函館深信 はこだてしんしん-Communication from Hakodate

北海道の自然、そして子どもの育ちと虐待について

私の虐待 ー 私が義妹からもらったもの

2010-11-04 | ”自殺”・虐待・ヒトの育ちを考える
今日は、連れ合いの妹ayaちゃんの誕生日。
ブログで時々ふれているが、ayaちゃんとは25年前、私と連れ合いが結婚した時に、同居を始めた。
 妹は結婚前まで函館から3時間ほど離れたD市で連れ合いと一緒に住んでいた。

 それで、連れ合いが結婚し函館に移ってくるにあたって、連れ合いと共に函館にきて一緒に住むようになったのだ。函館に来たときは小学4年生だったかな。義妹は3歳くらいから独身の三千恵さんと一緒に住んでいたんだけれど、そのことが姉の自分も実父に受けた性虐待を防ぐという目的があったということはずっと知らずにいたから、私にすれば「なんでそんなにムリをして姉妹で同居するんだろうなあ」という認識しかなかった。しかしなさぬ仲の関係でも、「自分なら大丈夫、やっていける」という安易な浅はかな自信があっての同居の開始だった。

 最初こそ「よいおにいちゃん」であろうとしていたが、徐々に気持ちがすれ違い、嫌がらせをしたり、いじめたり、虐待といってよいほどの体罰を加えたこともあった。
 よく、体罰を「しつけのつもりだった」という虐待を加えていた親がいるが、それは言い訳でしかないように思う。とにかく、その相手、義妹の存在がおもしろくなかったり、存在自体に感情的になったりして体罰を加えるのだから、それは「しつけを考えて」というよりも、ただ「感情が赦さなかったから」ということなのだと思う。

 誰しも、最初からそんなふうに接しようとは思ってはいなかったはずなのに、善意で接していこうと思っていたはずなのに、徐々に相手の存在がうとましく思えたり、じゃまに感じたりするのだ。
 私は、そんなふうになっていく自分を見るのが嫌だった。
それで、(それは本当に自分勝手な屁理屈でしかないのだが)こんなふうに考えた。
「義妹がいないときは、私は”いい人”だった。それなのに、義妹の存在が私をオニに変えた。すべて義妹のせいなんだ。」と。

 本当は、自分で見ないようにしていた自分の本性が、義妹と一緒にいることで曝け出されたというだけなのに。
 義妹とは高校を卒業するまで一緒に生活していたが、とうとう最後まで心を許し合うことができなかった。



 自分が、自分の罪に気づいたのは、それから3年か4年ほどあとのことだった。
 
 自分が一番いじわるだったのは、一番卑怯だったのは、一緒に生活していたのに義妹を無視していたこと、そして愛を向けなかったこと。そのことに、あるとき気づき、義妹が当時勤めていたスナックに行き、謝罪した。
ayakoは、すぐ赦してくれた。そして「私だって、お兄ちゃんにさからったりいろんなことをしたんだから、仕方ないんだよ。そんなに自分を責めなくていいよ。」と涙をこぼしながら言ってくれた。

 ayakoはそれからしばらくして、高給取りの夜の仕事を辞めて、専門学校に入り直し、言語聴覚士となって今は働いている。

 私がayakoにしてしまったことは取り返しのつかないことだが、私はその中でたくさんのことを学ばせてもらった。
 ・子どもが育つときに何が一番大切か。
 ・自分の善意とかよい感情は、ときとしてあてにならない。
 ・子どもを観察して、話をすることの大切さ。

 今、私が子どもたちと一緒の職場で、笑顔で子どもたちと接することを心がけられていたり、子どもたちの心を何より大切にして子どもと接することができるのも、ayaちゃん、あなたのおかげです。
 ayaちゃんが高校生の時に生まれたまー☆さんに、よゆうをもって子育てできたのも、ayaちゃん、あなたのおかげです。
 その後迎えた里子たちにも、笑顔で接することができたのも、ayaちゃん、あなたのおかげです。

ayaちゃんは私に虐待をされてしまったけれど、ayaちゃんは虐待を連鎖させない、かしこい子育てをしている。

ayaちゃん、大切なものをたくさんありがとう。

ayaちゃん、大好きだよ。




【 内容を考えて、カテゴリーを『大好きな仲間』から、変更しました。テーマも補足しました。2020.10.25】


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