生前、高橋信次氏には、ブッダが生きて居られた時の体験の様子が、いつも心に浮かんで来ていたので、ご自分を、仏陀の転生だと思って居られた時期もあって、仏陀についての著書もあります。ですが、それは霊界に戻ると、実は違うのだ、ということが分かったそうです。そこで、仏教についても語っておられます。
これは、高橋信次という方が、死後、霊界から送って来られたというメッセージの一部を、転載するものです(カッコ内には注含む)。
(ここから)
神理(真理)っていうのは、どんなやさしい言葉ででも、語ることが出来るものだということです。神理というのは、そんな、学者みたいに勉強しなけりゃ学べないことじゃないんです。そういうふうに、勉強に勉強して、学者みたいに学んだ結果、はじめて悟れるというような、ものの考え方が(却って)仏教の堕落(だらく)を招き、キリスト教の堕落を招いてきたのです。
キリスト教においてもそうですね。聖書の、どの部分に何か書いてあるのかというものを訓語学(くんごがく)のように、つっついて、つっついて、やっている。そして、牧師さんていう商売が成り立っているのです。
あるいは仏教においてもそうです。今、お経を読んで、一般で、分かる人はいないです。絶対、分からないでしょう。その上、専門の学者たちは、サンスクリット語をやったり、あるいは漢文を勉強したりして、解釈して一日を過ごしておるわけです。しかし、そんなところに、本当に仏教の真意があったかどうかということを、よーく考えねばいけない。
仏教というのは、今から二千六百年近く前、お釈迦様が、インドの地において、まわりの衆生(しゅじょう)たちに説法した記録なのです。そして当時は、現代のように、テープレコーダーがなかったために、そういう話を記憶しておって、後で結集してまとめた話なのです。いわゆる話し言葉であって、書き言葉ではなかったのです。仏法というのはね。
ですから、お経の本当の内容というのは、対話篇だったわけです。お経というのはそういうもので、本当は対話篇なのです。釈迦と、その弟子との対話篇だったわけです。
そして、釈迦の言葉というのは何かというと、生きていた人間釈迦、人間としての釈迦の頭脳で考えた言葉、だけが、すべてではないのです。お経の中の釈迦の言葉というのは、そうじゃないんです。現代、私たちが(霊界から)こういうふうに語っておるように、今から二千数百年前の、釈尊(しゃくそん)の言葉の中には、高級諸霊たちの言葉が、いっぱい混じっておるのです。
釈迦の言葉の中には、まあ、口幅(くちはば)ったいですけれども、(地上に転生して)生まれる前の高橋信次の言葉だって、お説経の中には入っております。法華経だの、何とか経だの、いっぱいありますけれども、その中の、釈尊の言葉の中には、あの世から指導していた、私の言葉もあります。あるいは、イエスの過去世の方の言葉も入っています。モーゼの言葉も入っています。そういうふうに、いろいろな方々の、聖霊の言葉が、釈尊に臨(のぞ)んで、語っておったのです。
地上の人たちには、これが、なかなか理解できないでしょう。ただ、こうしたことは、いわゆる霊媒現象とは違うのです。そうではないんです。本当の救済者が現れた時に、天上界の諸霊たちは、こぞって、そのメッセージを地上に伝えていくんです。
ま、イエス様でもそうです。イエスは、そのお弟子たちを教育して、各地に伝道のために派遣しました。その時に、弟子たちは「イエス様、私たちは、地方に行って、人びとに何を語ったらいいか、その言葉が分かりません。どういうように言って、説法すればいいのですか」、そういう質問をしました。
その時、イエスが言った言葉は、「汝ら、何を語るかということを悩むなかれ」と。「行く先々にて、汝らの語るべき言葉が、汝らのロよリ出ずるであろう」。そういうことを、イエスは言いました。
それは、どういうことかというと、まさしく説法しようという時には、そのイエスの弟子たちに、高級諸霊の言葉が臨んで、彼らが語ってくれる、ということなんです。ですから本当の救済者たちが出た時には、必ず、高級諸霊たちの言葉というものが、その中に入っておるということです。
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これは、高橋信次という方が、死後、霊界から送って来られたというメッセージの一部を、転載するものです(カッコ内には注含む)。
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神理(真理)っていうのは、どんなやさしい言葉ででも、語ることが出来るものだということです。神理というのは、そんな、学者みたいに勉強しなけりゃ学べないことじゃないんです。そういうふうに、勉強に勉強して、学者みたいに学んだ結果、はじめて悟れるというような、ものの考え方が(却って)仏教の堕落(だらく)を招き、キリスト教の堕落を招いてきたのです。
キリスト教においてもそうですね。聖書の、どの部分に何か書いてあるのかというものを訓語学(くんごがく)のように、つっついて、つっついて、やっている。そして、牧師さんていう商売が成り立っているのです。
あるいは仏教においてもそうです。今、お経を読んで、一般で、分かる人はいないです。絶対、分からないでしょう。その上、専門の学者たちは、サンスクリット語をやったり、あるいは漢文を勉強したりして、解釈して一日を過ごしておるわけです。しかし、そんなところに、本当に仏教の真意があったかどうかということを、よーく考えねばいけない。
仏教というのは、今から二千六百年近く前、お釈迦様が、インドの地において、まわりの衆生(しゅじょう)たちに説法した記録なのです。そして当時は、現代のように、テープレコーダーがなかったために、そういう話を記憶しておって、後で結集してまとめた話なのです。いわゆる話し言葉であって、書き言葉ではなかったのです。仏法というのはね。
ですから、お経の本当の内容というのは、対話篇だったわけです。お経というのはそういうもので、本当は対話篇なのです。釈迦と、その弟子との対話篇だったわけです。
そして、釈迦の言葉というのは何かというと、生きていた人間釈迦、人間としての釈迦の頭脳で考えた言葉、だけが、すべてではないのです。お経の中の釈迦の言葉というのは、そうじゃないんです。現代、私たちが(霊界から)こういうふうに語っておるように、今から二千数百年前の、釈尊(しゃくそん)の言葉の中には、高級諸霊たちの言葉が、いっぱい混じっておるのです。
釈迦の言葉の中には、まあ、口幅(くちはば)ったいですけれども、(地上に転生して)生まれる前の高橋信次の言葉だって、お説経の中には入っております。法華経だの、何とか経だの、いっぱいありますけれども、その中の、釈尊の言葉の中には、あの世から指導していた、私の言葉もあります。あるいは、イエスの過去世の方の言葉も入っています。モーゼの言葉も入っています。そういうふうに、いろいろな方々の、聖霊の言葉が、釈尊に臨(のぞ)んで、語っておったのです。
地上の人たちには、これが、なかなか理解できないでしょう。ただ、こうしたことは、いわゆる霊媒現象とは違うのです。そうではないんです。本当の救済者が現れた時に、天上界の諸霊たちは、こぞって、そのメッセージを地上に伝えていくんです。
ま、イエス様でもそうです。イエスは、そのお弟子たちを教育して、各地に伝道のために派遣しました。その時に、弟子たちは「イエス様、私たちは、地方に行って、人びとに何を語ったらいいか、その言葉が分かりません。どういうように言って、説法すればいいのですか」、そういう質問をしました。
その時、イエスが言った言葉は、「汝ら、何を語るかということを悩むなかれ」と。「行く先々にて、汝らの語るべき言葉が、汝らのロよリ出ずるであろう」。そういうことを、イエスは言いました。
それは、どういうことかというと、まさしく説法しようという時には、そのイエスの弟子たちに、高級諸霊の言葉が臨んで、彼らが語ってくれる、ということなんです。ですから本当の救済者たちが出た時には、必ず、高級諸霊たちの言葉というものが、その中に入っておるということです。
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