佐呂間方面から国道333号線を通り、遠軽市街へ続く道路を過ぎて、丸瀬布・上川方面へ向かうとすぐに駅逓跡があった。
六号野上駅逓跡
沿革
明治二十五年に、中央道路と基線道路が完成され、北
見国より石狩国に通ずる内陸への交通が開かれるように
なって、網走から上川までの沿道は、うっそうとした樹
木に包まれる二二八キロの区間に、一二キロから一六キ
ロおきに駅逓舎を設けて交通の便が図られ、北見国には
越歳・端野・相の内・留辺蕊・佐呂間に続いて、この駅
逓が六番目に置かれていたから、別に「六号駅逓」とも
呼ばれた。
駅舎は木造平屋で、一一三平方メートル、ここには宿
泊施設もあって、官馬七頭が配置され、旅行者の求めに
応じて、次の駅(滝の下)まで乗せた。
荷物の運送は、主に駄馬送によったが、後に荷馬車を
使い、積雪期にはそりも利用され、また郵便路線は三段
階に分かれて、中央道路と基線道路は、三等路線区間に
なっていた。駄馬送は小包専送で、騎馬送及び人夫送は
小包・郵便の併送で、約六キロと決められていたが、こ
の駄馬送はこの駅逓にはなく、騎馬送と人夫送によった。
荷物の運送重量は、騎馬の場合三〇キロまで、人夫のと
きは一五キロまで背負うことになっていた。
その後この駅逓は、湧別鉄道が大正元年に留辺蕊まで
開通し、交通は木町を通り、湧別・紋別を経て名寄方面
に行く者が増えたので、大正二年六月、安国に移転され
廃止されている。
なお、この駅逓の取扱い人角谷政衛氏は、新潟県魚沼郡
神立村出身で、湧別から明治二十五年十一月、野上に移
住して来た。ここにおいて、本町に初めて和人の炊煙が
上がり、これが原野開発の糸口になった。
遠軽町史より
平成三年十一月一日建立
野上駅逓百年記念碑建設期成会
夕暮れが近づいていたが、ぜひとも行きたい場所があったので、さらに丸瀬布方面へ向かった。
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