七 笑美子
笑美子がミス東京に入ってきたのは去年の四月だった。芸能部長派の桜の妹なので、小桜という源氏名でデビューした。
四十も半ばを過ぎている桜とは二廻りほど年が離れていたから、妹というよりは娘といった方が相応しい年齢だ。あるいは小桜ではなく子桜だったのかも知れない。いかにもピチピチとして、例えれば瑞々しい桃のような娘だったので、ボーイの間などでは常に上位の人気を誇っていた。
ミス東京とてスタッフとホステスの色恋さたは御法度である。だが建前だけで、幹部たちからして掟を破ること甚だしいし、直にホステスと接触しているボーイの殆どが同棲相手を店の中で見つけていた。
不思議なことに、指名数を誇るホステスに美人は皆無で、若くいい女の指名順位は決まって三桁である。小桜も又そうだった。いつも姉の桜やその仲間達の席に呼ばれて、ぼんやりと気のない素振りで接客していたのを良く見かけたものだ。
普段の彼女は明るい声でころころと笑った。笑って桜海老の様に跳ね回るのだ。こんな女が、夏の盛りまで誰の毒牙にもかからなかったのは奇跡としか言いようが無い。よほど姉の桜が目を配っていたに相違ない。
八月も半ばを過ぎたある日。調光ルームに小桜が遊びに来て、調整卓で悪戯をしながらはしゃいでいた。
「このボタン押してご覧」
押すとフロアの照明が変わり、ミラーボウルが回った。
目を大きく見開いて小桜が喜んだ。
「こっちのボタン、押してもいい?」
「いいよ」
「でも、大丈夫?」
私はフロアを覗き込み、桜とその客がチークを踊っているのを確認しながら、
「いいから、押してご覧」
そっとボタンを押してみる小桜。
フロアの照明が更に暗くなり、桜たち二人だけがスポットライトに晒され、小桜は
手をたたいて喜んでいる。
いつの間にか照明室は二人だけになっていた。皆気を利かしたのかも知れない。
私は試しに小桜の手を握って見た。そっと握り返してくる。
「桜と一緒に暮らしているの?」
「ううん、一人よ」
「デートしよう」
「いつ?」
「いつか」
この頃の私はとても多忙で、はっきりといつなどと約束をする暇など無かった。マッキントッシュ(高級アンプ)を買うために、殆ど毎日麻雀で徹夜をしていたし、土日は朝から競馬場に入り浸った。
「いつか、暇が出来たら」
「そんなのイヤ」
「じゃあここで遊ぼ?」
「ここで?」
親指を立てて、
「指相撲しよう。僕に勝ったら何でも君の言うことを利く」
「ホント! 何でも?」
「ああ」
無邪気にも嬉しそうに笑う小桜。
最初は右手で対戦した。忽ち小桜の親指を押さえ込んで私の勝ちだ。右手をそのままにして、
「今度は左」、可愛い唇を尖らせて小桜が言った。
腕を交差して左手で戦う。今度は賢明に抵抗してきた。きっと左利きなのだろう。
真剣な顔で身を捩って善戦する。
頬がピンクに染まり、大きく開いたドレスの間で乳房が揺れた。
かなり苦労したが、負ける分けにはいかない。ようやく押さえ込んだ。
「僕の勝ちだね」
「もう一度!」
息を弾ませて小桜がせがむ。
私はいきなりその唇を奪った。さしたる抵抗を受けなかった。彼女は普段、あまり化粧をしない方だったが、この日はかなりきつい香水の匂いがした。
「鬼太郎ちゃん、ズルイ!」
「どうして?」
「これじゃ、拒むこと出来ないわ」
私に握りしめられた両の手に力を込めて言ったので、手を解放し、肩を抱くようにして口づけをした。
「さあ、これで自由、好きなように出来るだろ?」
頬を膨らませて大きくため息をついた小桜、私を見つめるその眼がキラキラと輝いている。
「好き・・・」
好きだと言ってくれたのか、好き?と聞いたのか分からなかったが、
「ああ、好きだよ」
と、言ってみた。
今度は自分から唇を寄せて来た。
激しく唇を求め合いながら、右手でドレスの上から乳房を揉んだ。愛撫するその手を、ドレスの胸からこじ入れ、直に乳房に触れた。しっとりと汗ばんだその乳房、ひんやりとした肌触りで心地よく私の掌に吸い付いて来る。
こうなったら若い男に自制など出来る分けが無い。性急にも、私の手は小桜の下半身を襲い、ドレスの下から入り込んで、下履きの中にまで進入しようとしている。
眉間に皺を寄せて、小桜は嫌々をする。
「駄目! お願い! 堪忍して」
小桜の手が私の手を払いのけようとすればするほど、気持ちが高ぶってしまう。
激しく争う手と手。ここでも私の手が勝った。と思ったその瞬間、激痛が左腕を走った。小桜が思いっきり噛みついたのだ。
飛び退くようにして左腕を見ると、血が流れていた。小桜はその傷口に口をつけて流れる血をすすり、素早くハンカチを巻いた。
何が何だか分けが分からない。呆然と立ち竦む私の頬を今度は小桜の手のひらが襲った。
「鬼太郎ちゃんなんか嫌い!」
潤む瞳でキッと睨んだかと思うと、踵を返して走り去った。
呆気にとられてただただ見送るのみの私。右手の人差し指に血がこびり付いていたので嘗めると、いやに生臭い匂いが鼻を突き刺した。
これだから女は嫌だ。とうてい理解出来ない。追いかければ隠れてしまうし、逃げればどこまでも追いかけてくるのだ。
次の日もその次の日も、小桜は店に出てこなかった。そのくせ、次の週顔を合わせると、何事も無かったようにケロリとしていた。私など、照れくさいやら恥ずかしいやらで、まともに小桜の顔を見る事も出来ず、姉の桜の視線を意識的に避けた程だというのに。
更に奇妙だったのは、暇を見つけては私の側に小桜がやって来るのだ。私がどんな時間に何処で一人になるのか、ちゃんと知っていて、一人になると必ず現れた、大抵オードブルや菓子に飲み物を持ってきた。
差し入れがジュースの時は一つだけ、一つのグラスに二つのストローを差し込み、額を寄せ合うようにしてジュースを飲まされた。まるで恋人気取りだ。
金輪際手など出すものか! もうあんな思いをするのは真っ平だ。私は固く己を戒め、堅い決意を心に秘めた。
「あたしお店辞めるの。今夜でおしまい、来月からOLになるのよ」
八月の終わりの事だった。鳥か何かの唐揚げを頬張りながらこう言って、小桜は小さく畳んだ紙ナプキンを私に握らせた。
「電話してね」
黙っていると指切りをせがんだ。
指切りを許すと安心したのか、ひどく嬉しそうに微笑んだ。
「きっとよ」
絡み合った小指が駒鳥のように別離を惜しんだ。
ホールからラストワルツが聞こえてきた。
小桜の後ろ姿を見送りながら、ナプキンを開くと、住所と電話と本名が書いてあった。橋本笑美子、私はこの時、初めて小桜の名前を知った。
2016年11月30日 Gorou
笑美子がミス東京に入ってきたのは去年の四月だった。芸能部長派の桜の妹なので、小桜という源氏名でデビューした。
四十も半ばを過ぎている桜とは二廻りほど年が離れていたから、妹というよりは娘といった方が相応しい年齢だ。あるいは小桜ではなく子桜だったのかも知れない。いかにもピチピチとして、例えれば瑞々しい桃のような娘だったので、ボーイの間などでは常に上位の人気を誇っていた。
ミス東京とてスタッフとホステスの色恋さたは御法度である。だが建前だけで、幹部たちからして掟を破ること甚だしいし、直にホステスと接触しているボーイの殆どが同棲相手を店の中で見つけていた。
不思議なことに、指名数を誇るホステスに美人は皆無で、若くいい女の指名順位は決まって三桁である。小桜も又そうだった。いつも姉の桜やその仲間達の席に呼ばれて、ぼんやりと気のない素振りで接客していたのを良く見かけたものだ。
普段の彼女は明るい声でころころと笑った。笑って桜海老の様に跳ね回るのだ。こんな女が、夏の盛りまで誰の毒牙にもかからなかったのは奇跡としか言いようが無い。よほど姉の桜が目を配っていたに相違ない。
八月も半ばを過ぎたある日。調光ルームに小桜が遊びに来て、調整卓で悪戯をしながらはしゃいでいた。
「このボタン押してご覧」
押すとフロアの照明が変わり、ミラーボウルが回った。
目を大きく見開いて小桜が喜んだ。
「こっちのボタン、押してもいい?」
「いいよ」
「でも、大丈夫?」
私はフロアを覗き込み、桜とその客がチークを踊っているのを確認しながら、
「いいから、押してご覧」
そっとボタンを押してみる小桜。
フロアの照明が更に暗くなり、桜たち二人だけがスポットライトに晒され、小桜は
手をたたいて喜んでいる。
いつの間にか照明室は二人だけになっていた。皆気を利かしたのかも知れない。
私は試しに小桜の手を握って見た。そっと握り返してくる。
「桜と一緒に暮らしているの?」
「ううん、一人よ」
「デートしよう」
「いつ?」
「いつか」
この頃の私はとても多忙で、はっきりといつなどと約束をする暇など無かった。マッキントッシュ(高級アンプ)を買うために、殆ど毎日麻雀で徹夜をしていたし、土日は朝から競馬場に入り浸った。
「いつか、暇が出来たら」
「そんなのイヤ」
「じゃあここで遊ぼ?」
「ここで?」
親指を立てて、
「指相撲しよう。僕に勝ったら何でも君の言うことを利く」
「ホント! 何でも?」
「ああ」
無邪気にも嬉しそうに笑う小桜。
最初は右手で対戦した。忽ち小桜の親指を押さえ込んで私の勝ちだ。右手をそのままにして、
「今度は左」、可愛い唇を尖らせて小桜が言った。
腕を交差して左手で戦う。今度は賢明に抵抗してきた。きっと左利きなのだろう。
真剣な顔で身を捩って善戦する。
頬がピンクに染まり、大きく開いたドレスの間で乳房が揺れた。
かなり苦労したが、負ける分けにはいかない。ようやく押さえ込んだ。
「僕の勝ちだね」
「もう一度!」
息を弾ませて小桜がせがむ。
私はいきなりその唇を奪った。さしたる抵抗を受けなかった。彼女は普段、あまり化粧をしない方だったが、この日はかなりきつい香水の匂いがした。
「鬼太郎ちゃん、ズルイ!」
「どうして?」
「これじゃ、拒むこと出来ないわ」
私に握りしめられた両の手に力を込めて言ったので、手を解放し、肩を抱くようにして口づけをした。
「さあ、これで自由、好きなように出来るだろ?」
頬を膨らませて大きくため息をついた小桜、私を見つめるその眼がキラキラと輝いている。
「好き・・・」
好きだと言ってくれたのか、好き?と聞いたのか分からなかったが、
「ああ、好きだよ」
と、言ってみた。
今度は自分から唇を寄せて来た。
激しく唇を求め合いながら、右手でドレスの上から乳房を揉んだ。愛撫するその手を、ドレスの胸からこじ入れ、直に乳房に触れた。しっとりと汗ばんだその乳房、ひんやりとした肌触りで心地よく私の掌に吸い付いて来る。
こうなったら若い男に自制など出来る分けが無い。性急にも、私の手は小桜の下半身を襲い、ドレスの下から入り込んで、下履きの中にまで進入しようとしている。
眉間に皺を寄せて、小桜は嫌々をする。
「駄目! お願い! 堪忍して」
小桜の手が私の手を払いのけようとすればするほど、気持ちが高ぶってしまう。
激しく争う手と手。ここでも私の手が勝った。と思ったその瞬間、激痛が左腕を走った。小桜が思いっきり噛みついたのだ。
飛び退くようにして左腕を見ると、血が流れていた。小桜はその傷口に口をつけて流れる血をすすり、素早くハンカチを巻いた。
何が何だか分けが分からない。呆然と立ち竦む私の頬を今度は小桜の手のひらが襲った。
「鬼太郎ちゃんなんか嫌い!」
潤む瞳でキッと睨んだかと思うと、踵を返して走り去った。
呆気にとられてただただ見送るのみの私。右手の人差し指に血がこびり付いていたので嘗めると、いやに生臭い匂いが鼻を突き刺した。
これだから女は嫌だ。とうてい理解出来ない。追いかければ隠れてしまうし、逃げればどこまでも追いかけてくるのだ。
次の日もその次の日も、小桜は店に出てこなかった。そのくせ、次の週顔を合わせると、何事も無かったようにケロリとしていた。私など、照れくさいやら恥ずかしいやらで、まともに小桜の顔を見る事も出来ず、姉の桜の視線を意識的に避けた程だというのに。
更に奇妙だったのは、暇を見つけては私の側に小桜がやって来るのだ。私がどんな時間に何処で一人になるのか、ちゃんと知っていて、一人になると必ず現れた、大抵オードブルや菓子に飲み物を持ってきた。
差し入れがジュースの時は一つだけ、一つのグラスに二つのストローを差し込み、額を寄せ合うようにしてジュースを飲まされた。まるで恋人気取りだ。
金輪際手など出すものか! もうあんな思いをするのは真っ平だ。私は固く己を戒め、堅い決意を心に秘めた。
「あたしお店辞めるの。今夜でおしまい、来月からOLになるのよ」
八月の終わりの事だった。鳥か何かの唐揚げを頬張りながらこう言って、小桜は小さく畳んだ紙ナプキンを私に握らせた。
「電話してね」
黙っていると指切りをせがんだ。
指切りを許すと安心したのか、ひどく嬉しそうに微笑んだ。
「きっとよ」
絡み合った小指が駒鳥のように別離を惜しんだ。
ホールからラストワルツが聞こえてきた。
小桜の後ろ姿を見送りながら、ナプキンを開くと、住所と電話と本名が書いてあった。橋本笑美子、私はこの時、初めて小桜の名前を知った。
2016年11月30日 Gorou