先日、虐待問題に詳しい山梨県立大学の西澤哲(さとる)先生の講演会を聴く機会を得た。
虐待に関する様々な情報が満載で、多くの人に知ってもらいたい内容なので、メモと先生の著書を参考にしながら、何度かに分けて報告したい。また、興味をもたれた方には、ぜひ講談社現代新書から出ている西澤哲先生の『子どものトラウマ』や西澤哲先生が翻訳されたレノア・テア著『恐怖に凍てつく叫び』を、ぜひ読んでいただきたい。
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虐待の問題が取り上げられていく時、どの国、どの地域でも、まず最初に身体的虐待が注目され、それからネグレクト(育児放棄)、性虐待、心理的虐待の順番で、社会に広まっていきます。日本は、まだ身体的虐待からネグレクトに関心が広がってきている状況でしょう。
最初は、身体的虐待と比べて、ネグレクトは軽く見られがちでしたが、近年その心理的影響などがわかってきています。また、以前は、育児放棄されていても、「殴られるようりはまだまし」と思われ、「ネグレクトでは死なない」と考えられていましたが、実際には死亡事例の40パーセントがネグレクトが原因だということもわかってきました。そのあたりに、地域やネットワークの果たして行く役割があるのではないかと思います。
日本では、まだまだこれからの問題として性虐待があります。私の予測では、これから数年内に性虐待の件数が爆発的に増えていくだろうと考えています。なぜなら、欧米では全虐待の中の性虐待の占める件数が10~20パーセントであるのに対し、日本ではここ10年、公式統計約3パーセントにとどまっています。しかし、自分が臨床的に感じる割合は、やはり欧米なみの比率であり、日本の性虐待の割合が3パーセントというのは明らかに過小評価だろうと感じているからです。
まだまだ、日本では「子どもが家庭内で性被害に遭っている」という事実を直視できていません。見ていないのです。
虐待の事実は、被害児童は隠そうとしますが、性虐待の被害の場合、特に隠そうとする傾向があり、児童相談所が介入しても、なかなか本人から開示されないということが多くあります。性被害が本人から開示(告白)されるまでには、長い時間と信頼関係が必要なのです。
特に気づかれていないのが、思春期前の性被害です。大人や社会の中に、「性被害を受けるとすれば、性的な成熟を迎える第二次性徴以降であろう」という無意識の通念があり、乳児や幼児の性被害を疑う眼をもっておらず、意識から遠ざけている面があります。
例えば子どもが性虐待を受けたような特徴を見せたとしても、性被害と結びつかないということがおこる。「こんなちっちゃい子が性虐待を受けているはずがない。」という思いがじゃまをして、取りこぼしていることが多くあります。そういう面で、これから日本では性虐待が増えていくだろうと見ています。
心理的虐待とは、身体的でも、ネグレクトでも、性虐待でもないもの。「ほんとは、お前は生むつもりはなかったんだ。」とか「欲しくてできた子じゃない。」「死んでくれたらよかった。」などとか、存在を否定するようなものです。
また特殊な虐待として「乳児ゆさぶられ症候群」などがあります。泣き止まない乳児に保護者がキレた状態になり激しくゆさぶられることで、30~40パーセントの子が死亡、残りの半分も重たい障がいが残るということが知られてきました。これは古くて新しい問題です。私が虐待問題の世界に入った30年前からすでに、「乳児時の原因不明の頭蓋内出血による障がい」という診断名を目にすることがありました。数年前からその中に「乳児ゆさぶられ症候群」の事例があるのではないかと、予防活動をしているところです。
また、もうひとつ出てきた問題が、「代理者によるミュンヒハウゼン症候群」です。ミュンヒハウゼン症候群自体は、自分の身体に毒物薬物を投与して繰り返し病気になりたがるという精神疾患のひとつの状態像です。「代理者による」となると、主に母親が子どもに毒物薬物を与えて、かいがいしく世話をするというものです。「なぜそのようなことをするのか?」ということはまだ解明されていません。なぜなら、ミュンヒハウゼン症候群という精神疾患では“快復者”が、ほとんどいないからです。ただ、状態の分析から言えることは、「代理者によるミュンヒハウゼン症候群」のおかあさんは子どもが病んでいくほど、元気になる。その状態を見ると、「病気の子どもをかいがいしくお世話するおかあさん」と見られることで、なんとか安心して存在感を感じられるということがあるのだろうと推測されています。
今は日本では変わったタイプのネグレクト事例の発見が増加しています。ネグレクトとは、親や保護者が、自分のニーズを優先させる中で、子どもに必要な育児をしないということですが、近年例えば薬を使えば治療可能なアトピーを、漢方のみで治療して死に至らしめるとか、乳児に母乳を与えず豆乳を与えて死亡させるなど、今までの「子どもに関心がない」という「ネグレクト」とは少し違う形の事例が増加する傾向があります。
また、“家庭内餓死”の事例も増加していますが、家庭内で子どもが餓死していく過程を見ていられるという心理も、また従来の「ネグレクト」、自分の都合を優先するというものとは違ったもののように思います。
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不適切な養育が子どもに与える影響として、①対人関係の影響 ②自己調節障害(セルフコントロール)の面から子どもたちを影響評価してケア計画をたてています。対人関係については、自分がアメリカから戻った20年前から、虐待を受けた子どもに一番重大な問題は、虐待的人間関係の再現性だと言い続けてきました。それを児童養護施設のケアワーカーが、いかに挑発にのらずに修正していくかということに取り組んできました。
“虐待的人間関係の再現性”とは、虐待を受けたことで自分に接してくる児童養護施設の職員や里親や学校の先生など、保護者的な存在に対して挑発し、保護者的な立場の人の怒りを引き出してしまうということです。ときにはその養育者的な立場の相手からの暴力をも引き出してしまうことになります。
結果的に、家庭で虐待や暴力被害を受けてきた子どもが、養護施設など別の場所でまた暴力を受けてしまうようになってしまう、このことを「虐待的人間関係の再現性」と言います。大人の側から見ると、「子どもがわざと怒らせている」というように見えますが、決して意図的ではありません。虐待のトラウマの影響として、大人に対して挑発的になってしまうのです。これは“無意識の影響を受けている”と理解してもらうとよいでしょう。
このことがなぜ重要かというと、家庭で虐待を受けた子が、施設でも虐待・暴力を受け、学校でも受けるとなれば、当然、人に対する信頼感が築けなくなっていきます。「人のことは信頼できない」、「自分のことは自分で守らなければならない」と思う子を増やしてしまうことになります。虐待を受けた子で、自分の部屋に数十本のナイフを持っていた事例がありました。人を信頼できないことで、誤った「自分を守る」意識がここまで高まるのかと唖然としたことがありました。
対人関係に影響を与えるものとして、もうひとつの要素、アタッチメント(愛着)の問題があります。以前は、“愛着”と訳されていましたが、「愛」という情緒的な字が使われることで誤解を招きかねません。例えば「愛情をもって育てれば“愛着”は生まれる。」と誤解されがちになってしまう。それで最近では英語をそのまま利用して「アタッチメント」と呼ぶようになってきています。
虐待によりアタッチメントの形成が阻害されて、様々な問題が表れてきます。
例えば、幼児期に非常に社交的な子どもになってしまうケースがあります。始めて出会った大人に、だれかれ構わずべたべた甘えてしまうというような行動になって表れます。トラウマの問題とアタッチメントの問題両方が対人関係をゆがめてしまうことになっていくのです。
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不適切な養育が子どもに与える影響のうち、二番目に挙げた自己調節機能への影響とはどういうものか説明します。
人間は成長する中で、セルフコントロールの能力を獲得していきます。赤ちゃんから幼児、子ども期、思春期と、いろいろなことが複合的に起こってきます。成長するということは、言い換えれば、「自己調節の力がついていくこと」ということが言えます。
例えて言えば、赤ん坊は「自己調節できない存在」です。だから寒い日にバギーに乗っている赤ちゃんのお母さんは、着替えとかミルクとかオムツとかいろいろ用意している。それは、本人が体温調節もできないからお母さんが代わりにしてあげる。
赤ん坊はおなかがすくと泣く。親が機嫌悪そうだからと泣くのをがまんする0歳児はいません。つまり赤ん坊はいったん不快な状態になったら、自分では快の状態にもどれることができない存在なのです。おなかがすくと泣くし、どこか気持ち悪いところがあると泣くし、たいくつしても泣く。見ていておもしろいのは、眠たくても泣く。「眠たいなら寝ろ」とか思いますが、泣く。赤ちゃんは、一度“不快”な状態になると、自分の力では“快”の状態には戻れないから、泣くんです。泣いて助けを求めるわけです。
助けを求められた大人は、様々な刺激を赤ん坊に与えることで、“快”の状態に、もどそうとします。「どうちたの?」という聴覚的刺激や、おかしな顔を見せたりという視覚的刺激、触ったり手をつないだりという身体的触覚的刺激、抱えて姿勢を変えることでの体幹への刺激など、様々な刺激を与えるとその中のいずれかが当って、赤ん坊は“快”の状態に戻ることができるようになります。それを繰り返していると、2歳半から3歳くらいで段々と変化が起こり、自分一人の力で“快”の状態に戻ろうとするようになります。それが「自己調節の芽生え」です。そういったことが起こるということは、それまで“不快”な状態が起こる度に、大人が手助けを繰り返していて、それらの体験の蓄積と、「アタッチメント対象の内在化」と呼ばれる『親が自分の心の中に住むようになる』ということが起きるので、その二つが合わさって、自分自身で調節機能を生み出すことができるようになるのです。
この生まれた直後から開始される養育者の自己調節の手助けのことを、日本では、『しつけ』と呼んでいました。このことはあまり知られていません。
いつの間にか、子どもを殴ってでも“させる”ことが「しつけ」と呼ばれたりするようになるのですが、本来のしつけの意味は、そのような快への手助けのことだと言われています。
自己調節は感情・感覚だけではなく、生理的レベルでも、行動のレベルでも同じことが言えます。衝動性についても、最初は大人がコントロールしていたものが、段々と子ども自身がコントロールできるようになっていきます。
自分は「体罰はしつけにならない。むしろ体罰はしつけのじゃまになる。」と言っていますが、10年くらい前には、講演後フロアから「例えば、ストーブを触ろうとする子どもの手を、パチンとたたくのも体罰か?」という質問が出て、正直その時には答えられませんでした。しかし、よくよく考えてみると、問題の設定自体に問題があることに気づきました。適切に育てられてきた子どもは、ストーブなど危険なものを初めて見たときには、衝動的に触るという行動には出ない。まず、親の顔を見ます。大人がどういう顔をしているか、驚いた顔をしているとか、「ダメ」という顔をしていると、子どもはストーブには触らない。「社会的参照」と言われる行動をとります。それが、「ストーブを見てすぐ触ってしまう」というのは、そもそもアタッチメント対象との関係に問題があるわけなのです。
アタッチメント対象との良好な関係がある場合、子どもは「触りたい」という衝動もアタッチメント対象のコントロールを受け入れてガマンします。そのようなことを重ねていくと、アタッチメント対象がいなくても自分で判断して衝動性をコントロールしていくことができるようになるわけです。
そのように様々なレベルで自己調節の問題は、虐待と関連して問題になります。
いろいろなことを理解する概念として、虐待が「自己調節障害」を生むという理解ができるでしょう。
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「しつけ」は本来「子どもが自分を整えるのを助けること」と言いましたが、今日のわれわれが一般に言っている「しつけ」はそうではありません。「体罰とか暴力がしつけになる」と思われています。「ある程度の暴力や体罰は許される。」、「しつけとして、体罰・暴力は必要なんだ。」と言う人もいます。「子どもが言ってもいうことをきかないんだったら、たたいてでも教えるのがしつけなんだ。」みたいなことも言われます。しかし、それは大間違い。その大間違いが起こった理由はなぜかというと、出てくる結果が似ているからです。
何が似ていて、何が違うかというと、
本来の“しつけ”とは、「やめる」ことを例にとると、ある種の行動を子どもがやめられるようにするために行われる行為。例えば、子どもが泣いていたら、“泣きやむことができる”ようにするために行われる支援です。
それに対して“体罰”は、ある種の行動を子どもにやめさせるための行為。だから、体罰は“泣きやませる”行為です。“泣きやめる”ように支援するのではない。結果的に「泣き止む」かもしれませんが、内容は、まったく違います。
例えば、子どもが泣いているときに、「よしよし、どうしたんでしゅかぁ。おなかしゅきましたか。ママいなくてしゃみしいでしゅかあ。」と、話しかける。話はそれますが、だいたい“赤ちゃんことば”を使います。赤ちゃんに話すときに、「どうしたのかね!」とは言わない。それにはちゃんとわけがあって、“あかちゃんことば”のリズムや音感が子どものストレスを下げる方向に働くからなんです。「どうしたんでしゅかぁ。」と言われてると、ストレスが下がります。「どうしたのかね!」と言われても、ストレスはアップする一方だから、「ギャ~~」となって泣き止まない。そのことを、われわれは経験的に、本能的に知っているから、赤ちゃんを見ると、こっちも言葉が“退行”するわけなんです。
そのように、赤ちゃんが自分でなだめられて、“泣きやめた状態”になります。自分を整えることに、大人が支援している状態です。
反対に体罰の場合、大人が怒鳴って、殴って、子どもが泣き止むかもしれません。けれども、それは自分の“不快”の状態が“快”の状態にもどって、泣き止んだのとは違うわけです。
“不快感”を抑圧して、泣きやんだというだけです。恐怖や痛みで、不快感を抑圧するということと、本来のしつけとはまったく違います。だから、私は「体罰はしつけにならない」だけではなく、「体罰はしつけをじゃまします」と言っているのです。
“しつけ”というのは、自己調節の力を伸ばすために、自己調節の力の形成を促進するために行う行為です。ところが、“体罰”は、恐怖や痛みで不快感を抑圧することを覚えさせるので、自己調節の機会を奪うことになります。だから、自己調節の機会を奪うという意味で、「体罰はしつけをじゃまする」と言ったわけです。
自分は施設でも仕事をしていますが、虐待を受けていて、家で恐怖にしばられていて、親の言うことを聞いて、ピシッと行動している子が、施設にやってきて虐待的な大人がいないということがわかると、まるで赤ちゃんに戻ったかのような、いろいろな怒りの感情などを爆発させます。それは虐待する親が「しつけ」と呼んでいたことが、まったく機能していなかったということを表しています。なぜ、機能しないのかというと、今説明したような理屈があるのだということを、覚えておいていただけるとよいでしょう。
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ここでアタッチメント(愛着)についての説明を入れておきます。
さきほど説明したように、かつては「愛着」と呼ばれていましたが、“愛”という情緒とはまったく違った概念なんだということで、最近では「アタッチメント」と使っています。特に私は茨城大学のかずいみゆき先生が「アタッチメント」という言葉を推進しているので、使っています。
“アタッチメント”とは何かというと、子どもがよくしてほしがる「抱っこ」がアタッチメントの典型です。子どもは、「ママ、がっこぉ。」なんて言って、抱っこを求めます。アタッチメントは大人への接近を求める行動です。この抱っこを求める行動はいつでも起こるのかというと、のべつまくなしに起るのではありません。どういうときに起るのかというと、子どもが不安になったり、恐怖を覚えたり、いわゆる精神的に不安定になったときに、「だっこぉ」と言って抱っこしてもらうということなんです。子どもが楽しく遊んでいるときには抱っこは求めません。基本的に子どもが不安な状態、恐怖な状態になった時に、アタッチメント行動が多くなります。そして、アタッチメント行動の機能は何かというと、しばらく抱っこされていると、子どもは安心感を回復していきます。安心感が戻ってくると、もう抱っこはされていたくなくなる。子どもは親の腕をすり抜けて、またあちこちにいたずらしに行く。それがアタッチメント行動の機能です。基本的に“アタッチメント”とは動物行動学の観察・知見からきている概念です。行動学的な概念なので、やや難解な言葉を使います。アタッチメントは子どもの安心感と情緒性の安定の機能。「子どもが危機事態(恐怖・不安)にあった時にアタッチメント行動システムが活性化する」。要するに、「たくさん抱っこを求める」ということなんです。子どもが抱っこされて、安心感を回復すると、「脱活性化する」。要するに、「抱っこ」と言わなくなって親の手をすり抜けるということです。
このような形で、不安定になったり、否定的な情動をもったときに、アタッチメント対象を利用して自分の情動を調整するというのがアタッチメントの行動システムです。
これと対をなすシステムが“探索行動システム”と言われるものです。“アタッチメント行動システム”と“探索行動システム”が、交互に活性化するわけです。例えば、子どもは不安になったら、「だっこぉ。」と言って抱っこしてもらい、安心感が回復したら親のひざを離れて、いろいろないたずらをする。これが“探索行動システム”が活性化している状態。子どもは、いろいろなことをやってみるのが好き。穴があったら、とりあえず指を入れてみようとか、ボタンがあったらとりあえず押してみるとか、いろいろやる。特に男の子。私が最近ハマっているのが、西原理恵子の『毎日かあさん』です。あれを見てると、男の子はいろいろやるのがよくわかります。だから、ADHDの子の親御さんとか、虐待傾向のある男の子のお母さんには、勧めてぜひ読んでもらうようにしています。
この間、あるところにおもしろいことが書いてありました。ブランド物の服というのが、子ども用でも売られています。女の子のブランド物の服というのは、十代までコンスタントに売れるのに対し、男の子のブランド物の服というのは5歳くらいになるとパタリと売れなくなるそうです。女の子は、2歳、3歳でも、おしゃれな格好をすればそれなりに行動に気をつけて、泥遊びをしません。男の子は、なにを着ていても高級な服を着ていようと○松屋を着ていようと関係なく、泥遊びをします。そのくらい子ども、特に男の子というのは、好奇心に満ちているんです。
だから、幼児さんの通ったあとには、バラバラになったムシとかが落ちていたりする。しかし、それはとても重要なことで、アタッチメントが活性化していると、好奇心・探索行動システムは抑制されていますが、アタッチメント行動によって安心感をもてると、まず活性化するのが好奇心・探索行動システムなのです。
探索行動システムがなぜ重要かというと、探索行動システムはすべての学習の基礎になるからです。逆から見ると、アタッチメントが安定しない子が、好奇心をどうしてもうまく発露できないで学習にものれないというのは当たり前のことと言えます。
このように、アタッチメント行動というのは、探索行動システムとも連携しているので、その意味でもアタッチメントは重要であるということが言えるのです。
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ではなぜ、虐待でアタッチメントの問題を考えなければならないかというと、欧米のデーターでは、虐待やネグレクトの家庭で育った子どもの50~70パーセントにアタッチメントの問題が見られたという報告がされているのです。これは考えてもらえばわかるように、アタッチメントとは生まれて間もなくから6歳くらいまで、安定した養育者との関係の中で形成されていくものです。特に、アタッチメントの基本機能が、安心感の回復であるとしたなら、虐待を受けた子どもにとっては、最大の恐怖の源が、アタッチメント対象なのです。本来、安心感を与えてくれるはずの親が自分に恐怖を与えるわけですから、当然アタッチメントは混乱します。そのような意味で、虐待とアタッチメントは切っても切れない関係にあるのだということが言えます。
もうひとつは、アタッチメントとトラウマティックストレスの関連として、防御要因としてのアタッチメントという視点があります。簡単に言うと、子どもが公の場でものすごくおそろしい目にあったとする。子どもの皆が皆、PTSDなりトラウマ性の症状が出るかというと、そうではないのです。ある子は2年3年と通院しなければならないような事態になり、ある子はそれほどには至らない。何が違うかというと、さまざまな要因はあるのですが、ひとつにアタッチメントが関係していると言われています。
ものすごくおそろしい思いをしても、アタッチメントがしっかりしている子は家庭にもどり、ママに抱っこされ、ママも上手に抱っこすることで、恐い気持ちをいっぱい聞いてもらい、「よしよし」してもらい、安心感を取り戻せるということが起きる。ところが、同じ体験をした中に、アタッチメントに問題をかかえた子がいると、恐い気持ちをかかえて家に帰ったけれど、ママにうまく抱っこしてもらえず、恐怖感が消えずに残っていくということが起るわけです。
ある意味、アタッチメントの安心感の回復ということは、トラウマティックな出来事に対してとても重要な機能を果たしてくれると言えます。非常にこわい思いをしても、家庭に帰ったときに安心感がもてる子と、そうではない子では、大きな違いがでてくるわけなのです。
ある意味、アタッチメント障害というのは、虐待を受けている子は当然アタッチメントに問題をかかえるし、アタッチメントに問題をかかえるとその後に起るトラウマティックストレスに対しても脆弱になるということが言えるわけなのです。
虐待とアタッチメントは切っても切れない関係と言えます。
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さらにこの問題は今日でいうといろいろな問題と重なっていくと思います。アメリカで行われている疫学的研究で、アタッチメント障害のその後の経過を調べたものがあります。
虐待やネグレクトなどの養育環境に反応して愛着障害になった「反応性愛着障害」と幼児期に診断されていた子たちがいます。どういう状態かというと、初めて会った大人に、だれ彼なしにベタベタするという状況をつくります。このことは、“問題”として見過ごされがちですがたいへんな問題です。下手をすると「誰とでも仲よくできる社交的ないい子」という誤解を生みますが、それは大間違いです。子どもは普通大人の「品定め」をするものなんです。それは当たり前で、大人よりも子どもの方が自分にかかわる人間に対して慎重になります。自分の方が弱いわけですから、へたな大人にかかわるとたいへんな目にあう。それがわかっているから慎重になります。だから、子どもは本能的に、この大人は自分にとって安心できる大人かどうか品定めするわけです。品定めをして、OKであれば段々近づいていくという手段をとることで、自分たちの身を守っているわけなんです。ところが反応性愛着障害の子はだれ彼かまわずべたーっと甘えてしまいます。だから、逆に言えば、その子たちは、性犯罪の被害に遭いやすいことになります。初めての大人に抱っこを求めていく、連れ去られる、ということも起きてきます。
そのような幼児期に「反応性愛着障害」だった子を追跡していくと、小学校の年齢になると、「注意欠陥多動性障害(ADHD)」という診断名に変わっているケースがあります。これはおかしいことです。「注意欠陥多動性障害(ADHD)」とは、一応、基本的には「持って生まれたもの・生まれつきの障害」だ、とされているわけです。私(西澤)は、ADHDです。私は生まれつきです。明らかに。西澤は、どんな育てられ方をしても、ADHDになったわけです。ADHDという“素質”をもって生まれたわけ。ADHDは“素質”だと自分は思っています。ミケランジェロとかダビンチとかもADHDでしょう。あれだけいろんな分野に足をつっこんでいます。ADHDはとめてはダメ、才能として考えてあげてほしいと思います。
翻って、幼児期に「反応性愛着障害」だった子が小学校段階で、「ADHD」という診断をされるというのは、明らかにおかしいわけです。いわば、虐待やネグレクトによって“反応性”でADHDになったと言えます。これは西澤独自、勝手にそう呼んでいるだけですが、虐待環境に育つことで「ADHD」と同じ状態像を示すと理解していただきたい。
本当のADHDは、脳の前頭前野の機能がどうのと言われているが、そういった脳のレベルでも同じなのかどうかはわかりません。しかし、行動系としては、状態像としては、ADHDの状態になるんだと理解していただきたい。
その子どもたちが小学校高学年になると、また違った行動を示すようになる。ちょっとした反社会的な行動、万引き、ルールやぶり、うそをつく、親に逆らう、教師に対して反抗するなどがみられるようになる。すると、「行為障害」という診断名になっていきます。そういった子どもが思春期・青年期になると、「反社会性人格障害」と呼ばれるようになっていきます。重大な犯罪を繰り返すタイプの人格構造になっていくんだというふうに、アメリカのここ10年くらいの研究で出てきています。
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ひとつ重要なことは、アタッチメントは“内的ワーキングモデル”をつくるということです。“内的ワーキングモデル”とは何かというと、「自分の心の中に、“アタッチメント対象が住む”」ということ。アタッチメント対象がお母さんだったら、「お母さんが心の中に住む」というふうになっていくわけです。アタッチメント行動を観察していると、アタッチメント行動は増えていかないのです。年齢と共に減っていく。
1歳くらいでは常にお母さんに抱かれていなければダメで、2歳くらいもけっこう抱かれていることが多いけれど離れられる時間ができてきて、3歳・4歳になると、ある程度お母さんから離れていても平気になってきて、時々もどってきて「抱っこ!」という程度になってくる。5歳・6歳になると、日中はお母さんの存在がなくても大丈夫になります。これは、“アタッチメント行動が減る”ということと、“アタッチメント関係が弱まる”ということはまったく別のことなのです。逆に言えば、「アタッチメント関係が強まれば強まるほど、アタッチメント行動は減っていく。」ということ。アタッチメント関係が強まると、心の中のアタッチメント対象のイメージがしっかりついていくから、離れていられるようになるわけです。
アタッチメントは行動パターンとしては愛着対象への接近ですが、実際のプロダクツとしては「愛着対象を心の中に住まわせる」ということ。その人が心の中に住んでいるから、離れていても安心感をもつことができるということになるわけです。
逆に言えば、アタッチメントが形成されていない子は、心の中に人が住んでいないわけです。それはとってもさみしいことですよね。だから、アタッチメントがちゃんと形成されていない子は、だれ彼なしにベタベタしていなければならなくなるわけなのです。さきほどのアタッチメント障害の子どもの行動パターンをこのように説明することができるわけです。
それと、「心の中に人が住んでいる」という状況は、それ以上に重大な問題につながっていきます。一番重要な問題は何かというと、共感性。心の中に人が住んでいるからこそ、人の気持ちを考えることができるわけです。例えば、お母さんが悲しんだとか、お父さんが怒ったとか、お母さんが喜んだとか、そういう気持ちも、自分の中に持ち込むことができるので、人の心をわかる基盤ができる。人の気持ちがわかる。
あるいは、お母さんが心の中に住んでいるから、お母さんの視点でものを考えることができていくわけです。つまり自分以外の人の視点を取り込むことになる。これはつまり「他者視点の獲得」ということです。「他者視点の獲得」とは、たいへん大事なことで、他人の気持ちを考える基盤になるということです。また「他者視点の獲得」は共感性の基礎にもなっていきます。人の立場を考え、人の気持ちを味わう力、共感性にアタッチメントは関連していくことになるわけです。
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心の中に人がすんでいないから、アタッチメントがしっかり形成されていない子どもたちは、他者の視点で、ものが考えられない。それで、いつでも自分の視点でしかものが見えない状態になってしまいます。このような状態を、一般的に、障がい名でなんと言うでしょうか。「アスペルガー障がい」です。アスペルガー障がいの人は、一般的に、空気が読めないということを言われます。他の人たちの視点からの状況が読めないことを「空気が読めない」と言います。だから、そのような意味でアタッチメント障害からも、他者視点の獲得ができていないと言えると思います。
そのように考えていくと、一方のADHDでも虐待性の、反応性のADHDがあるように、「反応性のアスペルガー様状態」があってもおかしくないのではないかと、私、西澤は考えています。
まだ証明もできていないことですが、実際、養護施設で仕事をしていると、思春期の中学生、高校生くらいの年齢の子で、アスペルガーのような状態を示す子は、いっぱいいます。私が仮に彼らのことをずっと知らないでいて、初めて中高生年齢で出会って、診断しろと言われたら、「アスペルガー障がい・高機能広汎性発達障がい」と診断するだろうという自信があります。ただ、私は彼らの生育暦を知っていますから、そのようには診断できません。その子たちには、3歳のころから関わっていて、3歳のころはだれ彼なしにベタベタしていて、「あぁ、典型的な愛着障害だね。」と言っていたのを覚えているからです。
だから、それは今の理屈で言えば、アタッチメント障害で、内的ワーキングモデル、つまり人が心の中に住んでいない状態があって、人が心の中に住んでいないから人の気持ちはわからないし、自分の視点でしかものが見れない状況があるんだという自分の中で理屈が整うので、「じゃあ、アスペルガー障がいとは言えないな。」となるわけです。
それが今、その子が突然目の前に現れたら、アスペルガー障がいと診断したかもしれないと考えると、実は判別はむずかしいように思うわけです。
今言ったように、アスペルガー障がいの中心的特徴を、「共感性の欠如」とする仮説をとると、このような説明がアタッチメント障害からもできると言えるのです。