八
神亀五年の年が過ぎ、天平と年号が変わった春、正月一日。
首天皇は群臣と内外の命婦を中宮に招いて宴会を行い、身分に応じてあしぎ
ぬを下賜した。
正月七日、朝堂院に五位以上の官人を招いて饗宴が行われた。
京師の外れに、忘れられた一人の若き王が住んでいた。華やかな朝賀とかか
わりの無いその王の名は白壁王。天智系の施基皇子と道君伊羅都売の子であ
る。
伊羅都売とは娘というほどの意味で、名が伝わっていないためこう呼ばれて
いる。また、天皇の孫を王と称し、八世紀に入ってから王は天智天武兄弟の孫
に限られていたが、文武天皇以来天武系が主流を成し、天智系は疎じられてき
た。その為、天智系のこの若き王の唯一の処世術は目立たぬ事であった。赤で
も青でもなく、白壁の如く秘やかに何事かを待って、ひたすら目立たぬように
暮らしていた。
因みに、長屋王は天武天皇の孫であるから、本来は王と呼ばれるべきだが、
后の吉備内親王の位階が高いので親王と称すことを許されていた。
その白壁王、正月だと言うのにたった一人で雪見をしながら漢詩を創ってい
た。それとて誰かに披露するあてなど無かったに違いない。
母伊羅都売の甥道君苧人名が白壁王の為に精力的に動き回っていた。苧人名
は藤原氏と光明子に、井上内親王が伊勢の斎宮の任を終えた後には白壁王の妻
にと嘆願していた。井上の生母広刀自では無く、左大臣長屋王でも、橘の総師
葛城王でも、首天皇でも無かったところに、苧人名のしたたかさが見える。
今、奥の間で、その苧人名が能登の古豪二人と密議を交わしている。
やがて、二人の盗賊、火麻呂と泥麻呂が尋ねてきた。
「動かせる手下は精々五十、それだけで能登国衙を襲うことなど出来るもの
か」
思わぬ好機に胸を躍らせながらも否定する火麻呂。
「盗賊の群れなどあてには出来ぬ。軍勢は此方で用意いたす。汝は指揮をする
だけで良い」
と、比古麻呂。羽咋にその為の軍勢、新羅海賊の捕虜が飼ってあったのだ。
「最低二百は欲しい」
「二百でも千でも、必要なだけ用意する」
苧人名が眉一つ動かさずに言った。
「二百で十分だ、多すぎても足手まといになる。だが高くつくぞ」
「金銀の他に褒美を与える」
「褒美?」
含み笑いを浮かべて苧人名が火麻呂に答えた。
「葛麻呂の始末は、妻と子を含めて如何様にしても構わぬ」
したたかな苧人名はそこまで調べ上げて火麻呂を刺客に選んだのだ。
「何故海賊を助ける。本当に海賊なのか? 首領の名は何と言う」
「それは明かせぬぞ。汝の為だ。知らぬ方が良い」
「まあ良いだろう。少し考えさせて呉れ」
「今決めろ。断れば生きて館を出られると思うな」
「面白い。今殺されるも襲った後始末されるのも同じだ」
と、身構える火麻呂と泥麻呂。
「ハハハハ、ハハハハ」
突然笑い出す三人の古豪。
「気に入った」
と、苧人名。
「こやつなら成功するかも知れませんな」
と、比古麻呂。
「安心しろ、火麻呂とやら」
初めて龍麻呂が言葉を放った。
「こちらにも条件が有る。鬼を三匹所望したい。必ず鬼の三兄弟を連れて来
い」
「用心深く臆病な鬼達がおとなしくついてくるかどうか」
火麻呂の前に袋を投げる苧人名。
泥麻呂が中身を確かめると、大量の砂金の粒が出てきた。
「欲で釣ればよい。成功すればその二倍は払う。気付いているとは思うが、狐
と巫女を売ったのはあの鬼達である。捨てておいては今度は汝が売られるか殺
されてしまうぞ」
火麻呂は勿論気付いていた。復讐の機会を伺っていたのだ。
「生死は問わぬ、いっその事汝の手で地獄に送ってやれ。その方が鬼に似合っ
ている」
龍麻呂の一言で火麻呂の心は決まった。
「直ぐに能登に入れ、雪解け前に必ず決行するのだ」
念を押す比古麻呂。
羽咋郡司の一行に紛れて、火麻呂とその一党が能登国羽咋郡荒木郷に入っ
た。
火麻呂、泥麻呂、蟷螂、鼎、鬼の三兄弟、般若党の七人は荒木郷に潜伏し、
夫々の思惑を秘めてその時を待った。
火麻呂は一日中能登の方を睨んで思索を巡らし、鼎がそんな火麻呂を悲しい
眼差しで見詰め続け、その鼎を優しく見守る泥麻呂。
泥麻呂が始めて鼎を見た時は、薄汚れた小汚い娘でしかなかったが、日を重
ねるごとに美しく、艶めかしくなっていく。化けているのか、素に戻っていく
のか分からなかった。この鼎は処刑された鼎の影だったと聞いていたが、それ
も分からないと思った。影にしては余りにも術の切れが冴えていたのだ。
鼎は泥麻呂の愛妻馬酔木に少し似ていた。馬酔木よりも娘の楓にもっと似て
いた。
きびきびとした動き、時折見せる愛くるしい笑顔など瓜二つだ、と泥麻呂は
思った。楓が生き続けたとすれば、鼎のような容姿をもった、小気味の良い、
小股の切れ上がった娘に成長するに違いない。
一山越えた熊来郷の罪人、鬼の三兄弟は人目を恐れて隠れ家から一歩も外に
出なかった。欲に釣られてついて来たものの、後悔していた。昼間から寝転が
ってひそひそと火麻呂殺しの悪巧みを囁きあっていた。
蟷螂は今日も増穂浦の松の根元で冬の海を眺めていた。
なだらかな白い砂浜が続き、二つの岬に守られた増穂浦の海は冬とは思えぬ
優しい波で満ちていた。
トントントン、潮風に乗って何かを叩く音が聞こえてきた。その音は左手の
河口の奥から聞こえてくるようだ。
目を細めて見やる蟷螂。高い柵の向こうから二本の丸太がかすかに頭を出し
ていた。
「海が好きなのね」
いつの間にか娘が傍らに佇んでいた。亀殿とか、お亀様と呼ばれている、般
若党の七人が寄宿している屋敷の母屋の娘だ。
「あの山はなんという山ですか?」
蟷螂は富士に似ている小さな山を指差して娘に聞いた。
「高爪山」
亀のおちょぼ口に似せた大きな口が開いて答えた。
「あの山は?」
今度は高爪山の反対方向に聳える白い連峰を指差して聞く蟷螂。
「白山」
大きく見せた目を細めて白山を見る亀。
「生まれて始めて海を見たのは、高爪山のような姿で白山よりも白く大きな
山、富士山の麓だった。それからずっと海の事が忘れられない、海は良い、海
は母親のように優しく大きく厳しい」
寡黙な蟷螂が珍しく熱く語った。
「いつか、この海を越えて大陸まで行ってみたい。南の果てにある冥界まで行
ってみたい」
「だったら船乗りになれば良い」
「船乗り?」
蟷螂は亀をまじまじと見た。こんなにちゃんとこの娘を見たのは初めてだっ
た。
全ての釣り合いがなんとなく狂っていた。分厚い唇に紅をちょこんとつけて
おちょぼ口を造り、あるかないかの薄い目と団子のように丸い鼻に影をつけて
大きく高く見せようという、涙ぐましいまでの努力の跡が見えた。「化粧など
しないほうが余程可愛いのに」、蟷螂は思った、「亀というのは本当の名前だ
ろうか?」とも思った。まるでおかめのようにふくよかで愛くるしい顔をして
いるのだ。蟷螂は、取り澄ました美人、妹の鶴よりも姉の亀のほうが好ましい
と思った。
「いいもの見せてあげる」
蟷螂の手を引いて、柵の方角に歩き出す亀。
傍まで来ると、柵の高さは十間は優に越えていた。
小さな扉が開いて大工たちがぞろぞろと出てきて、亀に会釈をしながら通り
過ぎて行った。
笑顔を振りまきながら、蟷螂の手を引いた亀が柵の扉の前に立った。
「亀殿、よそ者は中に入れるわけには参りません」
番人の若者が恐る恐る言った。
「よそ者では有りません、この亀の婿殿です」
「そんな話聞いていません」
「意地悪をしたら痛い目に遭いますぞ。良いのか、亀を怒らしたら鶴の傍には
一生寄れませんぞ!夜這うて来ても、妹の寝床には辿り着けぬぞ」
「ひどいことを言うな亀殿」
扉を開ける亀、戸惑う蟷螂の手を引いて柵の中に入って行った。
「鶴に逢わせてやるから見なかった事にしろ」
柵の外に佇む若者に亀の言葉だけが残った。
驚きの余り立ち竦む蟷螂、眼前に見たこともない大きな船が聳えていたの
だ。
「凄い! これは凄い、大きい! 美しい!」
思わず船の傍に駆け寄る蟷螂、亀が後を追って腕に縋りついた。
振り返る亀の視線の先で三人の匠が図面を見ながら打ち合わせをしていた。
棟梁らしき匠、母屋の主がチラッと娘の亀と蟷螂に視線を寄せた。
蟷螂の腕を強く抱きしめ、亀が父親に笑顔を送った。
厳つい匠の顔に微かに浮かぶ笑み。直ぐに真顔に戻った棟梁が匠たちになに
やら命じた。
「一体何人乗れるのだろう?」
二十間以上はあろうかという船体に二本の帆柱が聳えていた。
「百人以上乗れると言っていた」
朱色の巨体を見上げる蟷螂、船首に大きく、能登号と標されていた。
「能登号に乗りたいか? 蟷螂殿」
「ああ、乗りたい!」
「だったら水夫になれ」
「船乗か? いいなあ、だがどうすれば成れる」
「亀の婿に成れば良い」
亀をまじまじと見詰める蟷螂。
「蟷螂殿は亀が嫌いか?」
ポッと顔を赤らめる亀。
「いや・・・・」、首を傾げて考える蟷螂。
「嫌いでは無い。むしろ好きになれるかも知れない」
「だったら亀の婿になれ」
蟷螂の胸に顔を埋めて縋りつく亀。
顔を輝かせて能登号を仰ぐ蟷螂。
「この能登号の水夫になれるのか」
「ああ、亀の父は匠の棟梁で能登号の船長」
「この船ならどんな荒海にも負けない。荒れ狂う台風にだって勝てるに決まっ
ている」
蟷螂の愛称を持つ若者、板振鎌束は、天平元年(西暦七百二十九年)一月、
後に従五位下の位階を授かる能登号と運命的な出会いをした。
春の足音が聞こえてはいるが、寒さは更に厳しくなり、重ね着ならぬ如月、
二月。能登は未だに雪に閉ざされたままだった。
その頃、春の嵐が平城で吹き荒れていた。
二月三日、定員三百の東舎人、中衛府の衛士が突然千人に膨れ上がった。
朝堂で内大臣中衛府大将房前を詰問する左大臣長屋王。
知らぬ存ぜぬと、しらを切り通す房前。
翌四日、西征していた宇合と麻呂が帰京し、藤原の兵士と中衛府合同の軍事
調練を佐保の河原で展開した。
今まで好意的だった二人の行動に戦慄を覚える長屋王。子虫が宮城十二門を
守る門号氏族の間を奔走した。旅人は大宰府に在り、古麻呂は静観して動か
ず、やむなく大伴氏でも小物の子虫を使ったのだ。
それでもおおむね好感触を掴んだ長屋王は藤原氏との決戦を決意し、能登の
葛麻呂に愛発関を抑えるように急使を出したのが二月六日未明。
追っ手をかけながらわざと取り逃がす藤原氏。
二月八日、急使が能登国守館に駆け込んだ。
二月九日未明、葛麻呂と鹿人に率いられた能登軍団千五百が愛発目指して進
軍。
二月十日、中臣連東人が「長屋王は秘かに左道を持って国家に謀反を企てて
います」と訴えでた。
同日夜、式部卿藤原朝臣宇合、佐味朝臣虫麻呂等に率いられた六衛府の兵が
長屋王邸を包囲した。
昼夜を違わず駆け抜けた能登軍団だったが、雪に阻まれ、十一日夜ようやく
愛発に到着した。
愛発関に翻る中衛府と藤原氏の纛旙に愕然とする葛麻呂、それでも愛発関に
対して陣を張った。
「なんとか愛発を破れぬだろうか?」
「いいえ、良くて十に一つ。兵を平地に引く方が得策と思います」
鹿人の心境は複雑だった。父の龍麻呂から軽はずみに戦を仕掛けてはならぬ
と命じられていたが、尊敬し目標としている高梓と叡智の限りを尽くして闘っ
てみたい、という誘惑が心に浮かんできた。それとて、滅びの美学でしかない
のは良く分かっていた
「十に一つでも勝ち目が有るのなら、賭けてみる価値は有ります」
臆病な葛麻呂とも思えぬ大胆な発言をした。葛麻呂なりに覚悟を決めいてい
たのだ。
「関を一時的に占領した所でどうにもなりません。恐らく我が軍は孤立無援と
なっています」
騎馬の斥候兵が急を知らせた。
「後方に軍勢が迫っています。恐らく越前丹生団かと」
斥候の報告で、葛麻呂も鹿人も、「もはやこれまで」、と観念した。賊軍に
なったのだ。
官軍、賊軍、という日本固有の概念は庶民や兵卒にはまだ芽生えていなかっ
た。忠誠心という点から考えたとしたら、能登軍団の兵士たちは、雲の上の天
皇に対するより、郷土の英雄熊来鹿人にたいする忠誠心の方が遥かに強かっ
た。
しかし、大伴氏の葛麻呂と左衛門府に出仕していた鹿人には十分すぎるほど
現実を理解する事が出来た。藤原氏との戦にためらいを覚えるはずが無かった
が、近衛兵と言える中衛府に挑めば謀反であり、愛発関を畿外から襲えば叛乱
である。
総大将高梓自らが単身で葛麻呂の陣を訪れた。
鹿人と二人だけで梓と会見する葛麻呂。
「私には何が何だか訳が分からぬ。叛乱を起こしたのは藤原氏では無いの
か!」
葛麻呂の問いに静かに首を横に振る梓。
「左大臣は如何なされていますか?」
「既に自害されているかと」
がっくりと膝を落とす葛麻呂。
「ああ、遅かった、後半日早ければ、愛発関をこの手で落としていたなら」
「能登守殿、これで良かったのです。もし、そうなっていたなら、罪は御身一
つでは済みません」
「私一人が自害すれば済むのか? 罪は一族に及ばぬのか?」
頷く梓。
「ああ!」
はらはらと涙を落とす葛麻呂、梓の手を取って拝んだ。
跪いて葛麻呂に応える梓。
「少将殿、毛虫と雅をお願いいたす」
「我が身に代えても必ず」
なおも梓の手を握り締め、天を仰いで目を瞑る葛麻呂。
「少将殿、少将殿、雄々しくも華麗に羽ばたいた毛虫が天皇から節刀を授けら
れる勇姿がありありと見えます」
葛麻呂の網膜には神秘の森で天皇から節刀を授けられる。、逞しくも美しく
成人した毛虫の姿が映っていた。
木漏れ日が天皇の顔を照らし、宝冠が煌めいた。
目を開ける葛麻呂、首を傾げて呟いた。
「ああ無念! 儚き夢で御座った。私の頭に浮かんだ天皇は女帝でした」
「さすがは能登守」
大袈裟に驚いてみせる梓、葛麻呂の耳元でこう囁いた。
「次の皇太子は安部姫皇女に内定しております。正夢で御座います」
「おお、おお、そうであったか」
「この事は一部の高官しか知らぬ秘事、決して口外してはなりませぬぞ」
大きく頷く葛麻呂、矢張り雅は賢かったのだ。
再び目を瞑る葛麻呂。
美しく聡明で強く優しい雅の血を継いだ若武者が節刀を戴いてすっくと立ち
上がった。
輝く太陽が美麗なその勇姿を照らした。
晴れやかな顔で梓に頭を下げる葛麻呂。
「これでこの世に思い残すことは何もありません。少将殿、おさらばで御座
る」
刀子を首に当てて自害しようとする葛麻呂、覚悟の筈が、この期に及んで手
が震えて己が首を刺し貫くことがなかなか出来なかった。
見るに見かねた梓が鹿人に大きく頷いた。
「能登守様御免!」
背後から抱きかかえるようにして葛麻呂の自害を助ける鹿人。
刀子が首を貫いた瞬間、梓の太刀が閃いて葛麻呂の首を切り落とした。
哀れ葛麻呂、己が器量で内乃兵大伴氏に生まれた為、逆賊の汚名をきせられ
て草生す屍となり果てた。
2016年12月13日 Gorou
神亀五年の年が過ぎ、天平と年号が変わった春、正月一日。
首天皇は群臣と内外の命婦を中宮に招いて宴会を行い、身分に応じてあしぎ
ぬを下賜した。
正月七日、朝堂院に五位以上の官人を招いて饗宴が行われた。
京師の外れに、忘れられた一人の若き王が住んでいた。華やかな朝賀とかか
わりの無いその王の名は白壁王。天智系の施基皇子と道君伊羅都売の子であ
る。
伊羅都売とは娘というほどの意味で、名が伝わっていないためこう呼ばれて
いる。また、天皇の孫を王と称し、八世紀に入ってから王は天智天武兄弟の孫
に限られていたが、文武天皇以来天武系が主流を成し、天智系は疎じられてき
た。その為、天智系のこの若き王の唯一の処世術は目立たぬ事であった。赤で
も青でもなく、白壁の如く秘やかに何事かを待って、ひたすら目立たぬように
暮らしていた。
因みに、長屋王は天武天皇の孫であるから、本来は王と呼ばれるべきだが、
后の吉備内親王の位階が高いので親王と称すことを許されていた。
その白壁王、正月だと言うのにたった一人で雪見をしながら漢詩を創ってい
た。それとて誰かに披露するあてなど無かったに違いない。
母伊羅都売の甥道君苧人名が白壁王の為に精力的に動き回っていた。苧人名
は藤原氏と光明子に、井上内親王が伊勢の斎宮の任を終えた後には白壁王の妻
にと嘆願していた。井上の生母広刀自では無く、左大臣長屋王でも、橘の総師
葛城王でも、首天皇でも無かったところに、苧人名のしたたかさが見える。
今、奥の間で、その苧人名が能登の古豪二人と密議を交わしている。
やがて、二人の盗賊、火麻呂と泥麻呂が尋ねてきた。
「動かせる手下は精々五十、それだけで能登国衙を襲うことなど出来るもの
か」
思わぬ好機に胸を躍らせながらも否定する火麻呂。
「盗賊の群れなどあてには出来ぬ。軍勢は此方で用意いたす。汝は指揮をする
だけで良い」
と、比古麻呂。羽咋にその為の軍勢、新羅海賊の捕虜が飼ってあったのだ。
「最低二百は欲しい」
「二百でも千でも、必要なだけ用意する」
苧人名が眉一つ動かさずに言った。
「二百で十分だ、多すぎても足手まといになる。だが高くつくぞ」
「金銀の他に褒美を与える」
「褒美?」
含み笑いを浮かべて苧人名が火麻呂に答えた。
「葛麻呂の始末は、妻と子を含めて如何様にしても構わぬ」
したたかな苧人名はそこまで調べ上げて火麻呂を刺客に選んだのだ。
「何故海賊を助ける。本当に海賊なのか? 首領の名は何と言う」
「それは明かせぬぞ。汝の為だ。知らぬ方が良い」
「まあ良いだろう。少し考えさせて呉れ」
「今決めろ。断れば生きて館を出られると思うな」
「面白い。今殺されるも襲った後始末されるのも同じだ」
と、身構える火麻呂と泥麻呂。
「ハハハハ、ハハハハ」
突然笑い出す三人の古豪。
「気に入った」
と、苧人名。
「こやつなら成功するかも知れませんな」
と、比古麻呂。
「安心しろ、火麻呂とやら」
初めて龍麻呂が言葉を放った。
「こちらにも条件が有る。鬼を三匹所望したい。必ず鬼の三兄弟を連れて来
い」
「用心深く臆病な鬼達がおとなしくついてくるかどうか」
火麻呂の前に袋を投げる苧人名。
泥麻呂が中身を確かめると、大量の砂金の粒が出てきた。
「欲で釣ればよい。成功すればその二倍は払う。気付いているとは思うが、狐
と巫女を売ったのはあの鬼達である。捨てておいては今度は汝が売られるか殺
されてしまうぞ」
火麻呂は勿論気付いていた。復讐の機会を伺っていたのだ。
「生死は問わぬ、いっその事汝の手で地獄に送ってやれ。その方が鬼に似合っ
ている」
龍麻呂の一言で火麻呂の心は決まった。
「直ぐに能登に入れ、雪解け前に必ず決行するのだ」
念を押す比古麻呂。
羽咋郡司の一行に紛れて、火麻呂とその一党が能登国羽咋郡荒木郷に入っ
た。
火麻呂、泥麻呂、蟷螂、鼎、鬼の三兄弟、般若党の七人は荒木郷に潜伏し、
夫々の思惑を秘めてその時を待った。
火麻呂は一日中能登の方を睨んで思索を巡らし、鼎がそんな火麻呂を悲しい
眼差しで見詰め続け、その鼎を優しく見守る泥麻呂。
泥麻呂が始めて鼎を見た時は、薄汚れた小汚い娘でしかなかったが、日を重
ねるごとに美しく、艶めかしくなっていく。化けているのか、素に戻っていく
のか分からなかった。この鼎は処刑された鼎の影だったと聞いていたが、それ
も分からないと思った。影にしては余りにも術の切れが冴えていたのだ。
鼎は泥麻呂の愛妻馬酔木に少し似ていた。馬酔木よりも娘の楓にもっと似て
いた。
きびきびとした動き、時折見せる愛くるしい笑顔など瓜二つだ、と泥麻呂は
思った。楓が生き続けたとすれば、鼎のような容姿をもった、小気味の良い、
小股の切れ上がった娘に成長するに違いない。
一山越えた熊来郷の罪人、鬼の三兄弟は人目を恐れて隠れ家から一歩も外に
出なかった。欲に釣られてついて来たものの、後悔していた。昼間から寝転が
ってひそひそと火麻呂殺しの悪巧みを囁きあっていた。
蟷螂は今日も増穂浦の松の根元で冬の海を眺めていた。
なだらかな白い砂浜が続き、二つの岬に守られた増穂浦の海は冬とは思えぬ
優しい波で満ちていた。
トントントン、潮風に乗って何かを叩く音が聞こえてきた。その音は左手の
河口の奥から聞こえてくるようだ。
目を細めて見やる蟷螂。高い柵の向こうから二本の丸太がかすかに頭を出し
ていた。
「海が好きなのね」
いつの間にか娘が傍らに佇んでいた。亀殿とか、お亀様と呼ばれている、般
若党の七人が寄宿している屋敷の母屋の娘だ。
「あの山はなんという山ですか?」
蟷螂は富士に似ている小さな山を指差して娘に聞いた。
「高爪山」
亀のおちょぼ口に似せた大きな口が開いて答えた。
「あの山は?」
今度は高爪山の反対方向に聳える白い連峰を指差して聞く蟷螂。
「白山」
大きく見せた目を細めて白山を見る亀。
「生まれて始めて海を見たのは、高爪山のような姿で白山よりも白く大きな
山、富士山の麓だった。それからずっと海の事が忘れられない、海は良い、海
は母親のように優しく大きく厳しい」
寡黙な蟷螂が珍しく熱く語った。
「いつか、この海を越えて大陸まで行ってみたい。南の果てにある冥界まで行
ってみたい」
「だったら船乗りになれば良い」
「船乗り?」
蟷螂は亀をまじまじと見た。こんなにちゃんとこの娘を見たのは初めてだっ
た。
全ての釣り合いがなんとなく狂っていた。分厚い唇に紅をちょこんとつけて
おちょぼ口を造り、あるかないかの薄い目と団子のように丸い鼻に影をつけて
大きく高く見せようという、涙ぐましいまでの努力の跡が見えた。「化粧など
しないほうが余程可愛いのに」、蟷螂は思った、「亀というのは本当の名前だ
ろうか?」とも思った。まるでおかめのようにふくよかで愛くるしい顔をして
いるのだ。蟷螂は、取り澄ました美人、妹の鶴よりも姉の亀のほうが好ましい
と思った。
「いいもの見せてあげる」
蟷螂の手を引いて、柵の方角に歩き出す亀。
傍まで来ると、柵の高さは十間は優に越えていた。
小さな扉が開いて大工たちがぞろぞろと出てきて、亀に会釈をしながら通り
過ぎて行った。
笑顔を振りまきながら、蟷螂の手を引いた亀が柵の扉の前に立った。
「亀殿、よそ者は中に入れるわけには参りません」
番人の若者が恐る恐る言った。
「よそ者では有りません、この亀の婿殿です」
「そんな話聞いていません」
「意地悪をしたら痛い目に遭いますぞ。良いのか、亀を怒らしたら鶴の傍には
一生寄れませんぞ!夜這うて来ても、妹の寝床には辿り着けぬぞ」
「ひどいことを言うな亀殿」
扉を開ける亀、戸惑う蟷螂の手を引いて柵の中に入って行った。
「鶴に逢わせてやるから見なかった事にしろ」
柵の外に佇む若者に亀の言葉だけが残った。
驚きの余り立ち竦む蟷螂、眼前に見たこともない大きな船が聳えていたの
だ。
「凄い! これは凄い、大きい! 美しい!」
思わず船の傍に駆け寄る蟷螂、亀が後を追って腕に縋りついた。
振り返る亀の視線の先で三人の匠が図面を見ながら打ち合わせをしていた。
棟梁らしき匠、母屋の主がチラッと娘の亀と蟷螂に視線を寄せた。
蟷螂の腕を強く抱きしめ、亀が父親に笑顔を送った。
厳つい匠の顔に微かに浮かぶ笑み。直ぐに真顔に戻った棟梁が匠たちになに
やら命じた。
「一体何人乗れるのだろう?」
二十間以上はあろうかという船体に二本の帆柱が聳えていた。
「百人以上乗れると言っていた」
朱色の巨体を見上げる蟷螂、船首に大きく、能登号と標されていた。
「能登号に乗りたいか? 蟷螂殿」
「ああ、乗りたい!」
「だったら水夫になれ」
「船乗か? いいなあ、だがどうすれば成れる」
「亀の婿に成れば良い」
亀をまじまじと見詰める蟷螂。
「蟷螂殿は亀が嫌いか?」
ポッと顔を赤らめる亀。
「いや・・・・」、首を傾げて考える蟷螂。
「嫌いでは無い。むしろ好きになれるかも知れない」
「だったら亀の婿になれ」
蟷螂の胸に顔を埋めて縋りつく亀。
顔を輝かせて能登号を仰ぐ蟷螂。
「この能登号の水夫になれるのか」
「ああ、亀の父は匠の棟梁で能登号の船長」
「この船ならどんな荒海にも負けない。荒れ狂う台風にだって勝てるに決まっ
ている」
蟷螂の愛称を持つ若者、板振鎌束は、天平元年(西暦七百二十九年)一月、
後に従五位下の位階を授かる能登号と運命的な出会いをした。
春の足音が聞こえてはいるが、寒さは更に厳しくなり、重ね着ならぬ如月、
二月。能登は未だに雪に閉ざされたままだった。
その頃、春の嵐が平城で吹き荒れていた。
二月三日、定員三百の東舎人、中衛府の衛士が突然千人に膨れ上がった。
朝堂で内大臣中衛府大将房前を詰問する左大臣長屋王。
知らぬ存ぜぬと、しらを切り通す房前。
翌四日、西征していた宇合と麻呂が帰京し、藤原の兵士と中衛府合同の軍事
調練を佐保の河原で展開した。
今まで好意的だった二人の行動に戦慄を覚える長屋王。子虫が宮城十二門を
守る門号氏族の間を奔走した。旅人は大宰府に在り、古麻呂は静観して動か
ず、やむなく大伴氏でも小物の子虫を使ったのだ。
それでもおおむね好感触を掴んだ長屋王は藤原氏との決戦を決意し、能登の
葛麻呂に愛発関を抑えるように急使を出したのが二月六日未明。
追っ手をかけながらわざと取り逃がす藤原氏。
二月八日、急使が能登国守館に駆け込んだ。
二月九日未明、葛麻呂と鹿人に率いられた能登軍団千五百が愛発目指して進
軍。
二月十日、中臣連東人が「長屋王は秘かに左道を持って国家に謀反を企てて
います」と訴えでた。
同日夜、式部卿藤原朝臣宇合、佐味朝臣虫麻呂等に率いられた六衛府の兵が
長屋王邸を包囲した。
昼夜を違わず駆け抜けた能登軍団だったが、雪に阻まれ、十一日夜ようやく
愛発に到着した。
愛発関に翻る中衛府と藤原氏の纛旙に愕然とする葛麻呂、それでも愛発関に
対して陣を張った。
「なんとか愛発を破れぬだろうか?」
「いいえ、良くて十に一つ。兵を平地に引く方が得策と思います」
鹿人の心境は複雑だった。父の龍麻呂から軽はずみに戦を仕掛けてはならぬ
と命じられていたが、尊敬し目標としている高梓と叡智の限りを尽くして闘っ
てみたい、という誘惑が心に浮かんできた。それとて、滅びの美学でしかない
のは良く分かっていた
「十に一つでも勝ち目が有るのなら、賭けてみる価値は有ります」
臆病な葛麻呂とも思えぬ大胆な発言をした。葛麻呂なりに覚悟を決めいてい
たのだ。
「関を一時的に占領した所でどうにもなりません。恐らく我が軍は孤立無援と
なっています」
騎馬の斥候兵が急を知らせた。
「後方に軍勢が迫っています。恐らく越前丹生団かと」
斥候の報告で、葛麻呂も鹿人も、「もはやこれまで」、と観念した。賊軍に
なったのだ。
官軍、賊軍、という日本固有の概念は庶民や兵卒にはまだ芽生えていなかっ
た。忠誠心という点から考えたとしたら、能登軍団の兵士たちは、雲の上の天
皇に対するより、郷土の英雄熊来鹿人にたいする忠誠心の方が遥かに強かっ
た。
しかし、大伴氏の葛麻呂と左衛門府に出仕していた鹿人には十分すぎるほど
現実を理解する事が出来た。藤原氏との戦にためらいを覚えるはずが無かった
が、近衛兵と言える中衛府に挑めば謀反であり、愛発関を畿外から襲えば叛乱
である。
総大将高梓自らが単身で葛麻呂の陣を訪れた。
鹿人と二人だけで梓と会見する葛麻呂。
「私には何が何だか訳が分からぬ。叛乱を起こしたのは藤原氏では無いの
か!」
葛麻呂の問いに静かに首を横に振る梓。
「左大臣は如何なされていますか?」
「既に自害されているかと」
がっくりと膝を落とす葛麻呂。
「ああ、遅かった、後半日早ければ、愛発関をこの手で落としていたなら」
「能登守殿、これで良かったのです。もし、そうなっていたなら、罪は御身一
つでは済みません」
「私一人が自害すれば済むのか? 罪は一族に及ばぬのか?」
頷く梓。
「ああ!」
はらはらと涙を落とす葛麻呂、梓の手を取って拝んだ。
跪いて葛麻呂に応える梓。
「少将殿、毛虫と雅をお願いいたす」
「我が身に代えても必ず」
なおも梓の手を握り締め、天を仰いで目を瞑る葛麻呂。
「少将殿、少将殿、雄々しくも華麗に羽ばたいた毛虫が天皇から節刀を授けら
れる勇姿がありありと見えます」
葛麻呂の網膜には神秘の森で天皇から節刀を授けられる。、逞しくも美しく
成人した毛虫の姿が映っていた。
木漏れ日が天皇の顔を照らし、宝冠が煌めいた。
目を開ける葛麻呂、首を傾げて呟いた。
「ああ無念! 儚き夢で御座った。私の頭に浮かんだ天皇は女帝でした」
「さすがは能登守」
大袈裟に驚いてみせる梓、葛麻呂の耳元でこう囁いた。
「次の皇太子は安部姫皇女に内定しております。正夢で御座います」
「おお、おお、そうであったか」
「この事は一部の高官しか知らぬ秘事、決して口外してはなりませぬぞ」
大きく頷く葛麻呂、矢張り雅は賢かったのだ。
再び目を瞑る葛麻呂。
美しく聡明で強く優しい雅の血を継いだ若武者が節刀を戴いてすっくと立ち
上がった。
輝く太陽が美麗なその勇姿を照らした。
晴れやかな顔で梓に頭を下げる葛麻呂。
「これでこの世に思い残すことは何もありません。少将殿、おさらばで御座
る」
刀子を首に当てて自害しようとする葛麻呂、覚悟の筈が、この期に及んで手
が震えて己が首を刺し貫くことがなかなか出来なかった。
見るに見かねた梓が鹿人に大きく頷いた。
「能登守様御免!」
背後から抱きかかえるようにして葛麻呂の自害を助ける鹿人。
刀子が首を貫いた瞬間、梓の太刀が閃いて葛麻呂の首を切り落とした。
哀れ葛麻呂、己が器量で内乃兵大伴氏に生まれた為、逆賊の汚名をきせられ
て草生す屍となり果てた。
2016年12月13日 Gorou
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