空華 ー 日はまた昇る

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「長崎の鐘」と久里山のコメント

2021-01-23 14:04:25 | 文化



長崎の鐘 【詩になれなかったpoem 】

長崎という異国のような美しい町に昔、行ったことがある。
讃美歌が聞こえ、美しい鐘の鳴る花の町だった。
それから、何十年もして、長崎に関する一つの映画を見た。
原爆が落とされる前の一人の医師の平穏な生活が映写されていた。
卒業間際に、耳に異常が見つかり、聴診器が使えないので、医科大学の放射線科を選んだ。
下宿に一人の娘がいた。
そこの家はキリスト教徒だった。
医師は下宿の家の者に誘われ、教会に行った。
医師は戦地に行き、無事に帰ったが、戦場の悲惨さに人間への深い洞察に至った。
そして、医師は信者になり、下宿の娘と結婚した。
しかし医師を慕う女が看護婦の中にいた。
彼女は落胆し、戦地を志願した。
医師は止めたが、彼女は戦地に行った。

ある時、医師は自分の身体の異変に気づき、検査したら、白血病だった。
いのちはあと三年しか持たない。
そのことを妻に知らせ、家を出た医師は仕事場の大学病院に行った。
子供たちはその時、町を見下ろせる清流のそばに疎開していた。
そして、運命の日、原爆が落とされた。
ピカッ
爆風の大津波が押し寄せるかのように、次々と町の建物と人を飲み込んでいった。
病院でも、スタッフの中に死ぬ者、怪我をする者、助かる者が出、建物は破壊された。
それでも、生き残った者は、病人の世話をした。
医師が家に帰ると、自分の家は破壊され、妻の形見のロザリオだけが残されていた。

そして、そこに小屋を建て、彼は病院に行き、原子病の研究と患者の診察をした。
しかし、ついに、彼は寝込むようになった。
近所の人は親切に食べ物を届けてくれ、友人や神父が見舞いにきてくれた。
しかし、子供達はまだ上の兄が、十才ぐらい、下の妹は六才で小学校に入る年令。
そこへ、昔、医師を慕った看護婦が帰ってきて、子供達の世話をさせてくれと言うが、
医師はお志はありがたいがと言って、断る。

何故であろう。彼の信仰によれば、父と母になるという事は神の摂理による。
この子供達はいずれ親切な人の世話を受けるであろうが、父と母を名乗ることは許されぬ。
ああ、血のつながりのある美しい両親の思い出だけをたよりに孤独を覚悟で
わずか十才と六才で世に出る子供達。何と過酷な運命ではないか。

このように、たった二つの爆弾が広島と長崎に落とされ、過酷な運命が三十万人近い人達を襲ったのだ。

その反省もなく、いくつかの国は核均衡という名のもとに、軍拡を進め、膨大な核を積み重ねた。
莫大なお金を使って。【福祉に使えば、どれほど人類は豊かになれることか】
人間の理性をふみにじる行為ではないか。

人間の本質は霊であり、仏性である。霊とは意識の本質であり、欲がなくなった無でもあり、いのちでもある。
この禅が指さす全ての宗教哲学の土台の上に立って、理性を働かせ、人類は手を結ぼう、その時、核を軍縮する動きが活発になり、いずれ核は地上からなくなる



【久里山不識のコメント】
上の詩にある、永井博士の自分の子供を思う気持ちはよく分かる。ただ、残念なことに、文明の発達した今日、少数の親の子供への虐待が問題になっている。悲しいことだ。
まさに、そういう方面からも、人類の危機を見ることが出来ると思う。

今は人類にとって危機の時代であるとは、何度か書いてきた。核兵器、気象温暖化。原発問題。今のコロナを克服することは、危機を乗り切る知恵を与えてくれる機会にもなると思うこともある。最近、映画「長崎の映画」と「不都合な真実」の二つを見た。
二つともなるべく多くの人が見た方が良いと思われる人類の危機を警告する名画であると思われる。前者は核の脅威。後者はアメリカのゴア元副大統領が取り組んでいる気象温暖化である。ゴア氏があれだけ丁寧に忍耐強く説明しても、反対の声を上げる人がいるのだから、人間社会は複雑である。
しかし、これらの問題を解決しなくては人類の存続すら、危ぶまれる日が必ず来るように思われる。
我々は子孫に健康な地球をバトンタッチする義務がある。
それには、今のように口で争うのを辞めて、口で話し合う世界にする必要がある。
どうしたら良いか。人間として互いに尊重し、話し合うには 土台をしっかりする必要がある。
私が脱原発の小説を自費出版するために、資料集めをしていた頃、テレビの討論会を見たことがある。
そこでは、脱原発派の論客と原発派の論客が話し合っていたのだが、驚いたことに、話し合いから、お互いに感情が高ぶったのか、激しい口喧嘩になったのである。私はテレビをそれほど、見る方ではないので、何とも言えないが、真剣な討議の場でのテレビでの喧嘩を見たのはそれだけである。
その後、不幸な福島の事故が起こり、あのテレビでの議論が少なくとも、相手の言うことを聞き、少しでも相手の言うことを取り入れようという雰囲気が社会にもあったら、事故は
もう少し小さくなる可能性があったのではないか。

人間として尊重しあい、話し合うには 土台をしっかりする必要がある。
土台がしっかりしないで話しあっても、人はそれぞれの立場、いる場所によって見方が違うし、本質的には人間はエゴと欲望を持っているのであるから、話し合っても口論になり、まとまる話もまとまらないか、お互いに嫌う感情のみが残ってしまう。これはまずいのではないか。
土台をしっかりしなければならない。
土台とは何かをはっきりしなければならない。
土台とは人間とは何かということである。今の世界はこの土台が人によって皆違うという風になっているので、言い争いになるのではないだろうか。
と言っても、土台を固定するのは難問であるように思える。

キリスト教と仏教は違うだろうか。発生した場所の文化の土壌が違うのだから、見かけは相当違う。しかし、この二つを研究する分野の学問もある。玉城康四郎氏は道元の「正法眼蔵」の翻訳者として有名であるが、優れた宗教の比較も研究しておられたが、根幹は同じという結論に達している。
私も子供時代は父の影響で、内村鑑三のキリスト教の影響を受けたが、壮年になって、禅を中心に仏教全体を私なりに勉強したが、私の結論も玉城氏の考えと同じなのである。
現代は宗教の違いで争う時代ではないのである。共通点を見つけ友情をはぐくむ時代なのである。
それでは、マルクス主義は違うのであろうか。トルストイのキリスト教原始共産制の考えをみれば、やはり、外見は相当違うのであるが、共に生きるということで中心の精神は同じであるともいえる。共に生きるとは愛ではないか。

このように、世界にある優れた大宗教、優れた哲学・思想は見かけは相当ちがっても、核心は同じである。私の以前から強調する愛と大慈悲心において共通性がある。真面目に真摯に思索すれば、結論は愛と大慈悲心に落ち着くのである。この土台の共通性が分かれば、人類は「人間とは何か」という所で、同じ土台に立てる。
外見の違いで、相互の誤解を解くために、議論をするのはおおいに、結構。しかし、それが喧嘩になり、相互不信になれば、過去の歴史では、戦争になったことがある。
「長崎の鐘」の永井博士は原爆体験をして「戦争は絶対にしてはいけない」と言われている。
それには、やはり、お互いの国の文化を知り、交流を進めることにより、互いの理解が深まれば、友情もつくられていくのではないだろうか。

これは大分前の話であるが、中国に行き、ビジネスをする前に、好きな漢詩の話をすると色々のことがうまく運んだということを聞いたことがあるが、その人はそのあと、アメリカに転勤になり、中国にはどういうビジネスマンが多いのか、話を聞けなかった。日本にも色々の人、会社があるように、中国は十三億いるのだから、日本以上に色々の人がいる。
いい人もいるし、そうでない人もいる。キリスト教徒も仏教徒もいる。
最近の日本では、レッテル貼りを得意とする人が増加の傾向にあるように思われる。楽だからである。それで、人類が危機の方向に進むとしたら、我々の子孫に申し訳ないのではないか。
まず、自分で正しい情報を集め、自分の頭で政治と人類の未来を見詰めようではありませんか。そして、世界平和の祈りをこめて、互いの国と議論すれば、軍拡は軍縮に向かうのではないだろうか。【核兵器禁止条約の批准を日本がしないのは大変残念なことですね 】