函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

子どもの気持ちをどこまで受けとめるか

2009-09-18 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える
市立網走図書館で、芹沢俊介さんの『もういちど親子になりたい』を借りてきて読んでいた。

芹沢俊介さんの本は、ハコダテの家にあった『〈宮崎勤〉を探して』を読んで以来、ファンになり遅々とだが、深く読んでいる。
芹沢さんの書くものの核にある思想は、「子どもは受けとめられてこそ育つ」、「受けとめ手が不在の子育てでは、子どもはいつまでも滋養を得られない」ということ。

『もういちど親子になりたい』は、里親と里子が、絆を深めていく過程を通して、”受けとめ”の重要さを語っている。

里親家庭に来た里子たちは、数日は”いい子”でいるが、その期間を過ぎると、一転してやりたい放題をするようになる。よく「試し行動(リミット テイスティング)」と言われる行為だが、芹沢さんは”試し”ではなく、枯渇していた”受けとめ欲求”の表れなのではないかと語る。
その期間、受けとめ手には、「野生児のような」「やりたい放題」な行動を、叱らず見守り、ただひたすら受け入れることが求められる。


本を読みながら、もう7年も前になる、我が家に来た里子のことを振り返っていた。
慙愧の念とともに思い出すひとつの出来事がある。
姉妹で我が家に来た里子の妹1歳半だったミカカは、夜泣きがひどく、実親も苦しめたが、我が家に来ても夜暗くなると泣き始め、仕方なく私はおぶりヒモでミカカを私の胸に抱いて、ゆさぶって寝せていた。何時間もたって、やっと寝たと思って、ふとんに下ろそうとすると、またとたんに泣くので、結局おぶりヒモで私の胸に抱いたままソファに座って夜を明かした。そんな日が一週間も続いた。

ミカカは笑顔のかわいい子で里父の私になついていたが、私が料理をしている時にもいつも足元にくっついていた。こちらは包丁を使っていたり、鍋で湯を沸かしていたりしていたから、その都度「ミカカ、あぶないよ。」と抱いて、居間に連れて行った。
ある日いつものように台所で包丁を使っていたら、足元にミカカが来た。私は怒って、ミカカの腕を持ってどなりながら居間に連れて行った。
その日以来、ミカカは私に距離をとるようになり、反対に連れ合いにつくようになっていった。
「試し期間」、「受けとめ欲求の強い期間」、ただただ受けとめるという原則を私は破ってしまったのだった。ミカカは、里父の私にも受けとめを拒否され、「やっぱり大人なんか信じられるか。」と思ったに違いない。


『もういちど親子になりたい』には、様々な里親・里子家庭の様子が詳細に紹介されているが、いつもだっこをねだって離れない子や、いつも、里親さんのトイレの時さえ90センチ以内にいる子など、いろいろな形での強烈な受けとめ欲求を出している子どもたちが出てくる。
芹沢さんは、里親家庭にやってくる子どもたちは、それまで受けとめ手がまったくいなかったり、本来受けとめ手となるべき立場の人に虐待を受けていたため、受けとめ欲求が強く現われるのだろうと分析する。
しかし、芹沢さんは、里親家庭のことを紹介するために、この本を書いているのではないのだ。
里親・里子家庭は、たまたま「親子になる」という過程が必要だが、最初から、”血のつながった”親子は、その「親子になる」という過程が見えなくなっている、意識されないようになっている。けれど、”血のつながった”親子は、大丈夫ですか?と芹沢さんは言いたいのだ。


”子どもとともにいる職場”にいる私は、最近やっと、カッとして怒るということがなくなってきた。
けれど、それを教えてくれたのは、里子のミナナとミカカの寂しい目であることを、『もういちど親子になりたい』が、思い出させてくれた。


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