函館山の麓、西部地区。
幕末から明治にかけて、函館の中心として、栄えた地域。
今でも観光客が引きも切らない、旧函館区公会堂。このすぐ向かって右上に、盲生、ろう生が通った学び舎、『函館盲唖院』があったことは、あまり知られていない。
元町公園の横に、ぽつんと、「函館盲唖院跡地 この上120m」の標柱が立てられている。平成15年10月1日 函館盲聾教育後援会 と裏に記されている。
三角柱のもう一つの面には、由来が書かれている。
私立函館盲唖院の院舎は西欧を想わせる建物で、大正14年、教育家佐藤在寛先生が浄財を集めて建てたものである。
ここで、ヘレン・ケラー女史と院生が交流したこともあり、多くの卒業生を社会におくりだした。本院の全身は、明治28年設立の函館訓盲会(後の函館訓盲院)である。
下の写真、上部の建物のある部分に、校舎が建てられていた。写真正面の車庫の右側よりジグザグに生徒用のスロープがあった。今は草が生い茂るスロープだが、いまでも手すりが見てとれる。
こちらにも、函館盲聾教育後援会が創立百年を記念して立てた、函館盲唖院跡の標柱が。それによると、昭和29年に聾学校は深堀町へ、その4年後、昭和33年盲学校は田家町へそれぞれ移転している。
公会堂すぐ横の道端には、かつての校門の門柱とおぼしき塊がころがされていた。
現存し、今でも使われているかつての校舎。
こうした時代を知る方々もたいへん少なくなられた。
そんなお一人で、函館の聴覚障がい者運動の中心にいつもいた、大三さんが亡くなった。
数年前には脳卒中にも倒れられたが、見事に回復し、近年は聴覚障がい者、視覚障がい者も安心して過ごせる、見守り付きアパート建築を進めるNPOの理事としても活躍しておられた。
私も、手話通訳のスタート時には、よく育ててもらった。
通訳が終わると、「ちょっと来い」と陰に連れて行かれ、「お前の手話がわからない。困るんだよ。」と言われた。
昔は若かったから、私もカチンときた。
「一生懸命やってるのに、なんなんだ!」と思った。
しかし、今ならわかる。
手話通訳者のシュワがわからないとは、例えて言えば、電波の悪いところで、テレビを見ているようなもの。ラジオを聞いているようなもの。肝心なところがわからない。ろうあ者の生命線である手話通訳がそんなのでは、ろうあ者は本当に困っただろうし、苦しかったのだと思う。
大三さんの口ぐせの「困る。困る。」とは、ろうあ者のこと、手話通訳者のこと、いろいろなことを憂いて出た言葉だったのだと、今更ながらに気づかされる。
72歳。まだまだこれからの年齢だった。昨年、iPadを買って、ラインもやっていた。
まだまだ、「困る、困る。」と、言って欲しかったな、と思う。
天国からも、「困る、困る。」と、言ってくれ、大三さん。
安らかに、大三さん。