函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

私の子ども観を変えてくれた人

2010-02-21 | かがやく 大好きな仲間
障がい児と一緒の職場に勤めている。
恥ずかしい話だが、この仕事について間もないころは、障がいのある子たちをどなったり、時にたたいたりしていた。

そんな時、「kenさん、違うよ。」と教えてくれたのがTさんだ。
私が障がいのある子たちのことを真に理解するにはそれからまだしばらくかかったのだが、札幌学院大学におられた故高橋渉先生や津守真先生のことを知ったのもTさんのおかげと言える。
最近、『1/4の奇跡 本当のことだから』を知り、今まで学んできたこと、体験してきたこと、感じてきたことが、ひとつのかたちになってきたように感じる。
その最初のきっかけをくれたのがTさん。
今は会うこともないけれど、もし会えたら、「ありがとう。」と伝えたい。

『函館のおおちゃん』テレビに出ます

2010-01-21 | かがやく 大好きな仲間

2008.02.21付け記事『函館のおおちゃん』で紹介した、人生の途中で視力を失った視力障がいの写真家、おおちゃんこと、大平さんが明日1月22日午後8時からのNHK教育テレビ『きらっと生きる』に出演されます。
おおちゃんは、大学に通う傍ら、全国を回って写真を撮り写真展を開いて活動しているそうです。
ぜひ、ごらんください。


いつまでもがんばっているステキなハコダテのろうあ者たち

2010-01-17 | かがやく 大好きな仲間
今回のハコダテへの帰省の際、何年ぶりかでハコダテのろうあ者に会った。

『kenを囲む意見交換会』という場をわざわざ設定してくれ、ろうあ協会でかかえている課題について意見を交わした。
ハコダテにいる間も後半は手話や手話通訳にはあまり関わっていなかったのに、忘れずいてくれ、いまだ頼りにしてくれるのは、なんだかおもはゆくもあるが、とってもうれしい。
今でも現役でハコダテのろうあ者と一緒に活動している連れ合いは、「ほんとにろうあ者はあんたが好きなんだよねぇ。」とうれしくも少しくやしそう。父と母の手話や手話通訳を両方見てきていて、今やミュージックサインの第一人者として活躍している娘は、「やっぱ、まー☆は父の手話が好き!」と言ってくれる。

永くろうあ者相談員やろうあ協会の会長を務めていたFさん、何度も大ゲンカしていたけれど、いつの間にか一番に頼りにしてくれたMさん、「困る!困る!」と言いながらろうあ協会や手話サークルがうまく進むように気配りしてくれたAさん、「kenたちは、通訳者というより”仲間”なんだ。」と言ってくれるIさん、一歩引いた立場で意見を言うKさんと、集まってよもやま話から懸案まで延々と話しこんだ。
出合いから早26年、私も含めみないい歳になり、以前と比べると人間的にもだいぶ丸くなったなあと感じた。私の現役の時はけっこうみな熱くなりやすいタイプで大声や大”手話”が飛び交っていたのに。


その中でも、感心したのは、『ユニバーサルホーム函館』という聴覚・視力・肢体不自由と障がい種を越えた、高齢障がい者住宅をつくろうとNPO設立への準備をしているということ。
Fさんは、以前からその構想を温めていて、自分の家を新築する際にもそのような機能をもたせられないかと真剣に考えていたのを知っていたので、その信念の強さに頭が下がる思いがした。年賀状にも『ユニバーサルホーム函館』設立への熱い思いを書いていた。

会を終え、帰っていこうとするFさん夫妻のところへ娘が私を引っ張っていった。
娘が手話で、「あのね、とーちゃんがFさんと握手したいんだって。恥ずかしいから言えないんだって。握手してあげて。」と言うと、Fさんが笑顔で私に手を差し出し、二人しばらく思いをこめた握手をした。

Fさんと握手していて、思い出した風景がある。
手話を習い始めたばかりのころ、ある宿泊研修会があった。会場は、今はすでに廃止になった旧ロシア領事館にあった、道南青年の家。
人見知りが強く、手話もまだ使えなかった私は、交流会が始まると、大きな畳の部屋の隅っこに座ってまわりを見つめているだけだった。その時、身振りで「もっとこっちにおいで!」と呼んでくれたのが、その日も講師をしていたFさんだった。
私はその時、Fさんが”もっとなかに”と誘ってくれたのは、いつも社会で隅っこにいることを強いられるろうあ者として、隅っこのさみしさを知っていたからなのだろうと思い、たいへん感動した。

Fさんとは26年の間には、長い葛藤の時代もあったが、私が手話の世界にどっぷりとつかるきっかけを与えてくれたのもFさんだったのだなあと、握手しながら熱いものがこみ上げる思いだった。

Ucaさん、私に自信をくれた人

2009-11-20 | かがやく 大好きな仲間

51なのにいまだ青臭いことを言うのを自分の役目と自任している。
だから、職場ではいつも孤独好き。

それなのに、前の職場のある時、いつもあまり主張しない人が、「あなたは、自分の力を知らないでしょ。」と言ってくれた。
「この職場、ダメだ、困ったって思っているかもしれないけれど、結局はあなたが思っている方向に動いているよね。あなたはそれでいいのよ。」
いつもそれほど仲よくしていた方でもなかったし、お互い理解し合っていたという仲でもなかったので、たいへん驚き、またうれしかった。

その方とは、それが縁で家族の話やスピリチュアルな話などもするようになったが、間もなく異動で職場が代わり、それきり連絡も途絶えた。

風のうわさでは、異動後、退職し、今ではまったく違う仕事につかれたようだ。
けれど、いつも”自分の人生の目的”を考えて行動されていた方だから、きっとよい人生を送っておられるだろうと思う。


今日、久しぶりでスピリチュアルについて話をしていて、Ucaさんのことを思い出した。

今も、私が離婚もせずいられるのは、あのころ聞き役にまわってくれたUcaさん、あなたのおかげだと思っています。ありがとう。


そして、Ucaさん、私は今でも職場で同じように青臭いことを言っています。


道南のかっちゃん誕生日おめでとう!

2009-10-20 | かがやく 大好きな仲間

かっちゃんは、グループホームから工場に仕事に通っている。
以前からの知り合いで、時々電話をくれるいい友だちだ。
いつも、「kenさん、元気? かぜ ひかないでね。」と気遣ってくれる。

かっちゃんは、絵も上手。
健常と言われる私たちには絶対描けないすてきな絵を描く。かっちゃんの絵には癒す力がいっぱいだ。
以前、網走にある北方民族博物館に行ったときに、かっちゃんが描いた絵とそっくりな仮面を見つけ、おどろいた。

かっちゃんのたましいは、太古からつらなっているんだね。

これからも、かっちゃんの感性を発揮して生活できるといいね。
かっちゃん、誕生日おめでとう!


16才の輝き

2009-08-09 | かがやく 大好きな仲間
娘と娘の友人の子、二人の15歳、16歳と人生論や優しさについてなんていう話をする機会を得た。
それぞれ、真剣に自分やまわりのことをとらえようとしている姿がまぶしく、51歳の私はとても刺激を受けた。

これから、彼女たちも生きている間中、いろいろなことで悩んだり立ち止まったりしていくのだろう。
けれど、今もっている自分を大切にする気持ち、まわりをなんとかよくしていこうという気持ちを、これからももっていてほしい。

そして、彼女たちが51歳になった時に、16歳の女の子の悩みを笑わない人生を歩んでほしいと願った。

衆議院議員だった金田誠一さん、お疲れ様でした

2009-07-27 | かがやく 大好きな仲間
衆議院が解散し、それまで議員だった人たちは、解散と同時に”議員”ではなくなるのだそうだ。
今期限りでの引退を決めていた衆議院北海道8区選出の衆議院議員金田誠一さんも、解散と同時に議員の職を失った。

金田さんは、元函館市職員。市の労働組合の専従職員から、市議会議員に立ち、たしか27歳くらいで初当選。その後、いつもトップ当選を果たして、衆議院議員に立候補。衆議院議員を5期務めた。

国会議員なら誰もが認める人権派・護憲派で、「ハンセン病問題の全面解決を推進する議員懇談会」副会長として国の謝罪を引き出した。また、臓器移植問題では脳性まひ者などの障がい者団体の意見を反映させて『脳死を人の死としない』立場で、金田案と呼ばれる法案を提出するなど、活躍した。
9・11以降の対テロの世論に与せず、テロ特措法に民主党の意向に反して反対し、処分を受けるなど、金田さんの行動は党派よりも良心に添ったものだった。

2006年1月に脳梗塞になり、衆議院解散まで車椅子で登院していた。

金田さんは、議員としての活躍はこれで終えるが、金田さんを脳梗塞にした神様はきっと金田さんに違う使命を与えるのだろう。

金田さん、長い議員生活お疲れ様でした。
これからも、金田さんにしかできない活躍を、さらにしていってください。

昼の紋白蝶-ayakoさんのこと

2008-11-05 | かがやく 大好きな仲間

ayakoさんは、連れ合いの16歳離れた妹。
3歳から姉と生活してきた。
小学校3年くらいの時に私と姉が結婚したために、ハコダテへ車で3時間ほどのところから越してきた。
姉が結婚してからは、姉と姉の夫である私と暮らしてきたayakoさん。

私は、最初こそ”いいおにいちゃん”として、ayakoをかわいがったが、ayakoが自分の意にそぐわないことをし始めると、イライラし、ayakoにつらくあたった。
一度など、私が晩御飯のおかずに使おうと思っていた、キャベツとチクワを食べたといって、カッとして怒鳴り散らし、外まで追いかけて行ってこづきまわすという行為をはたらいた。
私は、いいことは自分の手柄、しかし自分がイライラしたりするのは、ayakoがいるせい、と思っていた。
ayakoさんには、どなったり、たたいたり、いやなこと、いじわるなことをいろいろとした。けれど、今考えて、自分の一番の大罪だと思うことは、一緒にいたのに”愛さなかったこと”。
いつも非難するように見つめ、とがめだてばかりしていた。
だから、ayakoさんも必死で自分を守ろうとしてキバをむいてきた。

ayakoさんが20歳くらいになったとき、自分のしてきたことに気付き、ayakoさんが当時勤めていたスナックへ行き、謝った。
ayakoさんは、涙ぐんですぐ許してくれた。

何年か前、ayakoさんが、「おにいちゃんって、男の人ではめずらしいくらいいい人なんだよ。自分で知ってる?」って言ってくれた。私のいやなところをいっぱい知っているのに、そう言ってくれた。
いつも自信のない私だから、とってもうれしかった。

ayakoさんは、夜の蝶を何年かしていたけれど、大金を持つことを捨て、専門学校に入り、今は医療系の、昼の紋白蝶になった。
きっと、そこであなたの過去が活かされるはず。

ayakoさん、大好きだよ。
一日遅れたけれど、誕生日おめでとう。


マサシさん

2008-09-27 | かがやく 大好きな仲間
マサシさんは、トヨペットで車を売っていた。
病気で入院した。
難病だった。
進行性の筋萎縮症で、20歳代後半から車椅子生活になった。
けれど、めげなかった。
退院すると、障がい者用の運転免許を取り、腕でブレーキ・アクセル操作を行う専用車をもった。もちろんトヨタ。
地域で仲間を募って車椅子バスケットのチームを立ち上げたり、市役所と障がい者団体との集いでは積極的に意見を述べ、障がい者の暮らしが少しでもよくなるように奮闘した。
私たちが、手話通訳者の職業病や障がい者サポートについて考える会をつくったときも、賛同して役員になってくれた。だから、手話は知らなかったが、ろう者の知り合いは大勢いた。

こんなふうに書くと、さぞ真面目な方だったように思われるかもしれないが、断じてそんなことはない。
口を開けば、エッチな話と冗談ばかりが飛び出して、マサシさんのまわりはいつも笑いであふれていた。団体を運営することでのさまざまな悩みや人間関係の悩み、それ以上に自身の病気の進行の不安、悩みはつきなかったと思う。けれど、いつもまわりを笑わせてくれた。

私に娘ができてからは、よくマサシさんと私と娘の3人で近くの温泉に出かけた。
マサシさんは人工膀胱をつけていて、その管が尿道から出ていたが、それを目立たないように隠して、温泉に入った。
マサシさんは結構重たかったから、広い温泉の洗い場でずっと抱いてもいられず、ある時以来、風呂用ウレタンマットを魔法のじゅうたん代わりにして、それにマサシさんを載せて浴場内を移動するようにした。マサシさんにも、私にも、便利でよかった。
それからは、温泉に行く時には、車から降りると娘がその風呂用マットを持つ係になった。3歳くらいの娘が自分の背よりも高い巻いた風呂用マットを持ち、責任感いっぱいに歩を進める姿はたのもしかった。
マサシさんもとてもよろこんでくれた。
しばらくたって疎遠になった後も、会うと「また温泉行くべ。」ともちかけられた。
マサシさんもよろこんでくれたが、娘にも一生忘れられない体験をさせてもらったと思う。

時が流れ、私も手話の活動から遠ざかり、マサシさんともあまり会うこともなくなってしまったが、たまに会うと、「ken、飲み行くべ。」と誘われた。
私自身のうつの時期もあったのと、あまり飲む場が得意ではない私の性格もあり、その都度断っていたが、今となってはちゃんとマサシさんと話しておけばよかったと悔やまれる。

マサシさんは、それからも妹さんや息子さんたちの援助を受けながらも、いろいろなことにチャレンジしていた。
昨年の3月、私がハコダテから網走に行くことを知らせようと、しばらくぶりでマサシさんが生活していたアパートへ行ってみると、何度行っても留守だったので、妹さんに聞くと入院しているとのこと。
さっそく病院へお見舞いに行き、網走行きを伝えた。
「そうか、kenもとうとう島流しか。網走番外地の高倉健さんだな。ハハハ。」といつものようにオヤジギャグを飛ばしていたが、少し元気がなかった。
昨年の12月の末、ハコダテに帰った時に、見舞いに行くと、意識はあったが、気管切開していてすでに声はでなかった。
その後長い闘病を経て、マサシさんは先日亡くなった。

神はマサシさんに過酷な人生を与えたが、マサシさんはそれを正面から受け止め、よく生きた。
マサシさんを思い出すと、ニヤニヤと笑いながらおかしなことを言っているゆかいな姿ばかりが思い浮かぶ。私のように暗い顔をまわりに見せない、本当に楽しくもりっぱな人だった。
マサシさん、59年間お疲れ様。
マサシさんと出会えたことを、心から光栄に思います。
マサシさん、ありがとう。安らかに。

函館のおおちゃん

2008-02-21 | かがやく 大好きな仲間
コバルトブルーの海を撮った一枚の写真がある。白い砂浜には上に帽子がかけられた一本の白い杖が誇らしげに立っている。

その写真を撮ったのが、おおちゃんだ。函館の視力障害センターに通っている。
おおちゃんは、大学で微生物の研究中に誤ってメチルアルコールを飲み視力を失った。見えていたときに写真が好きだったから、見えなくなってからも写真を撮り歩いている。
先週、NHKの北海道版でおおちゃんのことが紹介されていた。
実際、写真を撮っている様子も出ていた。
歩いていて、顔に湯気があたる。「誰かいますか。」とまわりに声をかけ、足湯があることを知り、足湯でポカポカあたたまった足を撮る。
山を歩いていると、「ダシのにおいがしてきた!」と、においを追いかけ、しいたけを焼いている風景を撮る。
まさに感覚を研ぎ澄まして撮っている姿に感動した。

おおちゃんは、娘と連れ合いの友人でもある。「インクルーシブ友の会」という会を一緒にやっていて、手話や盲人用副音声付きのバリアフリー映画会の企画などをしている。
以前、娘がおおちゃんに、「とーちゃんは友だちがいないんだよ。」と言ったら、おおちゃんが「ぼくはおとうさんの友だちだよ。」と言ったので、わたしの友だちでもある。