以下内村鑑三のカーライル評から意訳しました。文責はすべて私、大山国男にあることをお断りしておきます。
・・・私はすでにカーライルを学ぶことで得られる利益を述べた。彼の性格は非常に愛すべき、尊敬すべきものであるとともに、一面非常に恐ろしく避けるべき点がある。つまり、彼から学んで得る利益は極めて多いのだが、またその弊害も多いことを忘れてはならない。
その多くは、彼の著書「英雄崇拝論」から来ている。すなわち、感情豊かで血の滾りやすい青年がこの書を読み進むと、その訴えがクライマックスに達するころには、無意識のうちに机を叩いて、その内容が画期的であり、意味深長なものであることに感嘆し、腕を組み、目を凝らして、心の底から世を憂える情動が内心からふつふつと湧き上がってくるのを抑えることができなくなるのである。そして未だその書を読み終えていないうちに、早くも彼の心は変わってしまい、その影響力は驚くほどに激しいのである。
これはとりもなおさず、これを書いた人物の偉大さを物語るものである。私はこれまで古今東西の偉人に親しく接したり、その著述を読んだり、またその業績を見たりして来たが、彼の著述のように、無意識のうちに著者の精神が読者を鼓舞し、何時の間にか己の霊性の一部となってしまうもの、すなわち読者をして、共に怒らせ、共に喜ばせ、共に泣かせ、また共に笑わせるまでに、すなわちあたかも自分の心が弄ばれているような感覚を覚えるほどに、はなはだしく感化をあたえるものは、私の知る限りでは、未だかつてカーライルの著書に勝るものは見たことがない。
ましてその思想が未熟で、未だ世の波風を味わったことのない、無邪気で天真爛漫な青年が、彼の書によって感化されやすいのは、きわめて当然の事のように思われる。その弊害とは、すなわち不平の気持ちに耐えられなくなることである。彼はこれを読み進むうちに、他人のなすところ凡て否定的になり、自分の気持ちと違い、自分の理想に合わないものは一片の価値もなく感ぜられるようになるのである。
たとえば、夕暮れ時になって出会う隣人の挙動にすべて不満を覚えたり、学校で見聞きするもの一つとして満足を覚えることができなかったり、世の政治的状態を観察しては、なにもかもが憤懣の種となり、巷に溢れる文学を読んでみてもすべて批判の対象となり、さらに教会に出入りしても、心に平安を得ることがなく、牧師や信徒に対して不平不満の念を抑えることができなくなるのである。
その結果、彼の気持ちは荒み、心は猛り、物事を観察しても、これをその明るい面から見ることができず、ただその暗黒面から見下して、憤り、批判するようになるのである。
多くの牧師や伝道者であろうとする人々が、カーライルを学ぶことを好まない所以は、その温かく誠実で大人しい本来の自分の性質を傷つけはすまいかと恐れるからである。
つまり、カーライルは現在に満足して太平を謳歌することができる人物ではなく、ただ彼の意に叶い、心に満足させることができるのは、過去と外国だけなのである。どんなにその人が尊敬すべき人物であろうと、如何にその事業が高貴なものであろうとも、いやしくも今日、今現在そうである場合には、彼は決してこれを喜ばない。たとえそれが破壊されても、それを惜しむというようなことがないかのように見える。
それだからロンドン市中に4百万の市民がいたが、親しく交わって心を交わらせた者はたったの2,3人しかいない。しかもその2,3の友人すら、ややもすれば疎んじて捨ててしまう傾向があったのである。
彼は実に近世に友を求めず、むしろこれを阻もうとした。ある人が彼の思想を評して、彼の目に映っている世界においては上帝はクロムウェルの時代まで存在していたが、それ以降はその姿を隠してしまったかのようだと述べている。彼からすれば、天下の英雄はクロムウェル時代に終わったとしているからである。
しかしながら彼の在世当時、英国社会は決して人物が乏しかったわけではない。スコットあり、ウォルゾウスルあり、バイロンあり、ミルあり、グラッドストーンあり、ヂスレリーあり、天下の名士が政府内外に、星のように多く散在していたのである。
それなのに、カーライルは多くの英雄がミルトンの時代には生存していたが、今はいないと述べている。すなわち眼前の素晴らしいものを見ても、彼はそれらを讃えることができなかったのである。
たとえば、名宰相ヂスレリーを呼ぶ場合にも彼をディジーと呼んで決してその本名で呼ぶことをしなかった。また、最近亡くなった有名な解剖学者で厚く彼を尊敬していたオーエンに対しても、少しばかり彼を褒め称えて、「まれにみる英才で、私の家を訪ねて来て、語り合うこと3,4時間にわたり、非常に愉快だった。」と言っているのみである。
このように、今現在の美しさを褒め称え、その才能を感じることができないのは、おそらくこれは彼の持って生まれた病と言っても言い過ぎではかろう。
西洋の諺に言う。「見なかったものは、高価である」と。
しかし、彼が当時の人物に対して激賞してやまない人がただ一人いた。ゲーテである。エマーソンはこれを訝って彼に問いただした。「あなたのように厳正な宗教観をもち、信念も非常に厚い父母がおり、しかもスコットランドの自然に囲まれて成長したのに、それでもなお、あのゲーテをことさらに褒め称える理由は何ですか」と。
その通りカーライルの普段の生活を知る者にとっては、彼がゲーテを特愛するのを聞けば、誰でも予想に反して驚くだろう。彼はあらゆる美辞麗句を並べて、ゲーテを褒め称え、あるいは夏の太陽のように、勇ましく昇って勇ましく沈んで行くと言い、ゲーテの一文に接して手の舞足の踏むところを知らないかのようである。
さながら天地の神より授けられたかのように喜び、彼に知られていることをして無上の名誉と感じ、ドイツに旅行した時にはウィッテンボルグ(Wittenberg)にルターの墓を弔うよりも、まずゲーテの書斎を訪ねたとのことである。
彼がゲーテを激賞するようになった動機は、それによって英国人を叱咤しようと願ったからであろう。かつて彼は中国の皇帝を称賛して農事を始めるにあたり自ら鍬を持って儀式を行い、また、労働の実を奉げたということを聞いて、キリスト教国であるイギリスでもこのような美しい慣習は行われなかったと言い、あるいは中国の科挙の制度をもって、それを文明的であるとし、ヨーロッパ諸国においてもそのような例を見ないと主張している。
しかし、事実を知る我らにとっては、その儀式にしろ、方法にしろ、決して感心するものではないのだが、彼が大いにこれを激賞したのは、つまりは「見たことのないものは高価である」との諺の類ではないだろうか。
彼は時には暖かい友情を壊してしまうこともあったが、それを惜しむというようなことはさらさらなかった。たとえば、親友エドワード・アービングについては、彼の死後有名な追悼文を作って、英文学中もっともよく追悼の気持ちを述べているものと評せられるけれども、彼らの生前の交友は疎ましかったきらいがあり、その責任はカーライルの側にあったと言わざるを得ない。
エマーソンとの交友が濃やかで一生変わらなかったのは、私が思うに大西洋を隔てていたからであろう。エマーソンが初めて彼の家を訪ねた時、二人とも意気投合して肝胆相照らし、見るところ昔からの友人のように心の底から談じ合ったにも拘らず、二度目の出会いにおいては、カーライルはあまり喜んではいなかったようで、二人が別れた後、「彼は思いのほか理解し難い人だ」と人には語ったそうである。
パルマルガゼットの紙上で、救世軍のブース氏と出会った時には、二人は互いに手を握り合って深い交わりを示したにも拘らず、それは初めの時だけで、次の出会いの時には、ぶつかり合い、口論となり、果ては互いに戦おうとして、その前後の変化を示す、一枚の絵を間において彼の欠点を指摘したものであった。
このように、カーライル自身、遠慮なくその偏りを現す時には、自分の最愛の妻といえども、その愛が深くあることはできなかったようである。別の言い方ですれば、カーライルの家庭が暖かくなかったのは、その妻の性質が温和でなかったことによるのであるが、たとえば、ある一例を挙げれば、夫妻が揃って旅行した折、カーライルがある喫茶店でコーヒーを飲んでいた。彼はそれが冷たいので不平を洩らしたところ、妻が熱く熱している炭を持って来てその茶碗に投げ入れ、これで暖まるでしょうと言ったことがあったとのことである。
果たしてこの妻の性質はカーライルを怒らせたであろうが、あるいはカーライルの気性が荒く、妻の偏った癖を醸成したのかも知れず、簡単に結論は出ない。とにかく彼の家庭は春の海が波穏やかでそよ風が吹き、和気あいあいとしたものではなかったようである。
しかしながら、彼はその妻が世を去って後、二年間は言うに言われぬほどの深刻な苦痛を覚え、ほとんど食べることもせず、妻の死を悲しみ、「一瞬でも良い、もう一度会いたいものだ。」と嘆いたという。
これを見れば、彼は決して冷酷な、愛を理解しない無情の人ではなく、その心の奥底には燃えるような熱情が潜んでいたけれども、不幸にも彼の多くの性格のために抑圧され、遂に円満にその暖かい気持ちを表すことができなかったのであろう。
このように不平不満の気性は彼の一生を貫いていた。それゆえに彼から学ぼうと思う者はその不平不満の気持ちを減じて読まなければならないのであるが、しかしながら私は彼を弁護してこう言わなければならない。彼は実に人生社会のあらゆる方面において、不平を持ち、慰めを持たなかったけれども、今日の凡庸な政治家や軽薄な文学者たちが抱くところの不平不満と同列に扱うべきではない。
彼は何ゆえに不平を持ったのだろうか。43年間の長い間世に入れられず、いたずらに自身の生活が不遇であったために、心は塞ぎ、気持ちは広がらず、世の中の偉人たちも彼を認めず、季節は空しく廻り 実力・手腕を発揮する機会に恵まれないのを嘆き、わずかに世を罵り、人を嘲ってその心の煩悶を紛らわそうとしたのに違いない。いや、もし彼にとってそのように、自ら不平の念を禁ぜざるを得なかった者でなかったならば、その雄大な思想と誠実な品性を養うことはできなかったであろう。彼は自分が世に用いられないために、不平不満を訴えるにはあまりに人物が大きかった。
彼の不平は人生を理解することができなかったことに原因がある。彼はバルンス伝において、バルンスが生計の道に窮して衣食住を支えることができなかったために、ついに首を垂れて諂いを貴族に呈したことを責め、人間の最も悲惨なのは死をおいてほかはない。それでもしその死を覚悟してこのことに従えば、何ら苦痛が彼を煩わすことはない。しかしながら彼はそのような醜態を現すことになったのは死を恐れたためだと論じている。
言葉は非常に立派だけれども、そのような人生観でよくその心を高き峯の上に置き、綽綽として余裕を持ち、従容として緊張することのないのは難しいことではない。ジョンソンは義務という一つの念願を重んじて、波風荒い人生の戦に勝利することができた。ヒュームは人生を遊びの舞台と見、罪悪を犯さない限りにおいては、窮屈な一生を送るよりは面白おかしく世を終わるのが人間の本望であると思った。
カーライルの場合、人生の解釈に満足できず、ただただ奮闘激戦してそれと戦って勝利しようと心に決め、まるで人生というものは自分の仇であって、その胸倉をつかんで争い「相手が自分を殺すか、そうでなければ自分が相手を殺そうと、善悪互いに真剣勝負をするもののように考え、自分はあくまでも正義に味方して義務を全うすることを願ったかのようである。
このため彼はその全生涯において限りなく苦痛が止むことなく、その立ち振る舞いはいつも堅苦しく、不平が絶えることなかったのはこのあたりから来たもので、和気あいあいとして幸福な一生を送ることができなかったのはそのためであろう。
しかし、まじめな人間がまじめな生涯を送るにあたり、たとえ、暗澹たる妖雲がその一生を覆ってしまったとしても、また天よりの光を赫々と仰ぎ見ないでいる者は少ない。彼はかつてその生まれた地、ニスの川辺においてエマーソンに書き送った手紙の中で言っている。「私の心の中は私の頭の上の天候のようだ。黒雲が覆って一転の光明がないような時に際して、また雲間を通して天からの光が差してくることがある。」彼はいつも英国の国民の生活をナイアガラの滝の上流に竿さす船にたとえ、遂には押し流されて滅亡してしまうと警告したが、一方ではまたイギリスは神の国であると言って自らを慰めている。
泥の土の下には固い岩がある。雲霧の上には太陽がある。不平の極みにはまた幸と希望がないというわけではない。彼は希望のない不平家ではない。光明を仰ぎ見ることのできない厭世家ではない。ヂーン・スタンレーは彼の死後ウェストミンスター寺院での説教において、このように指摘した。
彼が80歳を越えたころ、もはや友人と手紙の往復をすることもできずに、ただ退屈に無聊を感じていたころ、ある夕方一人寂しそうに窓のあたりに座って黄昏を眺め、塒に帰る鳥の声も悲しげだったのできっと物のあわれを感じたのであろう、鉛筆でその時の感慨を「神は愚かな私をも此処まで導いて来て下さったのだから、ここで私を捨て去ることはないであろう。またこれからも導いて下さるだろうと記している
彼が這般の光を仰ぎ見て、麗しい感慨を起こしたのはただ一度だけだったと考えてはいけない。彼のように正義に憧れ、労働を尊び貧しい人々の友となって、主義と共に立ち上がり、主義と共に倒れ、雄大な霊魂を持ち、たとえ一時は暗澹たるこの世界を悲観して憤り、不平不満やるかたない時があったにしても、その行くべき道を走り尽したならば、遂に天地を喜びとともに、仰ぎ見て光明を仰ぐに至ったことは、少しも疑うべきではない。まさに彼はこの光明を仰ぎ見ながら不平に満ちたこの世を去ったのだった。
最近私の手元に届いた外字新聞によれば、カーライルの末妹ジェン・カーライルの死を報じていた。彼女はスコットランドの農夫であるハンニングという人に嫁いで、その後夫妻でカナダに移住した人で、もとより教養無い農夫の妻であり、歳も80歳を越えていた。しかし、新聞はその老女の死を大々的に世界に伝えて、読者もまた注目してその知らせを読む理由を考えれば、未だカーライルの影響が世界に及んでいることを察するに十分である。
ある記者が生前の彼女を訪ねて、兄のトーマス・カーライルの日常を尋ねたところ、彼女まず答えて、世の中の人はカーライルの名の発音を間違えていると指摘し、スコットランドの方言によれば、カルルライルであって、rを3つ連ねて発音すべきであると言い、続いてフルウドのカーライル伝を批評し、これは彼の一面を著したに過ぎず、大いにその真相を誤っていると言い、この書によれば、チュム(カーライル)は厳正一辺倒の人に見えるけれども、内面的には愛情細やかな人で、あたかも婦人のような性格だった。敵に向ってはその勢い当たるべからずで、空恐ろしい人だったが、友人や家族の者に対しては至って優しい人だったと述べている。カーライルは常にその弟や妹のことを心配し、彼が逆境に在って非常に困難な時でも、弟ジョンの教育費を支出し、それからあのハンニングが貧乏で、彼が死んだときには一銭の貯金も無かったけれども、ジェンが生活に苦しむようなことがないように、安らかにその一生を全うせしめたのは実はカーライルの遺産を分配したからであった。
このように彼はダンテと同じように、義においては厳しく強かったけれども、情においては暖かく、かつ脆い人だった。詩人シルレルは言ったものだ。「勇敢な人は他に人がいないところでなければほんとうにその勇を現わすことができない。というのは他人に対しては往々にして情に負けてしまうことが多いからである」と。