網走監獄博物館と初夏の網走
美幌博物館の特別展のポスターを見かけました。
『ぎょっと、ぎょぎょっと大公開!!
美幌川に暮らす魚たち』展です。
美幌博物館、なかなか不便で目立たない場所にあるので、あまり人の入りはかんばしくないように思いますが、すてきな博物館です。特に、屈斜路湖や美幌峠がどのようにできたかとか、木の根の下の空間でへびがだんご状になって冬眠しているようすなど、おもしろい展示がいろいろあります。
また、5月ころには、美幌図書館で美幌周辺に多くみられる『日本ザリガニ展』を開いたり、今回の特別展を開いたりと、学芸員さんがんばっておられます。
多くの人に訪れてほしいです。
美幌町市街より北見方面に少し行った美禽(みどり)というところにあります。
この建物、以前は行刑資料館といういかめしい名前がついた建物だったのですが、
監獄歴史館という親しみやすい名前になりました。
最初のコーナーは、最近の刑務所の内部を再現したコーナー。
立っている刑務官さんは、写真です。
こちらは雑居房。
タオルや持ち物もまちまちで、本当にここで寝泊りしている人がいるようです。
こちらは個室というか独房。
三畳にトイレがついています。
起きている間は、正座しているかこのように座っている必要があるようです。
自由に横になったりはできないようです。やはり生活自体が”刑”なのですねえ。
ママチャリを押して坂を上り、やってきました『博物館 網走監獄』
入り口の左側には実際に使われていた監視台があり、中には人も。あ、マネキンか。
何気ない花壇ですが、花壇のまわりのレンガは移築前に網走監獄で使われていたもの。
博物館網走監獄のよさは、この何気ないところに隠された歴史です。
例えるなら、ディズニーランドのホテルのドアノブやシーツにミッキーマウスの形が隠れているような。。。。ちょっとムリがあるたとえか。。
そこここに囚人たちの苦労がしのばれます。
今も網走刑務所前にかかる鏡橋の何代か前の鏡橋を模した橋。
ここが今回5月?に新装なった監獄歴史館。
明治45年から昭和59年まで実際に使用されていた獄舎です。
扇子を拡げたように5つの棟が180度の中に配置されています。
扇の要の位置に見張り所があり、そこに立って見渡すとすべての棟の廊下が
見渡せるようになっています。
昭和59年といえば私が26歳の時。手話通訳をしていた時だなあとその古くて身近な時を懐かしみます。
外からも異常かしょがすぐにわかるように、全ての窓に獄舎の番号がついています。
明治29年に網走の西方丘陵地に「屈斜路外役所」として設置された、二見ヶ岡農場の建物。
登録有形文化財にも指定されているそう。
きれいな廊下と木製の重い扉が印象的。
このタールを塗った木造家屋、最近ではめったにお目にかかれません。
これは農場の作業風景。みなさん、マネキンさんですが、表情、姿勢は一体一体違っていてたいへんリアルです。
中央道路開削の犠牲者についての記述や表示もこのようになりました。
文字よりも、見てわかりやすい形ということに重点がおかれているように思いました。
一目瞭然、わかりやすい。ただ、ちょっと”のりが軽い”カンジがします。
しかし、博物館網走監獄は、わたしのように中央道路や囚人労働に興味をもった人だけではなく、多くの、例えばツアーの中に組み込まれているからなんとなく寄った人にも、興味関心をもってもらえるようになければならないのだと思います。
その意味で、今回の『監獄歴史館』は、よりわかりやすく、身近に、監獄にまつわるいろいろな問題を教えてくれていると思います。
網走監獄には、中央道路開削後にもいろいろな歴史があり、2階ではそれらをいろいろな工夫で見せてくれます。こちらの方は、農業実習の技官をされていた方だそうで、時に目をうるませて、囚人と農耕馬との関わりなどを語られる姿が印象的でした。
『体感シアター』の次は、体験。
囚人服を着てみたり、編み笠をかぶってみたりできるコーナーが。
観光客には、うけるでしょう。
特に、修学旅行生とか、「おめえ、似合う!」とかわいわい言って、着ていそう。笑
こちらは、囚人道路、北海道中央道路開削の際に、囚人につけられていた鉄丸と呼ばれた鉄球の試着?コーナー。
少し斜面になっていて、はずすと鉄球が一番奥までもどるようになっています。
観光客のカップルの男性がつけてみて、「軽いわ。」と言っていた。
実は、私も不覚にも「軽い!」と思ってしまった。
しかし、よくよく考えてみたら、囚人たちがつけたのは、こんなすべりやすいフローリングの上でではなく、熊笹生い茂る原野の中だったのですぞ。
それも、つけたままで、12時間以上の重労働をしたわけです。
そのあたり、くれぐれも、体験して誤解しないようにしてください。
まあ、展示装置としては、鉄球を野ざらしにしない安全上の工夫と、はずすと元にもどるためには中に熊笹を茂らせたり、面をデコボコにするわけにもいかないわけだし、観光客に入り口からずっと着けてもらうわけにもいかないわけだから、やむをえないだろう。
みなさん、くれぐれも想像力を働かせながら、装着しましょう。
監獄歴史館の目玉がこちら。なんだか薄い天幕の中に入っていくと、
中央道路開削のミニシアターが始まりました。
雪の中突貫工事を進める囚人たちと看守たち。
看守さんのご苦労も伝わってきます。
ミニシアターは、三方の幕に映り、人がいっぱい入っても見やすいようになっておりました。
内容は演技がちと演技かなあと思いましたが、まあ、まあ、まあ、いいでしょう。
問題は次だな。。。
博物館網走監獄で、網走監獄設立120年記念の
『中央道路開削資料展』をやっている。
先日、学芸員の今野さんによる資料展解説会が開かれ、行ってきた。
場所は博物館網走監獄の中の教誨堂。
この建物も他の建造物同様、網走監獄で実際に使われていたたいへん貴重なもの。
最初北海道開拓のために、当時集治監と呼ばれた監獄が北海道内につくられたが、最初は道東は釧路にあるのみだった。
しかし、明治20年代になり、帝政ロシアの南下、北海道の占領ということをおそれた政府はそれまでの北海道の海岸線沿いに道路を整備してからの開拓から方針転換し、北海道を横切る形の道路を開削する必要に迫られた。
そこで、それまで、釧路に近い標茶に置いて、屈斜路湖近くのアトサヌプリ硫黄山の硫黄の採掘をさせていた囚人たちを網走に移動させ、網走から昔は忠別とよばれていた旭川までの間の道路開削にあたらせることにした。
アトサヌプリ硫黄山の労働では、有毒ガスの影響で多くの死亡者や失明者を出していたことも、網走に監獄を移した理由の一つでもあった。
それで、釧路から網走に移ってきた囚人たちと看守たちは、8ヶ月という短期間で人跡未踏の原野の木を切り倒し、木の根を掘り、橋をかけの作業にあたった。
それも囚人たちは逃走防止のために鉄丸と呼ばれる鉄球を足につけた状態で二人一組で鎖でつながれた状態の中での作業だった。
当初、北海道庁は民間会社に道路開削の見積もりをさせているが、たいへんな金額と工期も「2年は必要」と積算されたために、安価で使え、「もし死亡しても、誰も泣く者もいない罪人であればいいだろう。死んで囚人の数が減れば監獄費の節約にもなる。」という上の判断もあり、苛酷な労働に駆り出された。
囚人を使役する側の看守たちも、それぞれに工区をつくって競わせたと言われている。
そんな中で、多くの囚人が死亡。
こちらにも書かれているような鎖塚と呼ばれる土まんじゅうを盛った簡素な墓標が建てられていたそう。
特に網走から遠くなり、未開の内陸部に入れば入るほど、物資の輸送に困難を生じ、野菜の欠乏からくる栄養不良から、遠軽の瀬戸瀬あたりでは多くの囚人が亡くなっている。
こちらが、今回の解説会の様子。博物館網走監獄友の会のメンバーら約20人ほどが学芸員の今野さんのお話しをうかがった。
いつものことながら、今野さんの解説はたいへんくわしく、微にいり細にいり説明してくださる。また、年号や人名が次々と出てきて、感心してしまう。
今回の解説で知り、深く考え込んだこと。それが下の看守長のことだ。
網走監獄の典獄とよばれる所長の次の責任者として、中央道路開削の任にあたった方。
明治24年4月5日付けの道路開削のための出張命令書が残っていた。
8ヶ月の難工事を、211名の犠牲者を出し終了。
その褒美として、拾五園をもらった。
しかし、工事を終えたわずか3年後、依願退職している。
資料には「工事の責任者として囚徒の犠牲があまりに大きかったことに対する自責の念が看守の依願退職につながったことは想像にかたくない。」と書かれていた。
囚人たちの多くの命と看守たちの重たい使命感の上に、今の北海道があるのだとつくづく思い知らされた。
【『中央道路開削資料展』は、9月30日(木)までです。ぜひ、どうぞ。】