函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

何十回目かの『虐待を受けた子どものプレイセラピー』

2016-03-12 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える


何十回目かの『虐待を受けた子どものプレイセラピー』の再読中です。
なぜか家では読めないんだよね。

きっと自分の中の嫌な思い出を引き受けるインナーチャイルドがこわがってしまうからなんじゃないかと思う。

というわけで、いつものスタバで。

他者理解、自己理解の一助としてお薦めの本ですー『アスペルガーだからこそ 私は私』

2015-12-23 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える



北海道新聞に紹介が載っていて、一も二もなく書店で取り寄せ読んでみて、感銘を受け、早速周りの人たちに「いいわぁ!」と薦めてまわっている。

時々こちらにも書いているように、私自身アスペルガー傾向があって、予定の変更に弱かったり、時として人の感情を無視したり、理論に突っ走ったりすることがある。

こちらの本の著者の女性は、生っ粋の、お医者様から診断されたアスペルガー症候群の方で、20代大学院生の時に診断を受けたのを機会に、自分の自己分析に取り組み、その結果を赤裸々にアスペルガーではない人たちにもわかりやすく説明してくださっている。
読んでみての感想。

そうかぁ、そうだったんだぁ。
なかなか大変なものなんだねぇ…アスペルガー症候群の障害とは。

例えば、お母さんと電話で、家の近くまで帰るバスの系統とバス時間の話をしているときに、お母さんが、養護学校前というバス停に停まるバスのことを、「附属養護学校のところを通るバス」と表現したところ、「養護学校前」の他に、「附属養護学校」というバス停があるのではないかと不安になってしまったり、ちょっとした言い換えをされると、誤魔化されたように思ってしまうことさえあるそうです。それほど、言葉を厳密に定義づけして使用しているという特性からくる困難さです。

今、こうして、本の内容を紹介して書いていると、ご本人がこの文章を読んだら、私、kenの言葉とか「脚色」に耐えられないんだろうなぁと、本を読んだ今ではわかり、少し心配になりながら書いています。

なので、本の内容はあまり書けませんが、私がちょっとショックをもって読んだところをあと一つだけ、私なりの要約で紹介します。
例えば、その方は、「あなたのことを心配していたのよ」と言われても、「何も感じない」のが普通だと言います。何か配慮してもらったとか実益を伴う場合は感謝の念が湧くけれど、「心配していたんだよ」と言われてもそれはその人の自称することであって、それに感謝の気持ちは持ちにくい、というのです。
この思いには、最初少なからぬ違和感とショックを感じましたが、逆に「そのように感じている人もいる」と考えて、私の人生を振り返ると、「あ、あの人は、こんな風に感じていたのかも…」ということがけっこう出てきて、同じように感じている人はけっこういるのかもしれないなぁと感じました。

その他、社交辞令に戸惑うとか、「大変だ」という家族の訴えが、「手伝ってほしい」という気持ちだということがわからなかったりするそうです。

読んでいて、本当に正直に内心のことを書いてくれているし、とても参考になるなぁと思いました。ろう者も、「社交辞令が苦手な人たち」と言われていた時代があったし、今日本にも外国の方々が多く生活するようになり、バックボーンが異なる人たちと一緒に生活する場面も増えてきました。また年齢によっても言葉の受け取り方は大きく異なる時代になってきました。
そんな時代にあって、この本は、アスペルガー症候群の"私"の感じ方を通して、異文化の言葉の理解の仕方、感じ方の違いまで、教えてくれているのだと私には思えました。

とても読みやすい、良書だと思います。

ぜひ読んでみてください。
いろいろな示唆を与えてくれる本です。
後半には、アスペルガー症候群ではない、女性の母親も、それまでの苦労と診断を受けてからの、コミュニケーションの工夫、親子での自己分析のことなど周りの立場から書かれていて、一つの出来事を両面から見られるようになっています。


『アスペルガーだからこそ私は私ー
発達障害の娘と定型発達の母の気づきの日々』
白崎やよい・白崎花代 著
生活書院 1,500円+税
ISBN978-4-86500-044-3


光か、闇か、子どもたちをどちらに向かわせたいのか-児童相談所 人権侵害事件

2015-12-15 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える

少女8人を全裸にして所持品検査 相模原市の児童相談所

 

またしても、児童相談所の一時保護所の問題が明るみに出た。

他の子のプライバシーを守るためにやったと言われるが、そのような人権を侵害した対応を味わった子どもたちは、それ以降、児童相談所だけではなく、大人そのものを信頼しなくなってしまうのではないだろうか。「子どものプライバシーを守るために」、「子どものために」と言いながら、子どもたちを、光や明るさではなく、闇や暗さへと誘ってしまっている対応ではないかと私には思える。

実際、私が過去にネットで知り合った一時保護所体験者の方も、「家庭でなにがあっても、一時保護所だけは二度と行きたくない」と語っていた。

 

今回の問題、「その行為が人権侵害であってはならないことだ」と、問題視した人がいたことで明るみに出た。その問題視した人、告発者が、今後も報復にあわず児童相談所関連で活躍できるかどうか、多くの目で見守っていきたい。

そして、プライバシーの問題や親権の問題など難しい問題が多くあるが、児童相談所の一時保護所のことに、もっともっと光があたり多くの人が知り、子どもの学習権の問題など改善が図られていくことを望みたい。

 


”キモイ顔”の私が、子ども相手の仕事を選ぶまで

2015-12-14 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える

先日、札幌の女子高校生が、顔に障がいのある女性の写真を無断で撮影し、「わらいとまんないしぬ」という言葉と共にネットに晒したという事件、心がそら寒く感じる思いがした。

離れて暮らしている娘とその事件について話していたら、娘が「小学校のころ、近所の友だちの家にとーちゃんと行ったら、友だちの妹のところに来ていた子が、とーちゃんを指さして「ヘンな顔、気持ち悪い~!」と言って笑ったことがあって、すごいショックだった。。。」と告白してくれた。

水頭症の頭でっかちに(水頭症と知ったのはつい昨年ですが。。)斜視。小さいころから、指さして笑われることはよくあったから、私はその娘が語った思い出の場面はほんの蚊が耳をかすめたくらいのことだったのだけれど、娘としてはショックだったらしい。

特によく指をさされたのが電車の中。さすがにずっと一緒にいる同じ小学校の生徒とかは、だんだん慣れてくるのか、あまり馬鹿にされたりはしなかったが、めったに見ない人にはやはりめずらしかったらしく、こちらをチラチラ見ながらひそひそ話をされたり、あからさまに指をさされたりしたものだった。そんなだったから、自分でも自分を「変な顔、気持ちの悪い顔」とだんだん思ってしまうようになった。

だから、人ごみが苦手、デパートが苦手。デパートは、よく柱が鏡張りになっているが、その鏡に予期せぬ時に自分が映ると、「うわっ!」と思い、動悸がした。

大人になるとさすがにそんなあからさまに指をさされるような機会は減るには減ったがゼロではない。何年か前にも、函館の松風町のバス停でバスを待っていたら、目の前に信号待ちで停まった観光バスの中から男子高校生数人が、「おい、見ろ!」というように回りの高校生に声をかけながら、私を指さして笑っていた。

その都度相手にしていては生きていけないくらいそんなことが、私の人生いっぱいあるのだ。若いころに求人を見て面接に行った動物病院の先生には、「きみのような斜視の人は人前に出なくていい仕事についた方がいい」と、シンセツに諭されたりもした。

 

そんなだったから、人目を気にするお年頃には、無邪気で遠慮なく残酷な子どもが、どうしようもなく嫌いだった。なにかあったら、目に物見せてやろうかくらい思っていた。

 

そんな私がひょんなことから、養護施設に遊びに行くボランティアのグループに誘われた。今にして思えば、残酷な子どもがわんさかいる場所になぜ行く気になったか不思議だが、なぜか子どもと遊んでみたいと思ってしまったのだった。

 

その養護施設は函館から2時間ほど離れた場所にあった。入って、園長先生とお話をしたあと、部屋にそれぞれ行き、遊ぶことになった。私が最初に会ったのは女の子たちだった。「こんにちは。」と言うと、女の子たちが集まってきた。そして、「あ、このお兄さん、目が変!」と、会って30秒もしない間に恐れていた言葉が私に向かって発射された。いつもなら、その言葉だけで後ろを向いて大急ぎで退却しているところだが、この時ばかりは自分から訪問している立場。列車の中でシュミレーションしてきた言葉を、あえてゆっくりと繰り出した。

「ん~、おにいさん、左目がね、ちょっと悪くて、小さいころに手術したんだけど、あんまり見えないんだ。」

すると、一人の子が私の視力のよい方の目をその小さな手でふさいだ。「なんだ、なんだ」と見ていると、ほかの子が部屋の隅まで、ダーっと走っていくなり、指を立ててこう言った。

 

「この指、何本だ~」

 

 

その途端、私は、それまでもっていた子どもへの恐れや恨みから、一瞬で解放された。

その子たちは、私の説明をすんなりと受け入れ、それを実験してみて、納得してくれたのだ。

私はそのあそびを通して、子どもの可能性とか素直さに感服し、そのとりこになり、保母の勉強をし、今こうして特別支援学校の寄宿舎で働いている。

 

そのきっかけをくれたのは、K町の養護施設の子どもたちだ。

あのころの子供たちも今は社会に出て活躍していることだろう。

 

私もこの容姿を晒しながら、これからも笑いたいやつには、「はいどうぞ」と、顔を晒して生きて行こうと思う。

 

でもね、言っておくけれど、天に試されているのは、キミたちだからね。「あなたは、どんな人間なの?」と。


「あなた、自分を育ててきたのね」ー『私を見つけて』

2015-12-10 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える


NHKドラマ10、よいドラマがあり、できるだけ見るようにしています。
四話完結で現在放送中の『私を見つけて』も、たいへんよいドラマです。

今週の第三話で感銘を受けた言葉。
「あなた、自分を育ててきたのね」


どんな境遇に育った人も、どんな障害がある人も、結局はどう自分を育てるかが大切なんだよなぁと、深く感銘を受けました。いくつになっても。

自分のインナーチャイルドを大切に

2015-06-25 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える


どんなに孤立しようとも、私は自分のインナーチャイルドが嫌がること、悲しむことは絶対にしない。
そうでなければ私がそこにいる価値がなくなってしまうから。
私のインナーチャイルドは、すぐに言うのだ。「かわいそうだよ。」と。
だから私はその子と共にいる。
そのことが、どんなに周りから理解されなくても。
子どもが安心すると、私のインナーチャイルドも安心して笑顔になる。
心があったかになる。

『四郎』と名づけられた男の生涯

2014-09-23 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える



父がなくなって7ヶ月が経とうとしている。
父は2月生まれ。親の誕生日を祝うという習慣がなかった我が実家だったが、ここ数年、気がついては誕生日プレゼントを送っていた。今年も、なんとか気づいてプレゼントを送ると、「贈り物をありがとう。誕生日なんて祝われると恐縮するなあ…」と、めずらしく父から直々に電話があった。いつも迷惑ばかりかけている中で、私が受けた万分の一くらいの値打ちしかないようなプレゼントに「恐縮する」と表現した父にその人柄を想った。その電話の最後、「あぁ、おれ、ちょっと検査で入院するからな。」との話があった。

父にとって人生初の入院が87歳の誕生日。翌日は結婚記念日だった。60回目の。その日に緊急手術。何度かの手術の後、わずか2週間の入院生活の後、息を引き取った。元気な時から、「俺たちは延命措置は必要ないからな。」と何度も言っていたので、私には立派な最期だったように思われる。

 

父親の世代のほとんどがそうだったように、父も4男1女の多産の中で育った。末っ子だった。父の妻である私の母は、「末っ子だったから甘やかされて育ったのよ。だからあなたたちに厳しく接したんだと思う。」と言うが、私にはそうは思えない。父が「俺は、『要らない子』だったから。。」とよく言っていたからだ。

父の上の兄弟までは、例えば、「弘」とか「隆」とか”意味のある漢字の名”がつけられているのだが、父だけ『四郎』という名前。「自分はもう要らないのにできてしまった子だったから、自分だけ『四郎』という”意味のない名前”をつけられた」のだと、酔うとよく話していた。その話はたぶん酒乱だった父の父が、酒を飲んだ拍子にぽろりと言ってしまったことだったのだろうが、その話が父にとっていかに衝撃であり、トラウマになる出来事であったか、私には想像に難くない。『要らない子』というレッテルほど、子どもにとって恐ろしいものはないだろう。自分の存在自体を否定されてしまう言葉だから。虐待問題を扱った本などを見ていると、実際に、「あんたは要らない子」、「あんたさえいなかったら離婚できたのに」などの言葉を投げつけられ、その言葉のとげを心の中に感じながら生き難い人生を生きている人たちに出会うことがあるからだ。また、漢数字の四と九を、死ぬ、苦しむ、と連想し忌み嫌う日本社会において、『四郎』という名前はただの漢数字の名前以上の苦痛を父に与えたのではないだろうか。

しかし、”要らない子”である自分につけられた『四郎』という名前を、父は大切に生きた。一時、新興宗教に入っていた母が、父の名前のコンプレックスを見かねて、新しい名前を教祖からもらってきたことがあったが、父はカンカンに怒って、「親にもらった名前があるのにそんなものは要らない!」と受け付けなかった。まだある。息子である兄と私につけられた名前は、父の”意味のない漢数字の名前”を、”意味のある漢数字の名前”に変える取り組み、世間へのアンチテーゼであったように私には思えるのだ。長男の兄には漢数字の『一』と書いて『はじめ』と、次男で逆子で生まれた私には健やかであるようにと『健二』と名づけた。

息子たちには、スパルタと称して手を挙げ、私の斜視の訓練にもその厳しさを発揮した。亡くなるまで厳しい父であったが、家族をまとめよく生きた。高齢になってから夫婦で洗礼を受け、キリスト者として亡くなった。

亡くなる前、父が持っていた携帯電話から初めて電話をもらった。話があるから病院に来い、そんな内容だった。最後にぽつりと「病人ってのも、たいへんなもんだなあ。」とつぶやいた。

私は、やっとわかってもらえたかとうれしくなり、「そうなんですよ、おとうさん!」と、電話口でつい大きな声で答えた。

葬儀の時、私はずっと清々しさを感じていた。それは、厳しい父が亡くなったからではない。亡くなる前に、厳しい父と和解できたからだ。

その思いは7か月が過ぎ納骨を済ませた今も変わらない。亡くなってからの方が父を身近に感じることができる。こわい父ではなく、劣等感もトラウマもかかえた人間としての父にふれたし、父がすぐそばで見ていてくれていると感じることができる。

お父さん、あなたは”要らない子”と言われたけれども、本当は「要らない存在」ではありませんでした。よく生きました。私たちにとっては、必要な大切な人でした。あなたの実直さを二人とも引き継いで、これからも生きていきます。

お父さん、ありがとう。

 

 

お父さん、四郎の四にも、多くの大切な意味がありますね。

 

  • DNA は 4 種類の塩基分子(チミングアニンアデニンシトシン)の配列によって遺伝情報を保存、伝達している。
  • 大半の哺乳動物は、四本の脚を持つ四足類。机やいすも四本脚が多い。
  • 四字熟語、四コマ漫画、数学の四則(加減乗除)、四季(春夏秋冬)、四方(東西南北)、(前後左右)、四神(玄武・朱雀・青竜・白虎)、四天王(多聞天・増長天・持国天・広目天)(俗に、ある分野で特に優れたカルテットを指す)
  • 4は最少の合成数で、正の約数は、1,2,4。
  • すべての自然数は高々四つの平方数の和で表すことができる。(ラグランジュの定理)
  • いかなる平面、または球面上の地図も隣接する領域が異なる色に塗るには四色あれば十分である。(四色定理)      【出典 Wikipedia】

 

大切な四、そして大切な四郎さんへ。

 


『花宵道中』を買いに

2014-06-29 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える

少女コミック『花宵道中』を買いに、蔦屋書店へ。

「いい本だ」というウワサを聞き、ネット書籍で三巻まで読んだ。

そして、これは持っていたい本だと思い、書店へ。

「ちくしょう、ちくしょう!」と、なにもできない自分に腹を立てながら歩いた。

本の帯には、「累計30万部突破! 官能純愛絵巻」と書かれていたが、私は、「そうなんだろうか… それだけではない本だなあ。 」と思う。

現代にも通じる、問題提起をしてくれる、よい本です。
女性店員さんが笑ってこちらを見ていたけれど、そうされても手に入れるべき本でした。

みなさんもぜひ読んでください。

店員さんも読めなかった書名は「はなよいどうちゅう」といいます。
小学館 著作斉木久美子 原作宮木あや子 562円プラス税

 

花宵道中 全5巻完結セット (フラワーコミックスアルファスペシャル)花宵道中 全5巻完結セット (フラワーコミックスアルファスペシャル)
斉木 久美子
小学館

『明日、ママがいない』5話6話

2014-02-23 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える
『明日、ママがいない』5話6話を見ての感想。

5話
もういろいろな抗議のウズに、ドラマのテーマと言ってもよい内容を、セリフとして出してしまった感じがしました。多分、当初の計画では、それらの主題について考えるのは、視聴者側に委ねられるはずだったのに、あまりの抗議に、「セツメイセキニン」を求められて、脚本家さんがしぶしぶ、セリフという見える形にしてくれたのだと思います。
あまりの成り行きに、ちょっとフンガイしておりました。
脚本家さん、がんばれ~!

6話
こちらも、魔王のセリフなど、本来はあそこまで直接的には出す予定ではなかったものを、はっきりさせた形に変更したのではと思いました。あいまいでいて、視聴者側が考える余地を与えた形にできなかったことは、脚本家のみなさんには、本当はとても耐えられないことではなかったのか、と思います。

その、あいまいでいて深く考える余地を作る余裕を奪ったものは、猛烈な抗議であり、落としたり上げたり軽佻浮薄な世論の「クッションを持たない」有り様、情緒や想像力の欠如であったのではと思いました。



明日は『明日、ママがいない』の日

2014-02-04 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える

明日は『明日、ママがいない』の日です。
『明日、ママがいない』、問題だ!
と、思う方も。
『明日、ママがいない』、問題提起になっていて、いいんじゃない。
と、思う方も、とにかく観てほしいです。

芦田愛菜さんの演技も、すばらしいです。