これは、霊界九次元の指導者、高橋信次氏の、霊界から送って来られたというメッセージを転載させて頂くものです(一部編集しました。カッコ内には、注を含みます)。
(ここから)
私は、自分のことを、自己紹介も兼ねて、少々話をさせていただくとすれば、昭和のはじめに長野県に生まれて、それから、戦前、戦中、戦後という時代を経てきました。戦後の混乱期を経験し、独力で、電気関係の事業というものを起こしました。まあ、コンピューター機器関係ですけれども。そうしたものを起こして、コンピューター技師としても、仕事をしておりました。また、事業家、実業家として、何十年かの人生を生きてきました。
そうした中において、十歳の頃から、さまざまな霊的な現象というものに見舞われました。十歳の頃から、何度も死ということに見舞われました。私の両親は、毎晩、私が死んでしまうというような現象に見舞われて、大変心配していました。毎晩八時頃になると、私の呼吸が止まってしまって、意識が急速に薄れていく。そして、もう一人の自分というのか、自分の肉体から抜け出して、この地上を見渡しているという経験を、何度もしました。
もう一人の自分が、寝ている高橋信次から抜け出すと、私の父や母が大変心配して、お前、どうしたんだと言って揺り動かしている姿、あるいは医者を呼びにやっている姿、ほっぺたをつねっている姿とか、いろいろなものが見えました。そういうふうに、肉体と魂の分離ということを、私は十歳の頃から経験しました。そうして、さまざまな神秘体験を経ていきました。しかし、まだ私は悟れませんでした。
二十代の頃には、よく予言が的中しました。いろいろな予言をしました。そういうこともありましたし、さまざまな霊的現象も、身のまわりに起きてきました。しかし、まだ私は悟れませんでした。そして、事業家として、だんだん事業欲を出して、いろいろなことをやってきました。
やがて浅草に八起(やおき)ビルを建てて、これからいろいろな事業をやろうと思っていた矢先に。高級霊からの厳しいメッセージを受けました。特に、ワン・ツー・スリーと名乗るモーゼの霊に、非常に厳しく叱りつけられて、「高橋信次よ、お前の使命は、そんなところにあるんじゃない。お前は、電気屋や風呂屋になるために生まれたんじゃないぞ。お前の使命っていうのは、一大革命、一大宗教改革であり、救世のための、露払いの役が、お前の役割であるぞ。お前は、それを果たさずして電気屋で(霊界に)還って来たんでは、お前は打ち首だ。イエス様は、生きていた時に地上で打ち首になったけれども、打ち首じゃなくて十字架にかかったけれども、高橋信次は、あの世に来てから十字架にかけてやる。覚悟しろ」と、こういう言葉が私に臨みました。私はびっくりしました。これは大変だと。
今までは、会社さえ大きくすればいいと思っていたのが、それでは済まないと言われました。「お前は、人間の心を究明して、世の人びとを救いなさい」と。こういうことを言われました。そして四十一、二歳から、だったでしょうかね、四十八歳で亡くなるまでの七年間、足掛け八年ぐらいになりましょうか。その間、私の伝道というのが始まったわけです。そして、さまざまな著書を出し、講演をし、個人相談をし、神理の種というのを播いていったわけです。
ただ、私には時間がなかったということと、焦ったということのために、十分な法(真理)というものを説けなかったという点が、残念に思われます。完全なものではないのです。やはり、こうした霊的なものというのは、周到な準備をし、準備期間を置いてから伝道を開始すべきであって、霊の囁(ささや)くことを、そのまま受け取っているのでは、まだ十分ではないのです。
(本来ならば必要な)三年、四年の準備、それをせずして、私は伝道を開始したために、初期の混乱がたくさんありました。
例えば、私自身は、ゴーダマ・ブッダ、釈迦牟尼仏ではありませんでしたけれども、私は、初期において、ゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏であるかのように、自分で思っていた時があります。
なぜ、そう思ったかというと、自分自身、不思議でありましたけれども、過去世の釈迦の姿というのが目に見えたわけですね。二千数百年前のお釈迦様が、インドにおいて修行されて、悟られて、伝道された様子が、ありありと見えたわけです。つまり、霊視し、見ることができたわけです。そうして、当時の模様とか、当時の弟子たちと話した言葉というのが、手に取るように分かったわけです。
こういうことがあったために、自分自身、釈迦だと思っていた時期がありました。しかし、そうではなかったのですね。これは、天上界の指導霊たちの力によって、釈迦の過去世というのを見せられとったわけです。つまり私は、『人間・釈迦』という本を書きましたけれども、そういう本を書くために、釈迦の過去世を見せられておったわけです。
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私は、自分のことを、自己紹介も兼ねて、少々話をさせていただくとすれば、昭和のはじめに長野県に生まれて、それから、戦前、戦中、戦後という時代を経てきました。戦後の混乱期を経験し、独力で、電気関係の事業というものを起こしました。まあ、コンピューター機器関係ですけれども。そうしたものを起こして、コンピューター技師としても、仕事をしておりました。また、事業家、実業家として、何十年かの人生を生きてきました。
そうした中において、十歳の頃から、さまざまな霊的な現象というものに見舞われました。十歳の頃から、何度も死ということに見舞われました。私の両親は、毎晩、私が死んでしまうというような現象に見舞われて、大変心配していました。毎晩八時頃になると、私の呼吸が止まってしまって、意識が急速に薄れていく。そして、もう一人の自分というのか、自分の肉体から抜け出して、この地上を見渡しているという経験を、何度もしました。
もう一人の自分が、寝ている高橋信次から抜け出すと、私の父や母が大変心配して、お前、どうしたんだと言って揺り動かしている姿、あるいは医者を呼びにやっている姿、ほっぺたをつねっている姿とか、いろいろなものが見えました。そういうふうに、肉体と魂の分離ということを、私は十歳の頃から経験しました。そうして、さまざまな神秘体験を経ていきました。しかし、まだ私は悟れませんでした。
二十代の頃には、よく予言が的中しました。いろいろな予言をしました。そういうこともありましたし、さまざまな霊的現象も、身のまわりに起きてきました。しかし、まだ私は悟れませんでした。そして、事業家として、だんだん事業欲を出して、いろいろなことをやってきました。
やがて浅草に八起(やおき)ビルを建てて、これからいろいろな事業をやろうと思っていた矢先に。高級霊からの厳しいメッセージを受けました。特に、ワン・ツー・スリーと名乗るモーゼの霊に、非常に厳しく叱りつけられて、「高橋信次よ、お前の使命は、そんなところにあるんじゃない。お前は、電気屋や風呂屋になるために生まれたんじゃないぞ。お前の使命っていうのは、一大革命、一大宗教改革であり、救世のための、露払いの役が、お前の役割であるぞ。お前は、それを果たさずして電気屋で(霊界に)還って来たんでは、お前は打ち首だ。イエス様は、生きていた時に地上で打ち首になったけれども、打ち首じゃなくて十字架にかかったけれども、高橋信次は、あの世に来てから十字架にかけてやる。覚悟しろ」と、こういう言葉が私に臨みました。私はびっくりしました。これは大変だと。
今までは、会社さえ大きくすればいいと思っていたのが、それでは済まないと言われました。「お前は、人間の心を究明して、世の人びとを救いなさい」と。こういうことを言われました。そして四十一、二歳から、だったでしょうかね、四十八歳で亡くなるまでの七年間、足掛け八年ぐらいになりましょうか。その間、私の伝道というのが始まったわけです。そして、さまざまな著書を出し、講演をし、個人相談をし、神理の種というのを播いていったわけです。
ただ、私には時間がなかったということと、焦ったということのために、十分な法(真理)というものを説けなかったという点が、残念に思われます。完全なものではないのです。やはり、こうした霊的なものというのは、周到な準備をし、準備期間を置いてから伝道を開始すべきであって、霊の囁(ささや)くことを、そのまま受け取っているのでは、まだ十分ではないのです。
(本来ならば必要な)三年、四年の準備、それをせずして、私は伝道を開始したために、初期の混乱がたくさんありました。
例えば、私自身は、ゴーダマ・ブッダ、釈迦牟尼仏ではありませんでしたけれども、私は、初期において、ゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏であるかのように、自分で思っていた時があります。
なぜ、そう思ったかというと、自分自身、不思議でありましたけれども、過去世の釈迦の姿というのが目に見えたわけですね。二千数百年前のお釈迦様が、インドにおいて修行されて、悟られて、伝道された様子が、ありありと見えたわけです。つまり、霊視し、見ることができたわけです。そうして、当時の模様とか、当時の弟子たちと話した言葉というのが、手に取るように分かったわけです。
こういうことがあったために、自分自身、釈迦だと思っていた時期がありました。しかし、そうではなかったのですね。これは、天上界の指導霊たちの力によって、釈迦の過去世というのを見せられとったわけです。つまり私は、『人間・釈迦』という本を書きましたけれども、そういう本を書くために、釈迦の過去世を見せられておったわけです。
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