函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

囚人たちの慰霊碑-アクセス解析体験キャンペーン

2011-08-09 | ”囚人”道路を訪ねて

クレジットカードを使えなくしてから、アクセス解析ができなくなっていたのだけれど、たまたま今日からキャンペーンでアクセス解析が一週間見られる。

ちょうど閲覧数も2000と多い時だったので、どんな検索に引っかかっているのだろうと見ていたら、『囚人たちの慰霊碑』というものがあり、3年前の私のように、囚人道路や囚人たちの慰霊碑に関心をもっている方がいるのだなあとうれしくなった。

こちらのブログには、網走に生活していた4年間で訪ねた囚人道路のことや博物館網走監獄友の会のツアーで訪れた硫黄山の硫黄採掘場のことや標茶集治監のことなどが載っているので、お探しの方のお役にたてると思います。

過去のことを大切にすることが、未来に責任をもつことにもつながると、最近のいろいろな出来事を見て深く感じます。

写真は、網走川をはさんだ網走刑務所前に立つ『中央道路開削工事網走分監工区起点の碑』です。囚人道路と呼ばれた北海道中央道路開削が始まった時には、網走監獄はまだ標茶にあった釧路集治監の分監だったのです。写真は、今年3月、函館にもどることが決まってから再度車で囚人道路を走ってみたときのもので、まだ紹介していなかったものです。

多くの方が、”囚人”たちのつくったこの道のことを、覚えていてくれるとうれしいです。

私にとっては、囚人道路のことも、はこだて国際民俗芸術祭のことも、虐待のことも、自殺予防のことも、矛盾しない。すべては、”よく生きる”ということへの関心なのだと思います。

 


再訪 北見峠

2009-10-09 | ”囚人”道路を訪ねて
7月上旬に網走から囚人道路を通って、北見峠まで自転車で行ってきた。
秋までにもう一度自転車で行こうと思っていたのだが、なかなか行けず、先日用事で車を借りたのに乗じて、車で行ってきた。

前回は何も持っていけなかったので、今回はお花を持参。
周りの山はすっかり秋。


囚人道路は、明治24年に網走分監の囚人を使役して作られた道路のこと。
重機もない時代に、二百名あまりの犠牲者を出し、8ヶ月という短期間で約180キロの行程の工事を行った。
北海道を横断する道路だったため、”中央道路”とも呼ばれている。


網走-北見峠間には多くの慰霊碑や石碑が立てられている。


当時の様子を表しているモザイク画。

こちらの慰霊の碑の碑文については、同じカテゴリーの過去記事2009.7.24『きみは忘れるな囚人道路を-北見峠をめざして 9 完』を、ぜひご覧ください。


高規格道路ができ、すっかり交通量が減った北見峠ですが、通った際はぜひ「中央道路開削殉難者慰霊の碑」に足を止めてください。


車に乗りこみ出発しようと、ドアミラーを見ると、慰霊の碑が私を見送ってくれた。
また、きっと来るからね、”囚人”と呼ばれた道路建設の貢献者のみなさん。

アトサヌプリの硫黄採掘の歴史-ママチャリの旅初秋6

2009-09-13 | ”囚人”道路を訪ねて

アトサヌプリのレストハウス二階の硫黄山ネイチャーホールには、屈斜路湖の自然とともに、アトサヌプリの硫黄採掘の歴史が紹介されている。


【跡佐登(アトサヌプリ)硫黄山の開発】
 弟子屈の硫黄山は、含有率90%以上という純度の高い硫黄が露出
する天然資源の宝庫でした。
 この硫黄は、縄文人がベニガラ(赤色顔料)の原料にしたり、先住
民が焚きつけに使うなど、古くからこの地方に住む人びとによって
様ざまに利用されてきました。
 慶応年間(1865~1868)には、松前藩の役人に採掘した者
がいると伝えられていますが、この鉱床が広く知られるようになっ
たのは、釧路の漁場持ちに任じられていた四代目佐野孫右衛門が北
海道開拓使の許可を得て採掘の事業を起こした明治10年(1877)
以降のことでした。
 佐野は、この事業に努力を払い、明治16年(1883)には全道一
の採掘量をあげ、また翌年札幌で開かれた共進会では、優れた品質
が認められ一等賞を得ました。
 この頃の硫黄は、電気やマッチ、染料、火薬、殺虫剤、やがては
製紙などにも利用される世界的に重要な資源で、わが国でも清国
(今の中華人民共和国)やアメリカなどに輸出して貴重な外貨を稼い
でいました。
 弟子屈町最初の産業となった、この硫黄採掘事業はその後、山田
慎を経て、明治20年(1887)に、安田財閥を率いた安田善次郎に引
き継がれました。
 安田は、硫黄の運搬のために、北海道で2番目、道東では初めて
の鉄道を敷き、また、設備の動力源として釧路に炭山を開くなど、
事業の近代化を推し進めましたが、経営の目的であった山田慎の負
債の返済を終えると、この事業から手を引きました。
 水産業しかなかったこの地方に、マッチ産業や石炭産業、そして
製紙産業などを生み出す源流となり、釧路港の特別貿易港指定にも
大きく貢献した硫黄山の事業も、その後は大資本が入ることなく、
昭和30年代半ばまで細ぼそと続けられましたが、やがて廃止され、
以後、弟子屈町の大きな観光資源の一つとして生まれ変わりました。


-佐野孫右衛門と硫黄山-
 釧路の漁場持ち、四代目佐野孫右衛門は、明治10年(1877)に
硫黄山の硫黄鉱区域、約5万坪(165,000㎡)を国から借り受け、
30数人の坑夫などを使って本格的硫黄の採掘事業を始めました。
 その頃の採掘は、つるはしや唐鍬を使って掘り起こす原始的な方法で、
精錬も伝統的な「だら煮」でしたので、採掘量もわずかでした。
 佐野は、明治11年(1878)から3年がかりで硫黄山の山元から
釧路まで道を開いて、馬と舟を利用した運搬を行い、また、硫黄の
精錬器を導入するなど努力して、明治16年(1883)には9万2千
石(13,800トン)という全道一の採掘量をあげました。
 しかし、その後には採掘が振るわず佐野家も没落したため、明治18
年(1885)に函館の銀行家・山田慎に採掘の権利を譲りました。

-山田慎と硫黄山-
 山田慎は、硫黄山の採掘作業に、標茶にできた釧路集治監の囚人
を安い労働力として利用しました。また、硫黄山~標茶間の硫黄運
搬用鉄道の建設のために国から用地の無料使用の許可を得ました。
 しかし、資金不足の上、銀行経営の失敗で借金が重なったため、
硫黄鉱区を担保に、安田善次郎へ救済を求めました。
 安田は、硫黄山の事業で利益をあげ、山田の借金が返せるよう計
画をたて、明治20年(1887)に硫黄山の経営を引き受けました。


-安田善次郎と硫黄山-
 安田善次郎は、硫黄山や樺太などの硫黄鉱山を調べた後、すぐに
設備の改善に撮りかかり、明治20年のうちに硫黄山~標茶間に鉄道を
完成させました。また、標茶~釧路間の運搬用川舟を汽船に替え、
さらに、山元の精錬釜の改良、新式の蒸気精錬器を備えた標茶の硫
黄精錬所や倉庫の建設などを行い、事業の近代化を進めました。
 その後、採掘量は、佐野から山田の時代にかけての3年間(明治
16年~18年)合計の11万5千石(17,250トン)から、明治21年
(1888)には約1.5倍のおよそ17万7千石(26,550トン)に、
販売高では同じ3年間合計で2万3千4百石(3,510トン)余りが
21年には約2.2倍のおよそ5万2千石(7,800トン)へと飛躍的
に向上しました。
(別紙続き)
 安田の硫黄山経営は、短期間で大きな利益をあげ、山田の借金の
返済を終えることにあったため、乱掘をくり返し、明治29年(1896)
には硫黄をほとんど掘り尽くして閉山してしまいました。
 安田は明治30年(1897)に、鉄道を国に売り払い、明治34年
(1901)、採掘権を山田に戻して硫黄事業から手を引きました。


【小釜】


【大釜口縁部】


【精錬硫黄】

アトサヌプリをお訪ねの際は、みなさんもぜひどうぞ。

秘境駅ファンのみなさま、囚人道路ツアーはいかが?

2009-08-22 | ”囚人”道路を訪ねて
秘境駅探訪がブーム…癒やされる「何もない」(読売新聞) - goo ニュース

記事を読んで、なんか私とダブりました。
秘境駅のよさがわかるみなさんなら、囚人道路のよさもわかるはず。
北海道にまだ少数のアイヌ民族しか住んでいなかった時代に、網走から旭川へ向かって道路開削に駆り出された囚人たち。
その囚人たちがつくった道路なので、別名囚人道路と呼ばれています。
沿線には数多くの顕彰碑、慰霊碑が立っています。

私のいちおしが、遠軽町瀬戸瀬にあるこの『山神の碑』。
囚人道路ができたあとに、囚人の病監獄跡に入植した佐藤多七さんという方が、夜毎聞こえるうめき声や「助けてくれ!」という叫び声に、囚人たちの悲惨さを悲しみ、「死んだあとも”囚人”と呼ばれるのはかわいそうだ。」と、『山神』と刻んだという。

囚人道路をめぐって、近代史の中に身をおいてみませんか。

”覚えている”ことは、”体に刻むこと”

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて

もう30年以上前に、『サンダカン八番娼館 望郷』(サンダカンはちばんしょうかん ぼうきょう)という映画があった。
高橋洋子・田中絹代主演で、戦前から戦中にかけて、貧しい天草の農漁村から、ボルネオに売られていき娼館で仕事をさせられた女性たちを描いている。
冒頭近く、小船で連れて行かれる妹を、兄が島の岬から絶叫とともに見送るシーンがある。兄は絶叫の末、持っていた鎌を自分の足につきたてた。

そのシーンを見て、私は「兄は、妹の悔しさ・つらさを、体に刻んでおきたかったのだなぁ。」と思った。

自分もそんなことを随分としてきた。
友の自殺も体に刻むために人生を転換させたりしてきた。
自分は臆病だから、ピアスをしたり、刺青をしたりはしないが、それらをする人も同じ思いなのかもしれない。


今回、ママチャリで北見峠をめざしたのもそんな思いからなのだと思う。
雨に打たれたり、風に吹かれ寒かったりしながら、”囚人”たちのたどった道をたどりたかったのだ。

もはや囚人道路の跡は、そのほとんどが残っていない。
けれど、だからといって忘れられてよいはずがない。

北見峠を抜け、旭川に入院中の友を見舞い、JRで戻ってきた。

リュックやカバンやくつやカメラや、宅急便でもどってきた自転車や地図を、おだやかな空の下で乾かしながら、北見峠までの道を反芻している。
また、少しずつ記事にして、思いを語っていきたい。

※写真は前回5月末に訪問した際に撮った、遠軽町瀬戸瀬の『開削殉難者慰霊之碑』


網走二見ヶ岡慰霊碑-北見峠をめざして 1

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて

5月末、”囚人”道路を訪ねたときに、網走監獄で死亡した方の位牌を祀っているという留辺蕊の白龍山遍照院という尼寺に立ち寄った。


そのときに、網走湖のほとり、二見丘の慰霊碑は毎年7月9日に慰霊祭を行っているとお聞きし、ずっと気になっていた。


仕事の関係で参列はできなかったが、今回北見峠をめざして走り始めたのがちょうど7月9日の夕方だった。
『国道創設殉難慰霊の碑』の前を通り過ぎると、慰霊碑の前はきれいに草が刈られ、慰霊祭に使用したのだろう、白いテーブルが二つまだ置かれたままになっていた。
私は、慰霊の碑に頭を下げ、慰霊祭に参列できなかったことを詫び、手を合わせた。


網走市二見ヶ岡から行くと見つけにくい『鎖塚』-北見峠をめざして 2

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて




2度目のコースであるということはなんと心強いことだろう。
「この道をもう少し行くと橋がある。その坂をもう少し行くと放牧場がある。」と見通しがもてるということは、これほどまでに体感時間を短くしてくれるものなのだ。


前回訪れた時、あやうく『鎖塚』への抜け道を見落とすところだった。
地図で見ると、網走市二見ヶ岡は右上。
右上の道からやってきて右手に分岐している道に入り、少し上ったところが『鎖塚』なのだが、網走二見ヶ岡方面から来た時には、観光案内版などは出ていないのでご注意を。前方右手に上る坂が見えてきて、菊池橋という小さな橋を越えたらすぐ右に曲がる。


有名だから、観光バスも通るが、付近にバス用の駐車場がないためなのか、「停まって見るほどの場所でもない」と思われているためなのか、バスは『鎖塚』の前の道を、後ろの車に遠慮がちにスピードを落とし、バスガイドさんはそのすきに『鎖塚』についての案内をする。


もう少しバスから降りて説明されるくらいになってほしいなあ。
そのためには、駐車場も必要。そうなると、場所が整備され、地形が変わり、昔の面影がまた少し薄れてしまう。
。。。むずかしい、歯がゆいところだ。


お地蔵さんの知恵を拝借。


地域の方々は、供養碑の前にきれいな花壇を作って、いつもきれいにしてくれています。


北見市端野区緋牛内第2号駅逓跡-北見峠をめざして 3

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて



前回5月29日付け記事にも、地図をつけたのにまたまた地図をつけて、私の”くどい性格”がよくでていますな。
前回この場所に寄った時には、碑の入り口の横にある案内板だけしか撮っていなかった。
碑のすぐ隣はモーテルの入口になっていて、碑の入口なのか、モーテルの入口なのかわからず、階段を上らずに終えてしまった。


付近の道路は切りとおしになっていて、昔からの高さの場所に碑があるのだが、周囲の道路からは約3メートルほど高い位置になっている。
モーテルの敷地と隣接しているというデリケートな場所柄から、碑のまわりには厳重に柵がめぐらされ、まわりと隔絶されている。
一度目の私のように、碑の階段の下で帰ってしまった人も多いのではないだろうか。


碑文
明治三十八年一月
浜網走、緋牛内間
の道路の開通にと
もない中央道路と
の分岐点にあたる
この地に、二区東
十七号線から2号
駅逓が移設され、
斎藤嘉藤治が駅逓
取扱人となった。

昭和58年10月建之
端野町長安田智幸


国道39号線網走方向を見たところ
柵と向こう側の畑の間には鎖塚から国道への抜け道が通っています。

ちょっと、肩身が狭い場所の碑でありました。


雨天決行-北見峠をめざして 4

2009-07-24 | ”囚人”道路を訪ねて


7月9日の夕方、ママチャリで網走を出発、北見のネットカフェで3時間ほど休憩。
ネットカフェでは、気象庁の天気予報やレーダー降水ナウキャストで雨雲の動きをぬかりなくチェック。
しかし、どう見ても雨にはあたるらしい。少しでも早く出発して距離をかせぐべきと考え、朝4時に北見を出発した。
東相内を過ぎるころからシャワーのような雨が降ってきて、重ね着している2枚のジャンパーをあっという間に透過して留辺蕊市内に入るころには下着にまで浸透していた。
これはまずいと、留辺蕊JR駅に雨宿りに駆け込んだ。
自販機でホットコーヒーをと、探し回ったがいくら北海道といっても、7月にはどこの自販機もホットなし。これではホッとできないと、トイレに入ると壁に電気暖房器が!
「JR北海道さん、ごめんなさい!」と言いながら、暖房機をつけさせてもらった。そういえば、喫茶店で携帯の充電をしていた若者が『盗電』で逮捕されるということが以前あったなあ、これももしかしたら『盗電?』とか思っていると、駅の事務室に人が来た音が聞こえたので、5分ほど暖房機で暖まって退出した。
留辺蕊から丸山峠までは上りなので、いつものようにこいだり、降りて押したりしながら上った。雨で寒かったので、いつもよりもペースも早く、また二度目ということもあり、丸山峠まであっという間に着くことができた。


当時の留辺蕊町長の書による『中央道路開削犠牲者慰霊之碑』
慰霊碑でも、殉難者、犠牲者など表現はいろいろで、その中から建立に携わった方々の思いや配慮を推察することができる。
写真がゆがんでいるのは、”怨霊のせい”などではなく、雨粒が携帯のカメラのレンズについていたためです。


丸山峠のちょうどてっぺん、留辺蕊から上ると左側に慰霊之碑の入口があります。


丸山峠から佐呂間町栄に出て国道333号線に入るというのが現在のルートだが、元々の囚人道路は、丸山峠から少し下りた箇所から共立峠というところを通って生田原へ抜けていたそうだ。
その場所は途中まで共立林道という形で残っているようだが、途中からは全く使われていないようだ。
昨年の博物館網走監獄の友の会ツアーでは、その共立峠を含め、囚人たちが土木工事をしながら移動した際に宿泊した、『仮監(かりかん)』の跡なども見学したそうだ。
今年初めて網走監獄友の会に入会した私は、先日の博物館網走監獄の友の会の『釧路集治監を訪ねる旅』の際に、その話を他の参加者からお聞きし、たいへんうらやましく思った。釧路の旅の際に、監獄の学芸員さんに、「仮監の跡は行って見るとわかりますか?」と尋ねたら、「一般の方が見たのではわからないと思います。」と言われ、少し残念に思った。
けれど、私は私なりに、「ここが仮監だったのかなあ。」などと想像をたくましくして、走り慰霊していけたらと思っている。
そして、”囚人”たちの苦労に思いをはせ、”囚人”たちへの感謝を、ブログを通しささやかだがまわりに伝えていきたいと思っている。


遠軽町瀬戸瀬の『山神の碑』
ここの碑文は、ほんとうにすごい。
この碑を建てた方の入植(北海道開拓に入ること)の苦労とともに、囚人たちの苦労、そして碑を建てた方の囚人たちへの慰霊と感謝の思いが伝わってきて、感動を覚える。
同じカテゴリー内の2009.06.07の記事『”囚人”道路を訪ねて-13 遠軽町瀬戸瀬 山神の碑』に、詳しい碑文を載せています。

ふつう、自転車に乗っていて雨に当っても、いつもなら進行方向前面が濡れる程度なのだが、今回はずっと強い雨だったので、靴の中まで水が入ってしまい、ちょっとでも休憩して身体を冷やしたらすぐにでも風邪をひきそうだったので、休憩もほとんどせずにひたすら自転車をこぎ、押して歩いた。
そのおかげで丸瀬布には予定よりも早く到着。
丸瀬布のセイコーマートのホットシェフで鳥のからあげと、カレーライスを買い、店の外で食べた。
寒い中食べたそれらがいかにおいしく、身体を温めてくれたかは言うまでもない。

前日北見から電話を入れて宿泊の予約を入れていた、白滝村の悠遊塾という宿に電話を入れ、2時ころに着きそうなのだが、すぐにお風呂に入りたいのだというと、快く了解してくださり、衣類などを乾かすのに洗濯機も借りなければ。。などと考えながら走っていた。
丸瀬布から白滝村へは、北見峠へ向け徐々に標高が高くなっていく場所なのだからさぞ上り坂がきついのだろうと想像していたが、勾配は思ったよりもゆるやかで、急勾配ではすぐに自転車を降りて押して歩く私にとってたいへん助かった。
 悠遊塾のことは次回詳しく報告したい。