松尾優紀が広島から、帰った日は豪雨だった。梅雨の予報では、梅雨開けは近いと聞いていただけに、この突然のような豪雨には驚いた。
広島にいたのは三日間でその間は曇り空で降らなかったし、初日は晴れ間さえ見せていたから、彼も気象庁の言うように、梅雨開けは近いと思っていた。
三日目の昼頃から、雨が降り出した。前日の予報で雨が降る予想はしていたから、雨具を手に持って、夕方広島を出れば尾野絵では多少の雨にやられる程度と思っていた。
けれど、昼を食べた頃から、ニュースの気象庁の予報は今、広島に降り出した小振りの雨は夕方には豪雨になるという風に変わったので、驚いた。
広島の町を移動中は曇り空が多かったから、三日目の小雨が豪雨になるという話はにわかに信じがたかったが、夕方までいる広島の予定を三時までと変えたのは、この予報だった。
三時に電車に乗ろうと、駅に向かった時は既に折り畳みの傘が役に立たないほどのひどい振りだった。
駅の中に入った時に、松尾の頭に浮かんだのは「地球温暖化」だった。広島では、原爆でピカッと光ったあとの廃墟になる街の様子が頭に描かれるほどになっていたのに、今度は豪雨かやれやれと、優紀は思った。それから、ふと放射能に汚染された黒い雨のことを思った。
電車の席についた時に、頭に大きなイメージでひろがったのはあの原爆の惨劇だった。
気が付いたら、崩れた瓦礫の中に埋まり、手から血がだらだら出ていても、痛みは感ぜずに、ハンケチで覆い、しばると、そこから血が這い出してくる。自分のいる建物が壊れているのは当たり前でも、その向こうの街のビルや店が全部、破壊され、あちこちに死体がちらばり、
立っている人の顔は髪も焼かれ、顔の皮膚がただれ、衣服は燃えたのか、あちこちから、焼かれた皮膚が出て、幽霊のようになっていた。「水、助けて」とよろよろ歩く人が何十人と町の道なき道を歩いていた。地獄だ。
この地獄の様子と放射能の混じった黒い雨のことが松尾優紀の頭に何度も何度も繰り返しイメージとして現われ、電車に乗っている彼の心を苦しめた。
尾野絵の町に帰ってくると、豪雨はさらにひどくなり、風もあり、傘をさすことが出来なかった。
翌日は雨が上がっていたので、会社に出社し、挨拶をしていつもの自分の仕事に没頭し、家に戻ると、またいつもの生活が始まった。
その間、
松尾優紀は夢の中で島村アリサに出会うことがある。まるで観音菩薩のような清楚な姿をして、彼女は草原の木陰で楽器を弾き、歌を歌っている。それはこの世のものとも思えない美しさだ。その彼女の顔が中島静子に変わることがある。それは街にいる普通の女の子である。このように、顔が観音菩薩のようなアリサから、静子へ、それから観音菩薩へと変わる。そんな夢を見てから、二人に電話をかけたことがある。
アリサは座禅道場で、座禅をしたあと、執筆活動をしているようだった。
広島の話をすると、島村アリサは「どんな作品にするの」と聞いた。
「今、考えています」と松尾優紀は答えた。映像作品にするならば、音楽の応援をしてあげるわと、アリサは言った。
静子からは「長崎の鐘」という映画、見たかと聞かれた。その映画のことは知らないと答えると、DVDを送ってあげるわと言ってきた。
彼女がそういう映画を持っているとは驚きだった。その時、松尾は静子がかなりの映画をDVDで見ていることを知った。
松尾は送られてきた映画を見て、大変、感動した。
研究室で白血病にかかった医師が自分の寿命はあと三年だと妻に告げて、病院に出勤したその日、原爆が落とされた。医師は自分の病気や深い傷にもかかわらず多くの人を助けた。家に帰ると、家はがれきの山となり、妻は骨となっていた。
このような高貴な魂になぜこのような残酷なことが生じるのか。
松尾優紀はノートに書きこんだ。
「もし、神の摂理というものがあるならば、
私は問いたい
何故ですか。」
すぐに松尾優紀は 原爆と平和をテーマにした映像を作ろうと決心した。
「長崎の鐘」のようなものを作るには、俳優がいるし、今は準備などで、無理だということは分かる。取り合えず、彼は広島で撮影してきた沢山の映像を巧みに組み合わせすることを考えた。人に見せられるようにするには、どう撮影したら良いかということは、広島にいる間、ずーっと考え、そうしたプランの中で、撮影してきた。
確かに、このやり方は誰でも短期間に出来る。組み合わせという編集のやり方によっては、人の心を引き付けることが出来る筈だと思った。彼自身のナレーションや彼の創作した詩も編集の中に入れた。会社から、帰ると、そうしたビデオ制作に没頭する毎日が続き、日曜日にはアリサに会い、音楽の入力を手伝ってもらった。それがある程度、満足した形で出来上がった時、彼はそれをどこで放映したら良いか迷った。
今回の広島での作品は どこか公共の場所を借りて、試写することに決めた。
彼の頭に浮かんだのは、 会社の応接室であった。
しかし、あそこを使うにはルミカーム工業の工場長の許可がいる。
その許可がもらえるかということについては、自信がなかった。
工場長にかけあってみるということは、一般的には勇気のいることであった。
しかし、松尾優紀は工場長と交渉してみようという気をおこしたのだった。
梅雨が明けた。久しぶりの熱い陽ざしが、工場の窓を通してそそぎこんだ。工場での勤務が松尾優紀にとって、快適に過ぎ去ったように思われるある金曜日の夕方、彼は工場長室の前に立った。
受付の若い女がけげんそうに優紀を見詰めた。
「工場長に会わせていただけないでしょうか」
松尾はそう言いながら心臓がドキドキした。
工場長とは、入社の時に声をかけられた以外は言葉をかわしたことがなかった。
頭の髪の毛に白い毛がまじっているように思えた、四角い顔の背が低く、かっぷくの良い工場長は一種の威厳を備えていた。
その威厳がどこから出てくるのか、工場長を遠くからしか見ていない松尾にはよく分からなかった。
「どんなご用件ですの」
美人型の受付の女の子は用件が明確でないかぎり取次ぎしないぞという決心でもしたかのように、強い語調とひきしまった表情で応対するのだった。
「用件は工場長に直接会ってから、お話いたします」
松尾優紀は心の動揺から自分の言葉が、しどろもどろという風にぎこちないのを感じていた。
「工場長から、用件を聞いてお取次ぎするように言われているのですけど、」
受付の女の子はそう言うと突然なりだした電話を取り、てきぱきした調子で応対したあと、再び、松尾を見詰めた。
「ものすごく重大な内容なんですよ。ですから、直接、工場長に言わなければならないんです」
受付の子は、しばらく思案したような表情をしたあと立ち上がった。
「それじゃ、そういう風に言って見ますわ」
受付の子が入っていった工場長室の物言わぬドアを見詰めて、松尾優紀は心臓が高鳴るのをどうすることもできなかった。
しばらくして出てきた彼女が「どうぞ、中にお入り下さい」と言った時は、ほっとしたのだった。
広い部屋の中に入ると、花模様のじゅうたんがしきつめられた奥の窓側に工場長が左手に書類を持ち、ペンを握った右手は机の上に休めた姿勢でこちらを見詰めていた。右手に置かれたとっくり型の白い花瓶にはハイビスカスの赤い花が一本、今を盛りに咲いている。
「重大な用件とは、なんだな」
工場長は眼鏡の奥に鋭くひかるまなざしを松尾優紀に向け、声は低い調子で言ったのだった。
「はあ、実は 」
松尾優紀はそんな風に切り出しながら、目の前に座っている工場長に不思議な親しみを感ずるのだった。
工場長と目を合わせていると、何かこう楽しくなるような気分すら感ずるのだった。
どうしてそんな風になるのかよく分からなかったが、松尾優紀は多分、馬が合うのだろうという風に解釈し、それはこういう交渉の際には有利な武器になると内心思うのだった。
「はやく言いたまえ」
工場長は 松尾優紀がためらっているのを見て、いくぶんやさしい声を出してそう言った。
「はい、実は、僕のつくったビデオを会社の応接室で試写したいと思いまして。
それで、工場長の許可をもらいたいと思って来ました。
内容は 原爆と平和をテーマにしたものですけど、みなさんに喜んで見ていただけるように、工夫して見ました。
僕たちの会社も平和があってこそ、発展していくのですから、平和の問題は、みんなにとっても強い関心事のはずです。
ことに、最近、核戦争の危機が叫ばれている折りでもありますし、みんながこの恐ろしい戦争を回避するために僕のつくりました映像を見てもらい、平和について真剣に考えていただきたいと、思いまして。ぶしつけなお願いとは存じますが、そんな風な気持ちでまいりました。」
松尾優紀はさきほどまでの動揺が不思議なほど、落ち着いた雰囲気と軽快で明朗な語調で言ったのだった。そのあと、優紀はハイビスカスの花の突き出ためしべと黄色いおしべを見ていた。
しかし工場長は、すぐには返事をせずに、左手の書類と右手のペン を 机の上に置き、 両手を組み、あいかわらず優紀をじいっと見つめるのだった。松尾は、それでもいやな気持にならないどころか、逆に明るいうきうきした気分になり、自分の思っていることをしゃべりまくってしまいたい誘惑すら、 かられたのだった。
「工場長、僕はつい最近 広島に行ってきまして原爆記念館を見てきました。正直言いまして、そのあまりにも恐ろしい原爆の実態に圧倒されてしまいました。まさに地獄というのは、あんな光景を言うのでしよう。工場長、もしも核戦争かおきればわが工場も破滅です」
【つづく】