日本人にとって「君が代」とは何か? ネットにあふれるトンデモ解釈

劣化する「君が代」論争
国立大学の卒業式や入学式に関連して、再び「君が代」の扱いに注目が集まっている。これに呼応する形で、インターネット上でも「君が代」をめぐる議論が活発になりつつある。
だが、その議論の有り様は必ずしも健全なものではない。というのも、昨今ネット上で交わされる「君が代」に関する言説が、あまりにも乱暴だからだ。今日ほど「君が代」に関する議論が劣化した時代はほかにないだろう。
「君が代」を歌うか、歌わないか。問題はあまりに単純に二分化され、歌えば保守・愛国であり、歌わなければ左翼・反日であると即断される。そしてこの単純な白黒図式に基づき、「愛国者」を自任する者たちが、気に入らない相手に食って掛かる――。こうした光景は、SNS上でもはや珍しいものではなくなった。
しかも、驚くべきことに、この「愛国者」を自任する者たちの多くは、「君が代」の歴史や意味をロクに知らないのだ。「君が代」は、敵と味方を判別し、敵を吊るし上げるための単なる「踏み絵」と化しているのである。
「君が代」に関する議論は明治時代から続いてきたが、ここまで酷い状態に陥ったことはなかった。戦時下のほうがまだ「君が代」の意味が正しく理解されていたくらいだ。なぜ「君が代」に関する議論はかくも劣化してしまったのだろうか。
「君が代」問題再燃の経緯
その原因を考える前に、ここへきて「君が代」問題が再燃している理由を確認しておこう。
発端は、去年の4月にさかのぼる。
参議院の予算委員会で、次世代の党(当時)の松沢成文参院議員が、国立大学の入学式と卒業式で国歌斉唱が実施されていないことを問題視。国から大学の運営費が出ていることや、将来の国を担う人材のアイデンティティを育むべきことなどを理由に、国歌斉唱の必要性を訴えた(国旗掲揚も同時に問題になったが、以下では煩雑なため割愛する)。
これに対し、安倍晋三首相は、国立大学でも「教育基本法」の方針に則って入学式や卒業式で「君が代」を斉唱することが望ましいと答弁。下村博文文科相(当時)も、国立大学に対して、「君が代」の取り扱いについて「適切な対応」がとられるように要請していくと答弁した。
そして6月、下村文科相は答弁どおり、国立大学学長らを集めた会議の席上で、「国歌斉唱」が「長年の慣行」により「広く国民の間に定着していること」や、1999年に「国旗国歌法」が施行されたことを踏まえて、各大学が「君が代」の取り扱いについて「適切な判断」を行うように口頭で要請した。回りくどい言い方をしているが、要するに、国立大の入学式と卒業式で「君が代」を斉唱してくれと求めたわけだ。
そして今年の2月。各大学の卒業式が差し迫るなかで、岐阜大学の森脇久隆学長が「君が代」斉唱を入学式や卒業式で行わない方針を発表。この発表に対して、馳浩文科相が、国立大に運営費交付金が出ていることを指摘したうえで「恥ずかしい」などと発言して、物議をかもした。
その後、ほかの大学においても「君が代」斉唱の扱いについて方針が発表された。実際に卒業式や入学式が開催されるなかで、国立大の対応が明らかになるだろう。それとともに、「君が代」に関する議論も一層高まることが予想される。
ちなみに、3月に催された自民党の党大会で、今夏の参議院選挙に同党から立候補する予定の歌手・今井絵理子が「君が代」を歌って注目された。これは個人の判断にすぎないので、一連の問題と直接は関係ない。ただ、人気グループでボーカルを務めた彼女の振る舞いは様々な意味で話題になったため、ここに付け加えておこう。
以上が、ここ1年での「君が代」をめぐる動きの概略である。