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北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

人間の身勝手さを示す歴史遺産、第一幾品川橋梁を見る

2009-05-06 | Abashiri Prison Museum-網走監獄関連
この連休に斜里町越川の温泉に行こうと思ったもう一つの理由。
それは越川温泉の近くに『越川橋梁』というタコ部屋労働者の力で作られた橋梁があると聞いたためだった。
若い頃、オホーツク民衆史の本を読んだこと、道南のタコ部屋労働者が働いていた北桧山の線路をYWCAの人たちと見学にでかけたことなどを思い出し、ぜひ訪ねてみたいと思ったのだった。


越川温泉を探し、越川地区から根北峠へ向け自転車をこいでいると、突然目の前に大きなアーチ橋が道の両側に現われた。


それが、第一幾品川橋梁、通称越川橋梁跡だった。


写真の斜里岳と知床連山の一角海別岳(うなべつだけ)の間を通り、斜里から根室へ向けての鉄路を作るために、韓国・朝鮮から強制連行し連れてきた人たちを含むタコ部屋労働者の力で、作られた橋梁だ。


10連のアーチ橋として作られたものだが、道路の拡幅により橋げたの2本が撤去され、今は二つに分断され道路の両側に残されている。


二つに分断され強度が弱くなったのか、一部亀裂が入り橋げたのまわりには落下したコンクリート片が落ちていた。


斜里町で設置してくれている案内板を読んで驚いた。
この橋梁、作られはしたものの、情勢の変化から一度も汽車が通ることなく廃線となり、その後一部が撤去されてしまったという。


家に帰り、インターネットで「第一幾品川橋梁」と検索すると、多くの資料が集まった。それらによると、この橋梁にタコ部屋労働者が投入されていたことは史実として間違いなく、この橋梁の建築中に11名の命が奪われているそうだ。

タコ部屋労働で働かせ、11名もの犠牲で作られたアーチ橋。


しかも、戦時中の鉄不足の折、鉄筋を一切使わず作られたアーチ橋という。
また、一度敷いた線路さえも戦争に使用するために持ち去られたのだという。


一度も汽車も通さずに、道路の拡幅で一部撤去されたアーチ橋。


この橋から私たちの学ぶものは大きい。


現在は文化庁の登録有形文化財の指定を受けている。


今日も多くの車が、アーチ橋の間を通っていることだろう。


1羽の、北へ帰らなかったオジロワシが、まるで墓守りのようにアーチ橋の上を旋回していた。


※カテゴリーを『網走監獄博物館関連』としたのは、タコ部屋労働は囚人労働以上にきつく、広い意味で「人権」に関することと思ったからです。

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