映画「黒いオルフェ 」
この映画を見る前には、どうしても、コクトーの「オルフェ」を思い出してしまう。ある有名詩人が死んだ奥さんを異界に入り、現世に引き戻そうという話である。
鏡から、異界に入り、奥さんを連れ戻そうとするが、奥さんの顔を見てはいけないという条件で、異界の裁判官の許可を得る。そして、我々の世界に引き戻そうとするが、約束を破り、後ろを振り返り、失敗してしまうという話だったと思う。
これは、ギリシャ神話にヒントを得た話らしが、どちらにしても、死んだ後のあの世があるということが前提になっている。あの世があるかないかは、今の科学では分からない。しかし、科学者であの世を見たという人がいる。スエデンボルグである。この人の名前は「霊界日記」で知られている。
この本が出版され、ヨーロッパで話題になった頃、1750 年の頃、カントという哲学者がいたのはご存じの方も多いかと思われる。
その頃、カントは金が十分にあるというわけでなく、それなりの精神的苦痛を感じながらも、大枚をはたいて全部読み、「視霊者の夢」を書き、「この本に書いてあることは妄想だ」と断じたらしい。カントは日本の学者等に影響を与えたのだが、私にも思い出がある。
学生の頃、親しい友達がカントを持ち、私は「ファウスト」を持ち、海の見える町にまで、小旅行をしたことがある。五日間民宿みたいな所に泊まって人生を語ったのである。友人の語る言葉は当時の私には外国語のように響き、私はファウストの言葉に魅かれた。ファウストはあらゆる学問を研究したが、真理は分からないと嘆く最初の方で、名高い。
このように、カントは今だに影響力を持っているのだが、スエデンボルグ側の方は、スピリチュアリズムという、さらに進化した形で勢いを増大させていることは、ネットでも散見するから、霊界があるこを信じている人も増加しているのかもしれない。霊界があるということになると、霊媒もあるということで、この黒いオルフェにも登場するのが現実味を帯びてくる。
このように、死に関しては、今も「そんなものない」という人と「分からない」という人と「霊界がある」という人に分かれて決着がついていない。
まず、「黒いオルフェ」の筋書きを書いてみよう。
舞台はブラジルのリオデジャネイロ。ここは貧しい庶民の住宅が並ぶ中で、黒人のオルフェは市電の運転手。快活で、ギターを弾き、皆の人気者でミラと結婚することになっている。
その古いギターを持った者が代々、オルフェを名乗るのだと言う。
明日がカーニバルという時に、黒人の娘ユリデイウスがやってくる。彼女は死の仮面をかぶった男に付け狙われていると言うが、明日はカーニバル、彼女の好きな男が仮装しているのだろうと、受け取られる。
黒人のオルフェは、隣の家に来た彼女と出会い、ユリデイウスという名前を聞いたことで、昔のギリシア神話の連想から、恋人の約束をする。オルフェの情熱と軽薄さがあとで悲劇を招く伏線になるのだろうか。激しい嫉妬に燃えるミラ。
カーニバルでは、死の仮面をつけたストーカー男にユリデイウスは追いかけられる。ナイフを持ったオルフェが死の仮面をつけた男の前に立ちはだかって、彼女を救う。彼女を守って、夜を過ごすと、翌朝、ミラはオルフェに会い、激しい嫉妬の感情をむき出しにする。
カーニバルでは、美しい衣装を競い、町の中でリズムに富んだ踊りの人々であふれる。その中で、ミラはオルフェとユリデイウスの二人を見て、嫉妬する。
沢山の踊り狂う人々の中に、死の象徴のドクロの仮面をつけた男が姿を現わす。その間にも、ミラはユリデイウスを見つけ、彼女に「殺す」と言って乱暴をする。
ユリデイウスは市電の車庫に逃げるが、その高圧線に手をかけ死んでしまう。
オルフェはユリデイウスを求めて町を彷徨うが、ある老人に導かれて、祈祷師と霊媒が儀式を行って、死者の魂を呼んでいる場所に行く。オルフェは祈るように、呟くようにユリデイウスの名前を呼ぶと、ユリデイウスの声が聞こえる。二人は会話をするが、振り向いてはいけないと、言われるが、姿を見たいと言い、ユリデイウスの声に振り向くと、そこに霊媒の女がいる。オルフェはだまされたと思い、そこを飛び出す。
ユリデイウスの親族の許しを得て、ユリデイウスの死体を霊安室に引き取りに行き、そこから、ユリデイウスを抱いて、オルフェが町と海を見おろす崖ぷちのあたりに来ると、ミラが狂ったという声が聞こえ、放火された家が燃えている。ミラはユリデイウスの遺体を抱いたオルフェを見ると、彼めがけて、大きな石を投げ、それがオルフェの額に当たってしまう。二人は岸壁から墜落し、二人の遺体は大きな緑の植物の中で、重なる。
霊媒という生身の人間が登場する「黒いオルフエ」の方は少し発想が違う。
あの世のメッセージは生身の人間にしか通用しない。
東大医学部の元救急部部長の医師によれば、霊媒を使って、死んだお母さんと話したと言う。
最高の現代医学を修めた方が言っているのである。重く受け止めるべきである。
「黒いオルフェ」に登場する死の仮面をつけた男は現実的に解釈できる。カーニバルにことよせたストーカーだと。死因は、ストーカー男に追いかけられ、ユリデイウスは市電の車庫に逃げるが、その高圧線に手をかけ死んでしまう。
現実の世界においても、こういう不可解な事故で、人は死ぬことがあることはニュースなどでも、耳にするから、このこと自体とりたてて言うことはない。
要は、人は年齢にかかわらず、いつも死ぬことにさらされた危うき存在だということである。
死と生は隣りあわせ。
しかし、我々は生の世界にいる限り、死の世界を見ることは出来ない。
その生と死を合わせたような世界、つまり仏教的な言葉を使えば、「空」の世界を見たものは、主客未分を見た者、全世界は一個の明珠を見た者、仏性を見たもの、お釈迦様の言う不死の世界を見たものということなるのではないか。
その不死の世界では、あの世とこの世は一つになる。
これを一如という。真如とも言う。
生の世界とか、死の世界というのは不死の世界から見れば、分かれた世界。つまり、迷いの世界。死後の魂の世界も迷いの世界ということになるのではないか。つまり、輪廻というのも迷いの世界。
お釈迦様の目指した世界は、迷わぬ不死の世界。浄土というのはそういう所ではないか。
「黒いオルフエ」は死後の世界を前提にして、この迷いの世界での男女の悲劇を表現しているのではあるまいか。
【参考】
映画「黒いオルフェ」
監督 マルセル・カミュ
Cast ブレノ・メロ
マルベッサ・ドーン
ルーディス・デ・オリペイラ
レア・ガルシア
アデマール・ダ・シルバ
1959年 フランス=ブラジル作品
光【poem】
この満月の元
どこからか吹く風が花を揺らしている
ならば、何故その風は人の心の闇を追い払い
いつになったら、人の世の争いを無くしてくれるのか
ああ、陽ざしの柔らかな春の日に美しい風がふく
ならば、いつになったら死の暗いイメージを追い払ってくれるのか
カントとスエデンボルグの衝突はいつまで続くのか
我々は晴れて異界を知り、
死は大きな旅の一里塚と知ることが出来るのか
カントの理性も孫悟空の如意棒のごときもの
我らは仏性の手の平にある。
僕には沢山の夢のような思い出がある。
ある晴れた秋の日より、僕は歩いて旅をし、
友人に巡り合い
そこで、酒を飲んだ。
友人は絵を描きながら、諸国を回っている。
諸国にはいい奴もいる、悪い奴もいる
周囲は山、そこは小さな町だった。
町には黄金のような花が咲いている。
花は風に揺れて、異界の存在を示していた。
異界の入り口はどこにあるのかと、僕はその友人に聞いてみた。
分からないが、その入り口から、サタンが現われ
権力を持つ者の心を迷わし
庶民を苦しめることがあるという
如来はどこにおられる
善の異界だ
それは人の心の中にある
しかし、そこに入るのはサタンの入り口に入るよりも難しいという
しかし、ひとたび、如来の入り口を見つければ
そこから、浄土に入れる
曼荼羅華の花が大空から降り
さわやかな風のような歌が聞こえ
美しい平原には絶えず宝石のようなせせらぎが流れている
友人と別れる時
どこへ行くと聞いた。
「俺か? 俺はしばらくこの娑婆世界を描く、お前は」
人の世の争いをなくすために、良い町づくりをしている町を探す
どんな町がいい
経済格差の少ない社会がいい
政治の不正のない所がいい
ハラスメントや中傷のないような町がいい
花や清流のある町がいい
全ての人に住宅が保証され
子供達が安心して住める町がいい。
車を持つ友人が言った
「俺は大自然の中を歩いてみたい。
遊歩道の周りには川や滝、鳥のさえずる声がある。
君の言う町は平凡で心にしみない
本物の大自然にはいのちの息づかいが聞こえる
それで、我々は別れた。僕は友人の心が理解出来る
僕には移動手段が足と電車しかない
どうして友人の言う大自然を見る
それに、好きな街の中に浄土の入り口を発見したら
平凡な公園も大自然のいのちに満ちた世界になる。
光の中に浄土を見る。
その時、軍拡競争をやることの愚かさが見える
コロナで連帯への努力があるように、ここでも手を結んで
ふくらむ膨大な金を削ろうと世界に叫ぼう、福祉にまわせ