よろず淡日

淡海の日夏で 今どきよろずや
古道具と駄菓子、地域のものなど

「可能性の光」 その6

2013-10-26 | そこここ展(アトリエひこ)

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心ある道具や造形物には、そうした心が宿っていることを感じさせてくれます。アトリエひこと出会えたのも、そういった流れの中でだと思えます。

 アトリエひこは、戦後まもなく起こった福祉施設での造形活動の功労者の一人である西垣籌一(ちゅういち)氏の励ましを受け、始まりました。十八年続く活動の中で、その関わり方は柔軟に内省され、心休まる場となって存在していると思われます。そして私の彫刻の師、山本恪二(かくじ)も係わったところでした。大阪という厳しく雑多な街中で、慎ましく大切なことを育んでいきたいという心が感じられ、作品に正直にそれが現れているのを見ると、勇気づけられる。しかし障がいを背負いながら懸命に生きんとする命は、歴史の中ではどう扱われてきたのだろうか。隠され、打ち捨てられてきたのではないか。

 彼らの生み出す作品には、人間が目を瞑ってきた大切なものが存る。社会が分業化、専門化し、人間の感覚が断片的、間接的に鈍くなり、生きるということと全てが分離して充足感が無く、お金の仕組みに縛られて、行き詰まりを感じてきているなか、その本質はここに残されている。それは「アート」という狭い領域を既に飛び越えている。生きることそのものと、造形、その他全てがひとつの姿になっているように思える。不安と喜び、苦も楽もひとつとなって、ただ生き抜く原点がそこにある。親子、スタッフの育ち合いの広がりの見事さ、ケアする者、される者という関係を超えた生かし合いの豊かさがある。私自身、アトリエひことの関わりの中で、理屈ではなくこれからの暮らしぶりの指針、可能性の光を見せてもらえたように思う。これこそがお宝である。

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「可能性の光」 その5

2013-10-26 | そこここ展(アトリエひこ)

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 しかしその財産には、もうひとつの側面もある。“発展”に伴う人工的な非自然、“犠牲”が常にあったということ。縄文人、蝦夷、アイヌ、琉球、沖縄、東北、賎民、朝鮮、戦災、原爆、公害、田舎、自然、震災、原発、子ども、未来・・・。これらの多大なる犠牲の上に歴史を作り、祀っては手をあわせてきた。財産とその犠牲。今、これをひとつに。そこから学ぶことは、対立軸からは対立の悪循環しか生まれないという認識を強く持つことだと思います。大きなひとつの循環に即し、そのつながりこそを尊重する美意識を据え直す。見方、目線ひとつで、少しづつでも現実は変わっていくのではないでしょうか。成長、発展を豊かなこととして犠牲の山を築き、そしてまた復興成長経済。成長、発展という志向のまま、どこへ行こうというのか。そこに順応している者、ついて行けずに病んでいる者。対処療法、悪循環の拡大。病んでいるのは誰か。この分かたれた両側面の経験を積み尽くした者が、今こそ掲げ示せるものがあるのではないでしょうか。

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「可能性の光」 その4

2013-10-26 | そこここ展(アトリエひこ)

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 モノとは、人の存りかたそのものでした。モノノケ、など魂という意味もあるのでしょう。作品というモノもそのように大きく捉えていったほうがよいように思う。日本人は長きに渡りそれらの見方を育んできた。

 日本の風土が培ってきたものは、果たす役割をますます大きくしているように感じます。山川草木変化に富み、多様な自然に恵まれ、大陸からも大海からも、あらゆるものや考えが流れつく先としての場、内と外との折り合いをつけることで生きてきたと思う。狩猟採取と農耕、自然崇拝と仏教。人間の抱え込んだ大きな矛盾のそれぞれを根絶やしにするのではなく、生かし合う方向で折り合いをつける知恵を紡いできた。ふたつのものに通ずるひとつを見て取り、大きな循環に即し、そのつながり、八百万を尊ぶという感覚の蓄積は大切な財産であり、これからの可能性だと思えます。

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「可能性の光」 その3

2013-10-26 | そこここ展(アトリエひこ)

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 目の前の具体的なモノをどう見るか。更にどう見えて、感じるかということはとても大事です。ガラクタであろうが、一般人作であろうが、名品、名勝であろうが、荒れた姿であろうが、それらは自分の奥底を流れるものと深く通じあい、互いがつながっていることを教えてくれます。

 多様な姿の道具屋の主たち。師であり、恩人のようにも思える。モノの佇まい、その響きの力で理屈抜きに問うてくる主。自分の日々の出会いの中で出会ったモノや人に物語を見出し、愛おしむ主。また、私たちの至った流れを見、庶民の暮らしや祈りの心を拾い出そうとする主。厳しい選択眼で周囲から惜しまれながらも、農の道へと歩んだ主。一切のこだわりなしで、自分の心を救うものだけに正直に反応していく主。皆さん自分の道をぎりぎりのせめぎあいの中で貫かれ、誠実にまさしくお宝を見せてくれている。各々は対極にあるようで、でも私には強く通じているように、勝手に感じています。

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「可能性の光」 その2

2013-10-26 | そこここ展(アトリエひこ)

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 自分の心を深く揺さぶってくるものがある、人がいる。それは常に具体的です。幼少期、思春期、学生、社会人と、その時の自分に大きく響きあってきたものは、丁寧に見ていくと大きくつながり、自分の中から外へ、そして歴史へと大きな流れとなり、今の思いとして成り立っている。与えられたひと時の生は、そんな心の底を流れる大切なものの上に据え直されて全うしてこそ、存るべき生のかたちなんだろうと思えます。言葉にするのは危ないことでもあり、自分の力不足もはっきりしていますが、すでに答えはそこ、ここに存るもので、それを丁寧に見つめ、改めて問い、感じ直しを続けること。そんなふうに単純、素朴で、愉しくもある日常の存りようが、全うするということなんだろうと思えます。

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