓舞した。
一斉に、大将に続く猪達に矢を放つ狩人達。
梓が弓で、五郎が礫を構えて大将猪に的を絞っていた。阿部がし損じた時の
備えだ。
バタバタと倒れる猪達。だが、大将に放たれた阿倍の鏑矢は尻を掠めて草原
に落ちた。
慌てて二の矢を番えようと、征矢を手に取る阿部。
その阿部を眞備が諫めた。
「姫! 慌てては成りませぬ。矢よりは手綱を確りと持ち為され」
「承知した。後は任したぞ、眞備」
騎馬を飛び降りた眞備は剣を抜いて、阿倍の前に立ちはだかった。
憤怒の形相で阿部に突進してくる大将猪。
疾風のように弘嗣が駆け寄り、彼の背中に飛び乗って剣を抜いて翳した。
梓の矢と、五郎の礫が猪目指して飛んでいった。
猪の心臓を刺し貫く弘嗣の剣。
ほぼ同時に、梓の矢と五郎の礫が眉間を襲った。
ドドッとばかりに地響きを立てて倒れる大将猪、尚も阿部を目指していた
が、立ちはだかっていた眞備の前で動きを止めた。
流石の森の勇者も、剣と矢と礫の前に、哀れ草むす屍と成り果てた。
倒れた猪の背から立ち上がった弘嗣が、阿部に剣を翳して叫んだ。
「我らは、内親王の前を阻むものは、何者で有っても必ずや打ち倒して見せます
る」
阿部も又、剣を翳して弘嗣に応えた。
仲麻呂と豊成も弘嗣の前に並んで剣を翳した。
「我ら藤原の者どもは皆、内親王をお護りして行きまする」
声を揃えて強張る二人。
三人は腰を屈めて阿部に御礼を捧げた。
仲麻呂が、チラッと阿部を盗み見た。
この時、仲麻呂の脳裏では、こんな事が掠めていた。「基皇太子(阿倍の弟)
が薨去しなければ、この娘は我妹となっていた筈」
仲麻呂は暗寧で執念深かった。
三人に馬を寄せる阿部。
「助成忝く承った。今後は、わたくしでは無く、天皇と朝廷に忠勤を励むが良
い」と、馬上から声を掛けた。
申の刻、夕七つ(午後三時)を回った時、一行は、臣籍に下った橘諸兄(葛城王)と白壁王が馳走し
て来た、昼食に舌鼓を打っていた。
阿倍の周りには、獲物の獣と籠に盛られた紫草などの薬草が堆く摘まれてい
た。
この頃昼食の習慣は無かったが、戦と狩りの時は別だった。
菓子を頬張る阿部を弘嗣が見詰め、笑いかけていた。
仲麻呂は睨むが如くに見据えていた。
大きく溜息を付く阿部。恋の板挟みで自殺した桜児を想い、額田王の歌を詠んでいた。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
読み上げた後、愛菜を見詰めた。
愛菜は思わず唾を飲み込んだ。内親王の望んでいる詩が浮かんで来ないの
だ。無理も無い、幼い女孺が桜児と額田王をかけた心情など知るよしも無かった。
見かねた由利が、愛菜の耳元でそっと囁いた。
「はるさらば」
やっと愛菜の脳裏にその詩が蘇った。
「春さらば かざしにせむと 我が思ひし 桜の花は 散りにけるかも」
続いて由利が、もう一人の桜児を偲んだ若者の詩を抑揚をかけ、歌うが如く
詠み上げた。
「妹が名に 懸けたる桜花 咲かば常にや 恋ひむいや年のはに」
こうして、桜児の恋の果ての如く、阿倍の恋も又、散りゆく花と成り果て
た。
2017年3月5日 Gorou
天平八年(736)八月、薬狩りが生駒山中で慣行された。
阿部親王は小子(皇族)軍と中衛府軍を率いて意気揚々と狩りに挑んだ。
この一隊には真備の娘由利、梓中将の娘愛菜を始め、十人程の采女と女孺が
加わっていた。薬草を採取するためだ。
藤原氏は、仲麻呂の指揮する南家と京家の一隊と、弘嗣が指揮する式家と北
家の一隊が参加した。この二隊は、おなじ藤原氏ながら頗る仲が悪かった。狩
りと戦の区別がついていなかった。
「兄じゃ、宮城を出れば、我ら藤原氏の天下じゃ」
併走する南家の二人、仲麻呂と豊成。
「仲麻呂、あまり無茶をするな」
「なんの、皇族軍と弘嗣隊に一泡吹かせずにおく物か」
五十騎程の狩衣の武者が二人の後を追っている。
勢子も猟犬も追い付くのに躍起に成っている。
弘嗣の率いる式家と北家の目的は単純明快で有った。
沢山の獲物を狩り、阿部内親王隊に合流して、それを捧げる積もりだった。
阿部は狩衣ではなく胴巻き等の武具を纏っていた。真備が万一に備えて、憤
る内親王を宥めて付けさせたのだ。
いやいや付けてみた物の、阿部は気に入ってしまった。念願の戦に出陣した
が如くの気持ちに成って、いやが上にも身体も心も異様に昂揚していた。
「ソレッ!」とばかりに、一鞭、そしてもう一鞭くれて速駆けるが、真備と高
梓と中衛府の隊正(五十人隊長)、礫の五郎の異名を持つ勇者・佐伯五郎の三人
は余裕を持って併走していた。が、三騎は決して阿倍の前には出ない。
阿部は扇形に矢を並べた平胡(ひらやな)ぐいから矢柄を取り出し、手綱を離
し、矢を口に咥えて弓の弦を鳴らした。
「梓殿、わたくしの梓弓聞こえましたか?」
「確かに、厳かなる音に御座います。将兵は皆勇みに勇みましょうぞ」
梓弓とは儀式などで使う飾弓の事だ。
だが、高梓の弓は飾りでは無かった。
梓は無造作に弓に矢を番えて、虚空に放った。
日の本一の梓の放った矢は、上空に飛翔していた山鳥を射貫いていた。
「見事じゃ、流石に梓、見たぞ、鮮やかな手並み」
阿部も将兵も、皆箙を叩いて梓の弓に賞賛を送った。
阿倍の一隊は、草原に乗り入れた所で馬を止めた。
前方に原始の森が聳えていた。
その彼方から、勢子達の鳴り物と猟犬のけたたましい声が響いて来た。獲物
を阿部へと追い立てているのだ。
眞備と梓が鋭い目で前方に眼を凝らした。
森から一頭の巨大な猪が姿を現した。
生駒の主なのか、続々と猪達が続いて森から出て来た。
森の中から、鹿の角が見え隠れしている、鹿の群れは猪に護られていたの
だ。
更に狼の群れも姿を現した。今は生駒の住人達は争いを止め、心を一つにし
て狩人達に立ち向かっているのだ。
「内親王、慌てては成りませぬ」
眞備が阿部に心得を諭した。
「まずは敵の大将を射止めるのです」
「心得た!」
阿部は矢柄を弓に番えて猪の大将に的を絞って、キリリと引き絞った。
一斉に弓矢を構える狩衣の将兵達。
佐伯五郎だけが弓を構えずに礫を握りしめた。
その時、草原の左手から弘嗣隊が、右手から仲麻呂隊が雪崩れ込んできた。
狼の群れは二手に分かれて、それぞれに弘嗣隊と仲麻呂隊に立ち向かい、襲
いかかろうとしていた。
更に、様子を伺っていた鹿達も狼の後を慕った。
「兄じゃ、見たか! 面白くなって来たぞ」と、仲麻呂は豊成に叫ぶが如くに
して、雄叫びを上げた。
実は、この森の勇者達を阿倍のいる草原に追い立てて来たのは、他ならぬ仲
麻呂隊であった。
由利と愛菜達の周りを護衛の衛士が固めた。
幼い愛菜は恐怖に戦いて由利に縋り付いた。
「愛菜、案ずるでない。獣共はここまで辿り付けませぬ」
由利は脅える愛菜を優しく抱きしめた。
阿部は引き絞った鏑矢を大将猪に放った。
ヒュルヒュルと音を立て、弧を描いて大将に向かって行く阿倍の矢は、将兵
達を鼓舞した。
一斉に、大将に続く猪達に矢を放つ狩人達。
梓が弓で、五郎が礫を構えて大将猪に的を絞っていた。阿部がし損じた時の
備えだ。
バタバタと倒れる猪達。だが、大将に放たれた阿倍の鏑矢は尻を掠めて草原
に落ちた。
慌てて二の矢を番えようと、征矢を手に取る阿部。
その阿部を眞備が諫めた。
「姫! 慌てては成りませぬ。矢よりは手綱を確りと持ち為され」
「承知した。後は任したぞ、眞備」
騎馬を飛び降りた眞備は剣を抜いて、阿倍の前に立ちはだかった。
憤怒の形相で阿部に突進してくる大将猪。
疾風のように弘嗣が駆け寄り、彼の背中に飛び乗って剣を抜いて翳した。
梓の矢と、五郎の礫が猪目指して飛んでいった。
猪の心臓を刺し貫く弘嗣の剣。
ほぼ同時に、梓の矢と五郎の礫が眉間を襲った。
ドドッとばかりに地響きを立てて倒れる大将猪、尚も阿部を目指していた
が、立ちはだかっていた眞備の前で動きを止めた。
流石の森の勇者も、剣と矢と礫の前に、哀れ草むす屍と成り果てた。
倒れた猪の背から立ち上がった弘嗣が、阿部に剣を翳して叫んだ。
「我らは、内親王の前を阻むものは、何者で有っても必ずや打ち倒して見せます
る」
阿部も又、剣を翳して弘嗣に応えた。
仲麻呂と豊成も弘嗣の前に並んで剣を翳した。
「我ら藤原の者どもは皆、内親王をお護りして行きまする」
声を揃えて強張る二人。
三人は腰を屈めて阿部に御礼を捧げた。
仲麻呂が、チラッと阿部を盗み見た。
この時、仲麻呂の脳裏では、こんな事が掠めていた。「基皇太子(阿倍の弟)
が薨去しなければ、この娘は我妹となっていた筈」
仲麻呂は暗寧で執念深かった。
三人に馬を寄せる阿部。
「助成忝く承った。今後は、わたくしでは無く、天皇と朝廷に忠勤を励むが良
い」と、馬上から声を掛けた。
申の刻、夕七つ(午後三時)を回った時、一行は、臣籍に下った橘諸兄(葛城王)と白壁王が馳走し
て来た、昼食に舌鼓を打っていた。
阿倍の周りには、獲物の獣と籠に盛られた紫草などの薬草が堆く摘まれてい
た。
この頃昼食の習慣は無かったが、戦と狩りの時は別だった。
菓子を頬張る阿部を弘嗣が見詰め、笑いかけていた。
仲麻呂は睨むが如くに見据えていた。
大きく溜息を付く阿部。恋の板挟みで自殺した桜児を想い、額田王の歌を詠んでいた。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
読み上げた後、愛菜を見詰めた。
愛菜は思わず唾を飲み込んだ。内親王の望んでいる詩が浮かんで来ないの
だ。無理も無い、幼い女孺が桜児と額田王をかけた心情など知るよしも無かった。
見かねた由利が、愛菜の耳元でそっと囁いた。
「はるさらば」
やっと愛菜の脳裏にその詩が蘇った。
「春さらば かざしにせむと 我が思ひし 桜の花は 散りにけるかも」
続いて由利が、もう一人の桜児を偲んだ若者の詩を抑揚をかけ、歌うが如く
詠み上げた。
「妹が名に 懸けたる桜花 咲かば常にや 恋ひむいや年のはに」
こうして、桜児の恋の果ての如く、阿倍の恋も又、散りゆく花と成り果て
た。
2017年3月5日 Gorou