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私(西澤)が今、養護施設に行ってしているのは、虐待の影響から回復するための支援ということなんだろうと思います。
ひとつは「トラウマ性の記憶から、叙述的記憶へ。」ということで、自分の受けた虐待やネグレクトの体験を整理し、“自分史”を語れるようにサポートをしています。自分のライフストーリー・ライフヒストリーを自らが語れるように、なんとかもっていく。そのためには、虐待、ネグレクトの体験を整理していかなければなりません。
昔は、子どもたちの虐待、ネグレクト、たいへんな体験というのは扱わない・触れないのが普通でした。私がアメリカから帰った20年前には、私が「トラウマのエクスポージャー(exposure-晒すこと)をやる」と言ったら、「そんなことをしたら子どもはつぶれるのではないのか」と、ものすごい批判を受けました。今はそんなことを言う人はいなくなりました。虐待をトラウマ性の体験と考えて、子どもたちの状態をトラウマ性の障害だと見るならば、子どもたちは自分自身が受けた虐待やトラウマティックな体験を詳細に語って整理をしていくということが必要であるということは、だいたいこの虐待の領域で仕事をしている人、専門職にとっては常識になっています。ひとつの“自分史”として編み出していくということを考えているわけです。
もうひとつは、「時間的展望の獲得」。
現状を受け入れて、連続性のある将来像を描けるようにしていきたいと思って、意図的にやっています。私が見る限り一般的には、一般の子どもたちの展望と、養護施設にいる子どもたちの展望がかなり違っています。展望というのは、過去・現在・未来の整理と見通しのことです。
例えば、幼稚園の年長さんくらいの子に、「将来何になりたい?」と尋ねたら、現実的かどうかは別として、とりあえず何か返事があるでしょう。男の子だったら、サッカー選手か、ゴルファーとか。女の子は、20年間あまり変わっていなくて、「ケーキ屋さん」と「お花屋さん」。
ところが、養護施設で幼児、小学低学年の子に尋ねると、一番多い返事は、「わかんない」、「しらない」と返ってくる。要するに将来像が描けないのだと思います。いろいろな理由があるのだと思います。
また一方で、過去の体験が語れない。これも時間的展望の問題です。あるいは現状を受け入れられるかどうか。自分が「施設にいてよかった。」と思えているかどうか。「施設にいてよかった」と思えていない子は当然将来像を描けません。「施設には来たくなかった。早くお家に帰りたい。」という子にとっての将来像は「早くお家に帰ること」となってしまいます。そのような将来像以外は描けなくなってしまうわけです。かなり彼らの時間的展望が混乱していると思われます。
今、大学で、一般家庭の子どもと養護施設の子どもの時間的展望(質的・量的)はどのように違うかについて研究を始めているところです。
それと合わせて、自己の人生のプロット(plot-小説・演劇・映画などの筋・構想)を描けるような援助をしています。
親の現状を受け入れて、親に対する過剰な期待をあきらめて、自分の人生を親の人生と切り離して考えられるように、ということをしています。
「おかあちゃんが、ちゃんとやさしくなって、ボクのことを育ててくれるんだ。」という子どもに、「キミは甘いなあ。あのおかあちゃんなんだよ、ムリでしょう。だけど、あの人は、あなたのおかあちゃんなんだよ。あなたにとって大切な人なんだよ。だけど、育ててくれるのをあの人に求めるのはムリだよね。」などという話ができるようになること。その上で、自分の人生を親の人生と切り離して描けるようになることをめざしています。
放っておくと、虐待された子どもは、“親の人生の一こま”になって生きていってしまいます。それこそが、乱用(abuse-アビューズ、※虐待の原語はChild Abuse-チャイルド アビューズ)ということです。自分の子どもを自分の人生のために利用してしまう、そのことが乱用であり、乱用の元の言葉であるabuseの表す意味です。
我々、“虐待”と訳している言葉は、本当は間違いなんです。本来は、“乱用”と訳すべきで、「親に利用されてるでしょ、あなた」ということ。養護施設でよくある典型例は、子どもはずっと「おかあさん来ないかな。」と待っているのにまったく姿を見せず、子どもが高校卒業ころになると突然姿を現す親のパターンがあります。それまでまったく音信不通だったのに、子どもが高校卒業くらいになると児童相談所に名乗り出て、「私の子どもを捜してください。」と言ってくる。「親が突然愛に目覚めたか?」、ほとんどの場合、金銭目当てのことが多いです。それまでは子どもを捨てていて、子どもがお金を生むようになると、子どものお金を吸い上げるために現われて、「家にもどっておいで」とやさしい言葉をかけ、その通りになります。子どもはよろこんで家に帰って、次に児童相談所が家庭訪問したら、子どもはすでに風俗で働かされていたなどというケースは少なくありません。
親が生きるために、子どもが“利用される”。このことが、“虐待”と訳されている“乱用”ということなのです。乱用されているということを、子どもにも気づかせなくてはなりません。「おかあちゃんは、ひどい人だよね。おかあちゃんはあなたのこと利用しているよね。そうしないと、おかあちゃんは生きていけないんだよね。だけど、あなたにはあなたの人生があるでしょ。おかあちゃんの人生はおかあちゃんが責任を取らなければならないんだよ。」
そんな形で親の人生との切り離しをしていく。それをきちんとしておかないと、中学・高校くらいになっても、将来の夢は、「おかあさんを助けたい。」となり、親の“乱用”に、はまっていくことになります。だから、「あなたの人生と、あなたを虐待した親の人生とを、切り離してね。」ということをずっとやっていっています。
それと同時に、虐待する親以外の人との適切なアタッチメント(愛着)の形成をめざしています。養護施設であれば、養護施設のケアワーカーとの関係を強化していきます。自分は臨床心理の人間で、以前は心理職の自分と子どもで心理療法をやってトラウマの問題を扱っていましたが、最近は、子ども、ケアワーカーと共に取り組んでいます。その方がトラウマの問題に取り組みながら、子どもとケアワーカーとの関係を強化することができるからです。
また、単にケアワーカーと子どものアタッチメントが強化されるだけにとどまらずに、そのケアワーカーが“子どものこころの中に住む“ように現場でも工夫しています。しかし、小学校高学年を過ぎると、なかなかアタッチメントの形成も難しくなっていきます。その子たちには、「アタッチメントに由来しない、”他者視点“や”共感性“」を育てることを、認知行動療法などの手法を用いて取り組んでいます。