霊界からの、天照大御神のメッセージを、続けて掲載させて頂いております。ここでは、アマテラス様は、男性と女性の違いについて語っておられます。そして、まあ、男性に対する母の様な気持ち、これがあったからこそ、男性同士が競い立つ、荒ぶる古代日本の世の中が、アマテラス様の下に、長く平穏に治まったのではないでしょうか(カッコ内は補注)。
(ここから)
さて、(ここからは)「女性」というものについて、語ってみたいと思います。
秩序の中における女性の在り方、とは、何であるのか。家庭の中における女性の在り方とは何か。社会の中における女性の在り方とは何なのか。これについて、話をしてみたいと思います。
ただ、私は、女性一般に関して話をする前に、女性にも、ある程度、使命に差がある、という事は、言わざるを得ないと思います。大多数一般の女性と、特殊な女性、この二種類がある事は、やはり否(いな)めないと思います。それは、そうしたほうが世の中のためになる、という観点から、神が考えておられるからです。
大多数の女性は、やはり、結婚をし、主婦となり、子供を育てていくのが一番よいのです。そのあり方が、女性として生きて行くのに一番、相応(ふさわ)しいと思います。その理由は、男女は肉体的にも同じ条件になっていない、という事が挙げられます。
男性は、やはり筋肉的であり男性的であって、そうして、もともと活動的に出来ていますが、女性は、肉体的にも、やはり男性から見れば弱々しい。それ以外にも、女性の場合には、感情的にも繊細である。月に一度は、肉体的に生理という事もある。また、子供を産むために十月十日(とつきとうか)かかる。そして、授乳という事があり、幼児を育てる、それから、子供の成長まで面倒をみる、という、そうした仕事があります。
この、生まれつきの性質というものを見た時に、男女には、やはり、何らかの役割の違いがある、という事は事実です。これは、事実は事実として受けとめなければならない、と私は思います。しかし、この、事実は事実としても、単に主婦として生きて行くだけではなく、職業婦人として生きている方がいる事も事実だし、そうした方が、大いなる誇りをもって生きている、という事も、真実であろうと思います。
こうした職業婦人のあり方に就いても、私は、幾つかの観点から考えてみたいと思います。まず、職業の中には、当然、女性を欲する職業もある、ということは事実です。これは、必ずしも男性でなくても、女性でなければ出来ないような仕事、これがあります。看護婦の仕事であるとか、それ以外にも、ファッション系統、医療系統、食料品系統、こうした職業の中に、女性としての繊細さ、特質が生かされる面があることは事実です。これを、一概に否定は出来ないと思います。
ただ、そうした道に進む女性の多くが、家庭との両立に悩み、結局、独身で一生を送ることが多い事は、残念な事の様にも思えます。
この問題を解決するためには、社会がもう少し成熟し、時間的なゆとりが出て来る必要があるのではないかと思います。いわゆる勤務時間に対する見直し、女性でも働ける様な職場の創出という事が、どうしても大事である様に思います。
結婚、育児に関して、女性は男性より遥かに大きな負担があるのは事実です。それを、機械的に、男女一律に扱う事は、必ずしも正しいあり方ではない、と、私は考えます。やはり、女性には、女性の特質に合った仕事もあるし、男性と同じ様な仕事をする場合には、それなりの配慮が必要ではないのか。この様に思います。
それは、大抵の場合、女性は、男性よりも肉体的にも劣り、体力的に弱く、また知力の面においても、大抵の場合は、男性より一般的に劣るという事は言えると思います。そこに、社会の一つの摂理が働いている、ということは事実です。
やはり、神は、大抵の女性には、そうした、仕えるという事の美徳、尽くすという事の美徳、優しさという事の美徳、これを教えているのです。自分一人の手柄ではなく、共同して、ひとつの手柄を作っていく事の大切さを教えています。本来的には、その様に、女性は、やはり、補助者として創られているという面を、見逃せないと思います。
ただ、一定の割合で、女性にも、指導者としてのあり方が許されている者もおります。これは、私もそうですし、それ以外にも、そうした指導者の役割を担(にな)われている方もあります。それは、社会にとって、女性的なる者、優美なる者、優しき者が必要な場合です。そうした時に、女性的なる者の台頭という事が、大事になって来るのです。
ただ、現代女性に対して、私が警告を発しておきたいことは、女性は男性化してはならない、ということです。これだけは言っておきたい。男性化してはならない。男性と同じようになろうとしてはならない。女性には女性の長所があり、特質がある。それを、どこまでも伸ばしていく必要がある。男女は同じだと考えず、男女は異質なものだと考えていくことこそが、本来のあり方だという事を忘れてはならない。男女は同じだという考えは、これは本来の予定を無視した考えです。
男女があるということは、別の役割を神が期待されている、ということなのです。異質なものを異質なものとして敬(うやま)う。異質なものとして取り扱う。異質なものとして、別の観点から、お互いに尊敬し合う。これが大事ではないかと思います。
男女は、決して同じものだと思ってはならない。同じものだと思った時に、自縄自縛(じじょうじばく)が始まり、ひとつの苦しみが始まるのです。男女は、決して同じものではありません。それを、つくづくと考えて頂きたい。このように私は思います。
(一方、男性について見てみると)日本の男性は、他国の男性と、多少なりとも違っている面があります。それは、(日本の男性が、)本質的に、和を求める、調和を求める、という所にあると思います。
日本という国においては、我(が)というものを伸ばす、という事は、必ずしも歓迎された現象ではありませんでした。日本では、「私が、私が」という、主語がある言い方は、非常に嫌われたのです。「私は」という主語がない時に、そこに、天地と一体となった自分、神仏と一体となった自分がある。この様に思われていたのです。
この「自我」というものについて、私は、男性に、幾つかの話をしておきたいと思います。
男性の男性たるゆえんは、支配欲、征服欲、自己拡張欲にある、というふうに言われがちです。人より優れたいという気持、人を従えたいという気持の中には、極めて男性的なるものがあります。けれども、人を従えんとする心の中には、常に、一つの危険性が備わっています。それは、他を、いつも押し下げ踏み台にしていかなければ、満足感と安心感を味わえない、という観点です。男性というものが、永遠に、他との競争の中において勝者であり続けねばならんとしたら、心は、いつも安まらず、心は、いつも苦しさの中にあるであろうと思います。
もちろん、男性の中には、競争原理の中における勝者である事が望まれることも、よくあります。女性は、特に、強い男性を好みます。より優れた男性を好みます。優れた男性を、どうにかして選ぼうとしています。それは、優れたる人を選び、その人の補助者となって、大いなるユートピアを築かんとするからです。この点において、男性は、確かに、常に勝者である事を望まれているかに見えます。
ただ、男性社会は、こうした、しのぎを削る社会である事が通常でありますが、私は、ここに、一つの、ゆとりというものが大事である事を感じるのです。それは、他の人間との競争の中だけに生きてはならない。大いなる神と相対峙(あいたいじ)し、対面する、という見地を、忘れてはならない。そういう境地も忘れてはならない、ということです。
神は、ある時には、女性的なるものとして立ち現われることもあります。競争社会の中で、刀折れ、矢尽きた男性に対して、温かい母の様な心で包む、そうした役割も、また、神の役割として、あります。
私は、世の男性達を、心から慰めて上げたいと思います。あなた方は、いつの時代も、歯を喰いしばって生きて来ました。原始の時代には、弓を持ち、槍を持って獲物を追いかけることもあったし、侍の時代には、刀を持って戦うという、荒々しい生きがいを見出していたでしょう。そして、現代においては、出世の競争や、商売の競争、仕事の競争の中で、様々に傷つき、揉まれているのではないかと思います。男性には、そうした、厳しい人生の戦場の中を生き抜かねばならない、という、険しさがあります。苦しさがあります。困難さがあります。
そうした男性に対して、私は呼びかけてみたいのです。どうか、人生に疲れた時に、天照の名を呼びなさい。心静かに、正座して、私の名を呼びなさい。私は、いつも、あなた方の傍らにあって、大いなる母の気持で、あなた方を守って上げよう。あなた方を慰めて上げよう。戦場の中にあって心安まらないならば、我が名を呼べ。我がために祈れ。我の名を呼び、我に悩みを打ち明けよ。心静かに。我は、必ず、そなた達を慰めよう。あなた達を、優しく見守って上げよう。あなた達に、再び立ち上がるための気力を与えよう。こうした事のために、私は、数千年を生き抜いて来たのです。
どうか、世の男性よ、そうした時には、我が名を呼びなさい。さすれば、必ず、あなた方の疲れを癒して上げよう。
また、これ以外でも大切な事は、男というものは、男性というものは、心が、常に外に向いている、ということです。社会に向き、世間に向いています。そのため、心の中を空っ風が吹き抜けていくことが、まま、ある様に思います。心の中に干からびた思いがあり、心の中に、空しさがある事が、多い様に思います。
そうであるからこそ、あなた方は、努めて、神の世界に入って来る必要があります。努めて神を信じ、努めて神の教えを行じ、努めて神の膝(ひざ)の上で眠る様にしなければなりません。常に神と共にある事。日々を神と共に生きる事。それが、とりも直さず、あなた方にとっての、本当の幸福に繋がって來るのです。
本当の幸福とは、収入でもなければ、地位でもありません。そうしたものは、この世限りのものです。やはり、神の膝に抱かれて静かに眠ること。神の膝に抱かれて優しい寝顔を見せられること。それが最大の幸福です。自らが、いつも神に愛されているかどうか、という事を、常々、心に問うて欲しいと思うのです。そうして、大きな心でもって、神に愛されていると思うなら、まっしぐらに、自らの道を究(きわ)めて行くことだと思います。
神の心に適(かな)っているかどうか。こうした観点は、何度も何度も繰り返して、検討しなければならない点だと思います。
もし、自らの生き方が、もし、自らのあり方が、神の心に適っていないと思うならば、心を正し、威儀(いぎ)を正して、神に詫びることです。そうして、不調和な言動をした相手がいれば、その相手と、いち早く和解をすることです。和解をすることが何よりも大事です。間違ったと思ったら、許しを請(こ)うことです。それが、何にも増して大事な考え方ではないかと思います。
(ここから)
さて、(ここからは)「女性」というものについて、語ってみたいと思います。
秩序の中における女性の在り方、とは、何であるのか。家庭の中における女性の在り方とは何か。社会の中における女性の在り方とは何なのか。これについて、話をしてみたいと思います。
ただ、私は、女性一般に関して話をする前に、女性にも、ある程度、使命に差がある、という事は、言わざるを得ないと思います。大多数一般の女性と、特殊な女性、この二種類がある事は、やはり否(いな)めないと思います。それは、そうしたほうが世の中のためになる、という観点から、神が考えておられるからです。
大多数の女性は、やはり、結婚をし、主婦となり、子供を育てていくのが一番よいのです。そのあり方が、女性として生きて行くのに一番、相応(ふさわ)しいと思います。その理由は、男女は肉体的にも同じ条件になっていない、という事が挙げられます。
男性は、やはり筋肉的であり男性的であって、そうして、もともと活動的に出来ていますが、女性は、肉体的にも、やはり男性から見れば弱々しい。それ以外にも、女性の場合には、感情的にも繊細である。月に一度は、肉体的に生理という事もある。また、子供を産むために十月十日(とつきとうか)かかる。そして、授乳という事があり、幼児を育てる、それから、子供の成長まで面倒をみる、という、そうした仕事があります。
この、生まれつきの性質というものを見た時に、男女には、やはり、何らかの役割の違いがある、という事は事実です。これは、事実は事実として受けとめなければならない、と私は思います。しかし、この、事実は事実としても、単に主婦として生きて行くだけではなく、職業婦人として生きている方がいる事も事実だし、そうした方が、大いなる誇りをもって生きている、という事も、真実であろうと思います。
こうした職業婦人のあり方に就いても、私は、幾つかの観点から考えてみたいと思います。まず、職業の中には、当然、女性を欲する職業もある、ということは事実です。これは、必ずしも男性でなくても、女性でなければ出来ないような仕事、これがあります。看護婦の仕事であるとか、それ以外にも、ファッション系統、医療系統、食料品系統、こうした職業の中に、女性としての繊細さ、特質が生かされる面があることは事実です。これを、一概に否定は出来ないと思います。
ただ、そうした道に進む女性の多くが、家庭との両立に悩み、結局、独身で一生を送ることが多い事は、残念な事の様にも思えます。
この問題を解決するためには、社会がもう少し成熟し、時間的なゆとりが出て来る必要があるのではないかと思います。いわゆる勤務時間に対する見直し、女性でも働ける様な職場の創出という事が、どうしても大事である様に思います。
結婚、育児に関して、女性は男性より遥かに大きな負担があるのは事実です。それを、機械的に、男女一律に扱う事は、必ずしも正しいあり方ではない、と、私は考えます。やはり、女性には、女性の特質に合った仕事もあるし、男性と同じ様な仕事をする場合には、それなりの配慮が必要ではないのか。この様に思います。
それは、大抵の場合、女性は、男性よりも肉体的にも劣り、体力的に弱く、また知力の面においても、大抵の場合は、男性より一般的に劣るという事は言えると思います。そこに、社会の一つの摂理が働いている、ということは事実です。
やはり、神は、大抵の女性には、そうした、仕えるという事の美徳、尽くすという事の美徳、優しさという事の美徳、これを教えているのです。自分一人の手柄ではなく、共同して、ひとつの手柄を作っていく事の大切さを教えています。本来的には、その様に、女性は、やはり、補助者として創られているという面を、見逃せないと思います。
ただ、一定の割合で、女性にも、指導者としてのあり方が許されている者もおります。これは、私もそうですし、それ以外にも、そうした指導者の役割を担(にな)われている方もあります。それは、社会にとって、女性的なる者、優美なる者、優しき者が必要な場合です。そうした時に、女性的なる者の台頭という事が、大事になって来るのです。
ただ、現代女性に対して、私が警告を発しておきたいことは、女性は男性化してはならない、ということです。これだけは言っておきたい。男性化してはならない。男性と同じようになろうとしてはならない。女性には女性の長所があり、特質がある。それを、どこまでも伸ばしていく必要がある。男女は同じだと考えず、男女は異質なものだと考えていくことこそが、本来のあり方だという事を忘れてはならない。男女は同じだという考えは、これは本来の予定を無視した考えです。
男女があるということは、別の役割を神が期待されている、ということなのです。異質なものを異質なものとして敬(うやま)う。異質なものとして取り扱う。異質なものとして、別の観点から、お互いに尊敬し合う。これが大事ではないかと思います。
男女は、決して同じものだと思ってはならない。同じものだと思った時に、自縄自縛(じじょうじばく)が始まり、ひとつの苦しみが始まるのです。男女は、決して同じものではありません。それを、つくづくと考えて頂きたい。このように私は思います。
(一方、男性について見てみると)日本の男性は、他国の男性と、多少なりとも違っている面があります。それは、(日本の男性が、)本質的に、和を求める、調和を求める、という所にあると思います。
日本という国においては、我(が)というものを伸ばす、という事は、必ずしも歓迎された現象ではありませんでした。日本では、「私が、私が」という、主語がある言い方は、非常に嫌われたのです。「私は」という主語がない時に、そこに、天地と一体となった自分、神仏と一体となった自分がある。この様に思われていたのです。
この「自我」というものについて、私は、男性に、幾つかの話をしておきたいと思います。
男性の男性たるゆえんは、支配欲、征服欲、自己拡張欲にある、というふうに言われがちです。人より優れたいという気持、人を従えたいという気持の中には、極めて男性的なるものがあります。けれども、人を従えんとする心の中には、常に、一つの危険性が備わっています。それは、他を、いつも押し下げ踏み台にしていかなければ、満足感と安心感を味わえない、という観点です。男性というものが、永遠に、他との競争の中において勝者であり続けねばならんとしたら、心は、いつも安まらず、心は、いつも苦しさの中にあるであろうと思います。
もちろん、男性の中には、競争原理の中における勝者である事が望まれることも、よくあります。女性は、特に、強い男性を好みます。より優れた男性を好みます。優れた男性を、どうにかして選ぼうとしています。それは、優れたる人を選び、その人の補助者となって、大いなるユートピアを築かんとするからです。この点において、男性は、確かに、常に勝者である事を望まれているかに見えます。
ただ、男性社会は、こうした、しのぎを削る社会である事が通常でありますが、私は、ここに、一つの、ゆとりというものが大事である事を感じるのです。それは、他の人間との競争の中だけに生きてはならない。大いなる神と相対峙(あいたいじ)し、対面する、という見地を、忘れてはならない。そういう境地も忘れてはならない、ということです。
神は、ある時には、女性的なるものとして立ち現われることもあります。競争社会の中で、刀折れ、矢尽きた男性に対して、温かい母の様な心で包む、そうした役割も、また、神の役割として、あります。
私は、世の男性達を、心から慰めて上げたいと思います。あなた方は、いつの時代も、歯を喰いしばって生きて来ました。原始の時代には、弓を持ち、槍を持って獲物を追いかけることもあったし、侍の時代には、刀を持って戦うという、荒々しい生きがいを見出していたでしょう。そして、現代においては、出世の競争や、商売の競争、仕事の競争の中で、様々に傷つき、揉まれているのではないかと思います。男性には、そうした、厳しい人生の戦場の中を生き抜かねばならない、という、険しさがあります。苦しさがあります。困難さがあります。
そうした男性に対して、私は呼びかけてみたいのです。どうか、人生に疲れた時に、天照の名を呼びなさい。心静かに、正座して、私の名を呼びなさい。私は、いつも、あなた方の傍らにあって、大いなる母の気持で、あなた方を守って上げよう。あなた方を慰めて上げよう。戦場の中にあって心安まらないならば、我が名を呼べ。我がために祈れ。我の名を呼び、我に悩みを打ち明けよ。心静かに。我は、必ず、そなた達を慰めよう。あなた達を、優しく見守って上げよう。あなた達に、再び立ち上がるための気力を与えよう。こうした事のために、私は、数千年を生き抜いて来たのです。
どうか、世の男性よ、そうした時には、我が名を呼びなさい。さすれば、必ず、あなた方の疲れを癒して上げよう。
また、これ以外でも大切な事は、男というものは、男性というものは、心が、常に外に向いている、ということです。社会に向き、世間に向いています。そのため、心の中を空っ風が吹き抜けていくことが、まま、ある様に思います。心の中に干からびた思いがあり、心の中に、空しさがある事が、多い様に思います。
そうであるからこそ、あなた方は、努めて、神の世界に入って来る必要があります。努めて神を信じ、努めて神の教えを行じ、努めて神の膝(ひざ)の上で眠る様にしなければなりません。常に神と共にある事。日々を神と共に生きる事。それが、とりも直さず、あなた方にとっての、本当の幸福に繋がって來るのです。
本当の幸福とは、収入でもなければ、地位でもありません。そうしたものは、この世限りのものです。やはり、神の膝に抱かれて静かに眠ること。神の膝に抱かれて優しい寝顔を見せられること。それが最大の幸福です。自らが、いつも神に愛されているかどうか、という事を、常々、心に問うて欲しいと思うのです。そうして、大きな心でもって、神に愛されていると思うなら、まっしぐらに、自らの道を究(きわ)めて行くことだと思います。
神の心に適(かな)っているかどうか。こうした観点は、何度も何度も繰り返して、検討しなければならない点だと思います。
もし、自らの生き方が、もし、自らのあり方が、神の心に適っていないと思うならば、心を正し、威儀(いぎ)を正して、神に詫びることです。そうして、不調和な言動をした相手がいれば、その相手と、いち早く和解をすることです。和解をすることが何よりも大事です。間違ったと思ったら、許しを請(こ)うことです。それが、何にも増して大事な考え方ではないかと思います。
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