函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

乖離(かいり)ということ-NHK教育『子ども虐待』より

2008-06-29 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える

昨日のNHK教育テレビ『子ども虐待』は、いろいろなことを思い出させてくれた。

番組始まってまもなく、司会者がSさんという父親から虐待を受けていた大学生の女性に「Sさんは、どんな虐待をおとうさんから受けていたんですか?」と尋ねた。Sさんは黙っている。その質問がある前までは、自分がどのように父親にマインドコントロールされていたのかを自ら語っていたSさんだった。モザイク処理されたSさんをテレビカメラは遠くから、または近くによって、時にスタジオセットの陰から、撮り続けるのだが、Sさんは一向に返事をしない。少しあわてた司会者が「話しずらいかな?」、「話したいことがあるって来られたのだけれど、今話したいことはなあに?」などいろいろ話しかけるが、返答はない。2分くらいたった時、西澤哲さんが、「Sさん、まわりの声、聞こえていますか?」と、問いかけると、ふと我に返ったように「はい。」とSさんが返事をした。
西澤哲さんが、「今、昔のことを思い出していたでしょ。おとうさんの声とか、音とか。」と、状況を確認する。Sさんは、自分でもよくわからないというように「そう、ですねえ。」と言う。
西澤さんは、解説する。
「どんどん昔のことを思い出して、音とか声とかが聞こえていた状態だと思う。そんなときには、戻ってくることが大切なので、他の話題に切り替えたり、違うトーンで話しかけるとよいです。今は、司会の方が同じペースで話かけられたので、記憶の支配を加速させたと思う。」
「いわゆる、乖離(かいり)という現象です。ストレスになるその場からいなくなるとか、恐怖だった昔に意識が行ってしまうケースがあります。どちらにしてもあまりよいことではないので、戻ってきたほうがよいです。」

乖離とは、それ自体、本人を守るために発生する。
父親から性虐待を受けた女性の多くは、「自分は、身体から離れて、部屋の上の方から父と自分を見ていた。」と言う。身体と一緒だと、あまりにも心がつらいから、一時的に身体から離れて避難する、それが乖離の最初だ。
しかし、成長してもその乖離が習慣となってしまって、日常生活に支障をきたしてくると、それは”精神的障害”、”やっかいなもの”となる。
自分を守るために生まれたものが、自分の身を傷つけるなんて、かなしいこと。

我が家に来た、里子のミナナ(5歳)とミカカ(1歳半)の姉妹の姉ミナナは、時々それも頻繁に”我を忘れた状態”に、なっていた。私たちは、「あ、ミナナ、また木星に行ってる。」などと、それをからかっていたが、それこそ、今思えば、乖離そのものであった。
ある時、私が怒って手を出した時【これは、まぎれもない体罰であった】、ミナナは、こちらをことさらに挑発するように「そんなの痛くないよ~。」と言った。
ある時、遊び半分で「じゃあ、どのくらいでたたいたら痛いか教えて。」と、背中をたたく手に加える力を強めていった。痛いだろうと思う力でたたいても、ミナナは「痛くないよ~。」と笑っていた。
「ミナナ、すごいねえ。」と驚く私に、ミナナは得意気に身振り手振りを交えて説明してくれた。
「あのね、とうちゃん。心をからだからずっと離すの。そうすると、痛くないんだよ。」
ミナナは、6歳にして、自分の乖離状況を自分で理解し、説明できるだけのおそろしい体験を積んでいたのだ。

ミナナに、もう一度会いたい。
会って、自分の行った体罰をあやまりたい。
そして、「ミナナ、あなたは大切な人です。」と言いたい。

※ミナナとミカカとの出来事は、このカテゴリーの『ミナナとミカカ』に、記しています。ぜひ読んでください。
※乖離についての説明は、西澤哲さんの著書
『子どもの虐待-子どもと家族への治療的アプローチ-誠信書房』を参考にしています。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。