小桜姫のメッセージ、最初の所、けっこう厳しい事が語られていましたが、あれは、指導的な立場におられる方に向けたものですので、一般の私たちは、まあ、そう出来ればいいかもね、ぐらいに思っておけばいいと、私などは思います。さて、小桜姫のメッセージ、続きます。
(ここから)
(こうして、)あなた(チャネラー)の頭の中の言葉を使わせて頂きながらも、私自身の考えは、何百年も前の、古色蒼然(こしょくそうぜん)たるものですので、我ながら呆れてしまいます。
でも、どうか、分かって頂きたいのです。今回、私が、こうして通信を送る理由は、ただ単に、小桜が、でしゃばりだから、だけではないのです。
昨年(当時)、(地上の)〇〇社さんから「小桜姫物語」というのを、出(版)させて頂いておりますが、その編著者であられた浅野和三郎さんが「〇〇さんに通信を送って、『小桜姫物語』の続編を出しなさい。あのままでは、霊界通信としては、とても未熟、未完であって、後世の人々に申し訳がない。小桜よ、ご苦労だが、もう一度、現界に舞い戻って、通信を送り、せめて『神霊界入門』程度の書物を遺(のこ)しておいて欲しい。」と、こうおっしゃったのです。
私は、浅学非才の小桜では、どうも任に耐えません、と、ご辞退申し上げたのですが、浅野さんがおっしやるには、自分が遺した仕事と、〇〇、〇〇両氏のお仕事との間には、あまりにも飛躍があるので、この飛躍を埋める、中継ぎになる何かを、出しておきたい、とのことなのです。
浅野さんも、お二方の活動の、日本での先駆者として、お生まれになられた方ですから、そのお言葉も、もっともであり、私の様な者の霊界通信も、日蓮聖人や天照大神の様な、偉大な方々の霊言との、隙間(すきま)を埋めるものとして、何らかのお役に立てはしまいか、と考えたのです。
そういう意味で、この小桜も、今後、神霊界での、浅野和三郎さんのご指導を仰ぎながら、通信をお届け致しますので、次第次第に、内容も向上して行くものと思われます。
浅野さんが、(霊界の)どの辺りにおられるか、疑問をお持ちの様ですが、浅野さんは、近年、こちらの世界でも、神界から菩薩界へとお上がりになられた所で、霊格も、大変ご立派になられているので、そのご経験を、この小桜を通じて、お伝えしたい、とのことです。浅野さんのお弟子様方も、まだ存命なので、自らの通信となると、ご自分のお弟子様が、〇〇さんや〇〇さんをご批判なされるのを、大変、心配しておられるので、この小桜が、媒介役を買って出た、という事なのです。
さて、私が、これからお話しようとする内容は、「魂の進歩に資するものは何か」という内容についてです。
神様が、人間に転生輪廻を許しておられる理由は、異なった環境下、異なった時代に生まれて、様々な人生経験を踏まえて、人間の魂を、一層、向上させようとしておられる点にあります。
けれども、肉体を持った人間は、この神様のご慈悲を忘れて、自分の人生はこの世限り、だと思い込んで、出来るだけ贅沢三昧、快楽三昧で生きたい、と願っております。
結局のところ、人間が利己主義で、自分の利益しか考えず、他の人の為に尽くさない理由は、人生はこの世限り、だと思っているからなのです。でも、本当は、そうではありません。人生は一回きりではありません。人生が一回きりで、それだけで人間というものが、魂というものが、雲散霧消してしまうものであるならば、私達は何の為に苦労し、何の為に努力して来たのでしょうか。人生は一回きりのものではありません。そして、個人の魂は、死後も、その個性を保っているのです。そうでなくて、個人の魂が、群魂の様なものに、吞み込まれてしまうなら、何の為に、個々人が、苦労して人生経験を得るのか、そのわけが分からなくなってしまいます。
動物とか植物とかの魂は、群魂に帰属してしまう事もあります。彼らは、人間の様な、知性的、理性的な、魂の経験というものがないので、よく似通った魂同士で、経験を共有する事もあるのです。
ですから、私達は、人間の魂として、神様が創って下さったこと自体を、喜ばなくてはなりません。私達は、個性ある、人間の魂として生まれた、からこそ、その個人個人の努力や経験や知識が、全て、自分のものになるのです。その意味で、人間として生まれたこと自体が幸福である、ということです。
ともすれば、私達は、他人と引き比べて、自分に足りない面ばかりを考えて、劣等感を持ち、或いは、不遇感や不幸感を持ちますが、人間として生まれたこと自体が、奇跡とも呼びうる幸福である事に感謝せねばなりません。そうではありませんか。善い事をすれば、全て自分の心の宝物となる。悪い事をしても、それも、全て自分の責任となる。こんな明快な原理が、あるからこそ、人間は、永遠の転生輪廻に、生きがい、やりがいを見出す事が出来るのではないでしょうか。
神様が、なぜ、様々な動物や植物や、人間の魂を、お創りになったのか、その根本の理由は、小桜には、分かりかねます。けれども、恐らく、これだけは確かでしょう。神様は、宇宙を進化・発展させる事を是(よ)し、と思われ、その中に、創造の美を見出しておられる、という事です。
人間の役割というものは、定かではありませんが、神様の、宇宙創造の芸術の一端を担っている事だけは確かで、だから、私達も、しっかりと、やらねばならない、のだと思います。
さて、今回は、少々難しい題を選んでみました。「魂の進歩に資するものは何か」なんて、小桜には、あまりにも、大上段過ぎる様に思われるのですが、浅野さんの言われるには、この程度の内容の通信は、最低限度、送らなければ駄目だ、との事なので、非力ながら頑張ってみます。
私は、既に、人間は、神様の宇宙創造の芸術の構成員だと述べました。ですから、魂の進化とは、神様が是(よ)しと思われている方向に、私達が努力して行く事だと思うのです。
私は、次のような場合に、人間の魂は進化すると思うのです。
〈反省〉
第一番目は、自分の現在の心境が、いかに神様から離れているか、を実感した時です。
私達は、毎日が順調にいっていると、ともすれば、自分自身を、振り返る機会がなくなってしまいます。宗教や道徳は、「反省」を大切にしていますが、これは、神様と自分との距離を考えてみる、という事なのです。向上の為には、反省がなければなりません。自分が、いかに迷っており、いかに低迷しているか、が、分からなければ、また向上への道を辿ることも出来ません。自らを省み、自らの足らざる所を補おうとした時、初めて、人間は、魂の進歩という第一歩を、精神史に記すのではないでしょうか。月並みではありますが、魂が進歩する時は、みずからの心境を反省した時だと言えると思います。
〈感謝〉
魂が進化する、第二番目の時は、感謝という事を、実感した時だと思います。よほど立派な方で、多くの人々から尊敬を受けている様な人でさえ、この感謝という事が、なかなか出来ないものです。優れた宗教家でありながら、道を踏み誤る人々の大部分は、この感謝が足りないのだ、と思うのです。人間が自分一人で出来る事は、限られた事なのです。それは、とてもとても、限られた事なのです。ですから、あなた方、一人一人を助けて下さる、他の人々の好意や、暖かいまなざしを、常々、投げかけている、天上界の高級霊や、あなたを生かしめる、神様の力、に対して、感謝する気持ちを持たねばなりません。
たくさんの地獄霊・悪霊達がおりますが、、彼らの大部分の特徴は、自分の利益ばかり考えて、他人に対する愛がない、言葉を換えると、他の人々や、偉大なもの、に対する、感謝の念がない、という事です。感謝の気持を持って日々生きている人は、地獄には、一人も居ないのです。ですから、心の底から、感謝の気持ちが湧いて来た時、ああ、今、自分の魂は進歩しているのだ、と思って頂きたいのです。感謝は感謝を生み、喜びは喜びを生むものです。
〈謙虚な気持〉
魂が進歩する、第三の時は、謙虚な気持ち、になった時です。自分が、不平不満で一杯の時、自分が、劣等感で一杯の時、他人に対する、反発や、反抗心で一杯の時、他人の悪口、陰口を、言いたくて仕方のない時、人間は、決して謙虚な気持ちにはなれないものです。謙虚になれる時というのは、かなり、心に余裕が出来た時であり、自分の中の、良い面が、悪い面に勝っている時なのです。
では、謙虚さは、なぜ美徳なのでしょうか。それは、謙虚さ自体が、非常に霊的なもの、だからです。三次元的な、ものの考え方とは、結局、他人より優れたい、他を凌駕(りょうが)したい、他を見下したい、という思いなのです。自分の国が、この世しかない、と思うからこそ、「オラガ天下」に、したくなるのです。ですから、広大無辺な、神の世界に気付いたならば、自分が築いた地位や名誉や権力というものが、いかに無力で、いかに空しい、のかが、はっきりと分かるのです。
そうです、偉大な神様の前には、人間は、謙虚でなければ居られないのです。大霊界の存在、に気付いた人間は、身を低くして、頭(こうべ)を垂れるしか、なくなるのです。また、この神霊世界には、数知れず、偉大な方々がいらっしゃるのです。例えば、この世で、会社の社長だとか総理大臣とか、いう人が、天照大神の前で、威張れるでしょうか。天之御中主之神の御前で、何を自慢出来るでしょうか。霊的に目覚めれば、目覚めるほど、偉大なる神霊の力に気付けば、気付くほど、人間は、謙虚にならざるを得ないのです。自分が、謙虚になったな、と思った時、人間は、自分の魂が、大いに進歩している事実に気付くのです。
〈優しさ〉
次に、魂が進歩する第四の場合、について、述べたいと思います。それは、ひと言でいえば「優しさ」です。他人に対する、優しさ、思いやりです。優しさは、神の国と、この世の国に架けられた黄金の橋です。人間として生きる以上、神様の子供として生きる以上、一日に一回は、他人に対する優しさ、を、持ちたいものです。
この優しさは、神様のお気持ち、そのものなのです。あなた方人間は、日常生活で、様々な、嫌な人に会うことでしょう。憎らしい、と思う人にも会うでしょう。金輪際(こんりんざい)、顔を見たくない、と思う人にも会うでしょう。けれども、一度、立ち止まって考えてみて頂きたいのです。完全無欠な、神様の眼から見たら、人間は、いかに低劣で不完全であるかを。そんな、低劣で、不完全で、宇宙のゴミにしか過ぎない人間をも、神様は、限りなく優しいまなざしで、見て下さっている、の、ではないでしょうか。限りない思いやりの中に、人間を育んで下さっている、の、ではないでしょうか。
そうであるなら、お互いに不完全である人間同士が、お互いの欠点を責めあったり、嫌ったりするのは、やめようではありませんか。神様に見ならって、限りなく優しい眼で、他の人々を見守ろうではありませんか。
その優しさ、こそが、神様のお心そのものであり、つまりは、私たちの魂が、神様に向かって進歩している時、ではないでしょうか。
〈向上心〉
私は、魂の向上進歩する五番目の時、として、向上心、を、挙げたいと思います。人生には、様々の出来事、様々の試練や災難があります。時折、あまりの試練に耐えかねて、波間に揺れる小舟の様に、人間は、自らの自信を、なくす時が来ます。けれども、その時こそ、神様が、本当に、救いの手を差し伸べている時なのです。神様は、もう、救いの手を差し伸べておられるのです。ただ、あなた方人間が、手を伸ばして、(その)神様の救いの手を、握り締めるかどうか、なのです。この様に、人間の側からも、手を伸ばす事が大切です。
この手、こそが、向上心です。親は、我が子の成長を喜びます。神様も同じです。我が子の成長を、限りなく、喜んでおられるのです。この成長の原動力、こそが、向上心ではないでしょうか。向上心のある人間は、いつかは、山の頂上を窮(きわ)めるのです。その歩みは、遅々としたものでも、よいのです。一日一日を、神様の方へ向いて、着実に歩んで行くことです。
人生は、ある意味において、激流の川を小舟で漕(こ)ぎ上る、のにも、似ているでしょう。けれども、神様は、その激流を漕ぎ切った時、大きな手を開いて、あなた方人間を抱きしめようと待っておられるのです。いかに流れが急であり激しかろうとも、舟を漕ぐのを、やめてはいけません。それが、向上心、という事ではないでしょうか。それが、人間の側の、努力、というものではないでしょうか。
〈忍耐〉
私は、魂の向上する六番目の時、として、耐え忍ぶ、という事を、挙げたいと思います。この世の指導者の中には、よく、とにかくやれ、とにかく行動せよ、と言われる方があります。勇ましく、自分の途(みち)を切り拓く事は、とても大切な事です。けれども、私は、ここに、忍耐の美徳、を、挙げておきたい、と思うのです。
神様は、とても忍耐強い方です。あなたも、そう思われませんか。人間は、何千年、何万年も転生輪廻して来ても、一向に、神様の方へ歩んで来ようとせず、知識人の顔をして、堂々と無神論を説いている人も、たくさんいます。こんな、ばかげた無神論者でさえ、優しく育んでおられ、その成長を待っておられる神様は、とても辛抱強い方であり、耐え忍ぶ事に慣れておられる方の様です。
ですから、あなた方人間も、自分に対して、短気を起こさず、また、他人に対しても、短気を起こさず、どうか、忍耐強くあって欲しい、と思うのです。耐える事を知った魂、というものは、いぶし銀の様な光を放つものです。じっと耐えている人の姿は、岩間に咲いた、つつじの生命力を見た時の様な感動を、人々に呼び起こします。どの様な環境にあっても、どの様な逆境にあっても、挫(くじ)けず、美しい花を一輪咲かせ、その花を守り育てて行こうではありませんか。そうした、辛抱強さの中にこそ、神の子としての、じっくりと、よく練れた成長が、あるのではないでしょうか。
成功のみを追い求め、耐えることを忘れた人間は、脆弱(ぜいじゃく)です。私達は、魂の足腰を鍛えましょう。どの様な夏の暑さにも、どの様な冬の厳しさにも耐えて行ける様な、逞しい魂、というものを、築いて行こうではありませんか。
〈祈り〉
最後に、第七番目として、魂の進歩する時、それは、祈りの時、であると、私は言っておきたいと思います。人間は、ともすれば、平凡な日常生活に埋もれて行ってしまいます。ですから、その精神生活の、どこかで、超俗的な場面を、持つ必要があります。それが、祈りの時である、と、私は思います。祈りとは、神様との、一対一での対話です。人間は、神様と一対一で対話する時、初めて、澄んだ心に、なれるのです。
祈りについては、誤解されている面が、随分とあるように思われます。人々は、健康だとか、合格だとか、結婚だとか、を、祈っている様です。それも、確かに、悪い事ではありませんが、神様に、アメ玉をおねだりしている子供の様で、いまひとつの成長、が、望まれるところです。祈り、というのは、神様との対話です。普通の人々が、宇宙創造の神様と対話するのは、とても無理ですが、しかし、祈りは、その人の霊的波長に応じた、高級神霊に、必ず届くものなのです。ですから、答えのあるなしに関わらず、祈りは、必ず、誰か、には聴かれている、と思って下さい。
後は、その祈りの正当さ、妥当さが、高級霊によって判断され、また、その祈りを聴き届けることによって、その人に、いかなる運命の修正がなされるのか、が、守護・指導霊達の間で検討されるのです。人間は、自分一人だけで生きて行くわけではありません。その人に関係する、様々の守護・指導霊達が、見守っているのです。ですから、祈りというのは、守護・指導霊の、日頃の厚意に、感謝すると共に、自らを正す機会でもあるのです。守護・指導霊も、祈りの時を待っています。
残念なのは、地獄にいる人達です。彼らの内の、大半は、祈りという事を、全く忘却してしまっているのです。彼らに、祈りという事が、分かっていたなら、もっと早く、救いの機会が訪れたであろうと、とても残念に思われます。祈りとは、また、帰依(きえ)の姿、でもあるからです。偉大なる神霊への、帰依でもあるからです。出来れば、一日に一度は、反省も兼ねて、祈りというものを、実行して頂きたいと思います。この時こそ、人間は、偉大なる、他力の光明によって、大いに、魂が進歩しているのです。
以上、一番目から七番目まで、「魂の進歩に資するものは何か」という事を、お伝えしました。
さて、今度は、「霊界における地獄霊の救済」というテーマで、ご報告を致したいと思います。難しい事を書くことを苦手とする小桜にとっての、唯一の強みは、こちらの世界に来てからの、体験、だと思います。これだけは、他の誰にも、お譲りする事が出来ない、私だけの宝物です。でも、この宝物を、皆様にお見せしたからといって、少しも値打ちが減るものではありません。ですから、今回も、小桜の体験を、中心に、語ろうと思います。体験だけでは、間延びした文章になりかねませんので、時折、小桜らしい教訓を付け加える非礼を、お許し下さい。
ここで皆様にお話しする事は、ここ百年位の間に、小桜が、何度か、指導霊に連れられて、地獄の世界に行った時の話です。地獄の世界が、どんなものなのかは、地上におられる皆様も、昔話には聞いておられましょうが、本当の所はどんなものか、と、随分、興味をお待ちでしょう。或いは、もう、人生の大半を生きて来て、年齢的にも、信仰深くなって来ている人は、もしかして、自分は、地獄に堕(お)ちるんじゃないか知らん、と、ソワソワと、し始めた頃かも知れません。
ここで述べるのは、飽くまで、小桜の見聞した地獄であって、地獄も広大無辺の様ですから、何千年かかっても、分かってしまう事は出来ない様です。
ではお待ちかね、第一の地獄に、ご案内致します。
2.無頼漢(ぶらいかん)地獄
ここは、地獄でも、まだ浅い地獄です。空は、薄墨色で、日没後か、夜明け前の様な感じです。周りの景色は、薄らぼんやりは、していますが、かなり、はっきりしています。近くには川が流れています。ちょっと悪臭のある川で、あまり、いい気侍ちはしません。それもそのはず、浅瀬には、人間の死体が何体も沈んでおり、中には、片手だけ虚空に伸ばしている死体もあります。
しかし、近付いてみると、この、死体だと思っていたものが、実は、まだ水の中で蠢いている事が分かりました。彼らは、まだ、生きているのです。
そうこう、しているうちに、川の上流の方から、ワーッという声が上がりました。見ると、二十人位の人々が、二人の男女を追いかけて、こちらに来ます。どうやら、橋のたもとの所で、二人とも捕まったようです。荒縄で橋のたもとに縛りつけられてしまった様です。男も女も、二人とも、すり切れて、泥まみれになった着物を、一枚着たきりです。男の額の傷からは、血がしたたり落ちています。
と、その時、雷音の様な声が、轟きました。追手の中で一番大きな男です。身長は、ゆうに三メートルはあります。また、その腕の太い事、小桜の太腿を二本合わせた位あります。かがり火に照らし出された、男の、その顔は、話に聞く赤鬼そっくりです。ないのは角(つの)ぐらいで、口からは、確かに、キバと思しきものが生えております。
この大男の号令で、川岸で、五人の男どもが刀を研ぎ始めました。大きな青竜刀の様な刀です。川でジャブジャブ刀を洗いながら、砥石(といし)で刀を研ぐのです。シャリン、シャリンという、とても嫌な金属音が、冷え冷えとした空気を通して伝わって来ます。
その可哀想な男女は、赤鬼の奴隷の様にして、こき使われていたのですが、とうとう、二人で逃げ出してしまい、追っかけて来た彼らに捕まってしまったのです。
それから、二人が、青竜刀で切り刻まれて、川の中に死体の如く投げ込まれたシーンは、ご想像に任せるとしましょう。
小桜の、指導霊のお爺様が言うには、可哀想なカップルは、江戸時代の頃、村の掟に背いて駆け落ちし、結局は情死してしまった男女だそうです。彼ら自身は、実際は、村人に追われて殺されたわけではありませんが、追いかけられて、村人に殺されるのではないか、という、恐怖心で一杯だったのです。その恐怖心が、死後の世界でも続いており、こうして、また、人殺しの好きな連中に、捕まっているのです。
どうやら、この世界は、肉体的な恐怖心の支配している、無頼漢地獄の様です。この地獄では、いつ、自分の生命が奪われるか、という事が分からない恐怖の世界なのです。今様に言うなら、サドとマゾの世界、とでも言いましょうか。ここで、小桜が、指導霊から教えられた事は、人間を不幸にする最大の敵は、恐怖心、だという事でした。恐怖心の大部分は、本当はありもしない恐怖に怯えているのです。自分は死ぬんじゃないか、迫害されるんじゃないか、という恐怖心ほど、バカバカしいものはありません。なぜなら、人間は、生き通しの生命であり、本当の実相(霊的エネルギー)の世界は、互いに愛し合う、大調和の世界だからです。
ここで殺された若い男女は、自分達の生命が、永遠に不滅だ、という事を悟るまで、何回でも、鬼達に殺されることになります。その意味で、鬼たちは、彼らの教師なのです。また一方、鬼達は、怒りに燃えて人を殺すことの空しさに気付くまで、何回でも、同じ人を殺すことになります。この意味で、殺される男女の側も、鬼どもにとっては教師役なわけです。
この無頼漢地獄で、小桜は、つくづく思いました。人間は、恐怖心を取り除かないと幸福になれないのではないかと。そして、恐怖心を抱いて、その人が不幸になるのは、決して、他人のせいではない、という事を。恐怖心というものも、ある意味では、他人は皆んな自分を害そうと思っている、とする、利己主義者の心なのです。
人間は、互いに愛しあい、信じあってこそ、神の子なのです。他人が、自分をいつも害している、と思っている様な人は、大抵、自分も他人を害しているものです。他人から傷つけられた、と思っている人も、それ以上に、他人を傷つけているかも知れません。
この地獄でも、人間は神の子で、生き通しの生命、だと気付くまで、彼等は、二、三百年は、殺し合いを続けます。その後は、殺し合いに飽きて、ある者は、悟って、天上界に、ある者は、さらに残忍さを帯びて、一層深い地獄へと堕ちて行きます。この無頼漢地獄では、四百年も五百年も暮らす人は稀で、大抵は、この様に、二、三百年で、他の境涯へと移って行くのです。
ですから、この世界にいる地獄霊を救うには、この、二、三百年目位に来る節目を、逃さない様にしなければなりません。彼らが、殺戮(さつりく)に飽き飽きし疑問を感じ始めた時に、光の天使達が、彼らの説得に駆けつけるのです。この世界でも、神様は、自力救済というものを、ある程度、重視しておられる様で、本人の心が、神に向き始めた時に、初めて、天使達が彼らを救う、という様な仕組みにしている様です。
3.土中(どちゅう)地獄
では、引き続き、第二番目の地獄に、ご案内致しましょう。この地獄は、まだ、あまり、文献その他には出ていませんが、「土中地獄」と呼ばれます。その名の通り、土の中の、真暗闇の中に閉じ込められたまま、息も絶え絶えで、窒息しかかった人が、大勢苦しんでいます。よく見ると、彼らは、モグラと同じで、一人一人が自分の穴を持っており、目の前の、僅か一メートル位の空間の中で、息をしたり、手で土を掘ったりしていますが、穴が狭いため、向きを変えることも出来ず、足も膝を突いたままです。
小桜が驚いた事は、この土中地獄には、現代のサラリーマンが多い事です。ネクタイ姿で、白いワイシャツを着て、穴ぐらの中で這いつくばい、何やら、悶え苦しんでいるのです。どうやら、この地獄は、現代の息づまる様な管理社会が生み出した地獄の様です。ここに居る人の特徴は、要するに、対人恐怖、いやな上役や部下から逃れたい、という気持ちで一杯の人が多いという事です。
一人っきりで、真っ暗の中で蹲っている姿は、まさに現代サラリーマンの姿、そのものでした。彼ら、一人一人は、お互いの姿を見る事は出来ないのですが、小桜の眼には、彼らが、土中の穴で住んでいる姿は、どこかの都市のワン・ルーム・マンションを、そのまま地下に埋め込んだ、かに見えます。
この地獄は、ここ数十年の内に出来た、新しい地獄なので、まだ、どうやって、この地獄に居る人々を救い出したらよいのか、その方法論が、光の天使達の間でも、盛んに議論されております。彼らの内の大部分は、誰とも口を利きたくない、といった態度なので、まったく困ってしまいます。
ここに居るサラリーマンは、職場では、面従腹背のイエスマン、家庭は、残業や度重なる出張、単身赴任などで、まるで、氷の様で、妻や子とも、ロも利かない状態、そういった長年の生活に疲れ果て、モグラの様に、誰も居ない真暗の所で、じっとしていたい、と望んでいるのです。読者の中には、この描写を読まれて、自分も、もしかしたら、同じ地獄に堕ちるのでは、と思っている方も、いらっしゃるでしょう。
私達が、心から望むのは、人間として生きていた時に、なぜ、心を打ち明ける友人を持つ様に、努力しなかったのか。その身体は、管理社会に束縛されているとしても、なぜ、心は、自由に空を飛ぶヒバリの様に、精神世界を飛び回ることが出来なかったのか、という事です。
彼らは、自分の心が、本来、自由自在であり、光に満ちた神の子である事に気付くまで、この土中地獄から出ることはないでしょう。彼らが、独りで悩んでいる事の、バカバカしさ、に気付くまで、私達は、手の下し様がないのです。だって、彼らは、一人っきりにして欲しいと、心から願っているのですから。どうか、これ以上、孤独な人が増えない事を祈るばかりです。
4.擂鉢(すりばち)地獄
第三番目の地獄に、ご案内いたします。この地獄も、恐怖満点といいますか、意地悪な言い方をすれば、スリル満点です。
見ると、阿蘇山の火口の様な、大きな、すりばち状の穴があります。直径は、かなり大きく、ゆうに百メートルはあります。すりばちの底は、熱湯が煮えたぎっており、ときおり、硫黄(いおう)臭い煙が、中央から立ち昇って来ます。見方によっては、溶岩がフツフツと湧いている様にも見えます。何千人もの人が、まるで蟻の様に群れをなして、この巨大なすりばちから逃げ出そうとして、崖(がけ)をよじ登っているのですが、我れ先に、と思っている人ばかりで、自分の上をよじ登っている人の足首を握っては、引き摺(ず)り下ろしています。永遠に、それを繰り返していますから、いつまでたっても、一人も、この擂鉢地獄から、抜け出すことが出来ないのです。岩肌を、石と共に、ゴロゴロと、次々と転落して行きます。
この哀れな人達は、どうやら、生きていた時に、慈悲も愛もなく、他人を蹴(け)落として来た、エゴイストの集まりの様です。けれども、蟻の様に、必死になって、油汗をかいて、よじ登っている人、一人ひとりを見るならば、大会社の重役風の人や、学者風のインテリ顔をした人が、結構いるのに驚きます。
受験戦争や、出世競争で、他人を、情け容赦なく蹴落として来た人達が、そのツケを、ここで払っているのです。崖の傾斜そのものは、それほど急でもなく、皆で助け合えば、次々と、このすりばちからは、逃れることが出来るのに、その「助け合う」という事が、何十年、何百年たっても、分からない人達が多いのです。小桜から見れば、たった、それだけの事、どうして分からないのか、と思うのですが、彼らは、自分が助かる事で、頭が一杯なので、小桜の言葉になど、耳を傾けてくれません。「この忙しい時に、そんな下らないたわ言を言わないでくれ。」と言って、撥(は)ねつけられてしまうのです。
他の地獄霊の方々も、同じですが、結局、本人の自覚が進むまで、どうしようもないのです。小桜達も、呆然(ぼうぜん)として、この亡者達の群れを、眺めるだけでした。人間として生きていた時に、どの様な人生観を持つか、という事が、いかに大切か、しみじみと思われたことでした。
5.畜生地獄
さて、次は、第四番目の地獄です。これは、昔からお馴染みの地獄で、畜生道とか動物界と、言われています。ここにいる人達は、顔だけは人間で、身体は、馬であったり、牛であったり、鳥であったり、ヘビであったり、豚であったりと、様々です。それぞれ、自分の心性に合った、獣の姿をしています。中には、空を飛ぶ蝙蝠(こうもり)の様になって、洞穴に、逆さにぶら下がっている人も、います。人間として生まれて、死んで、これでは、全く可哀想です。
小桜は、この地獄に来て、恐ろしいより、むしろ、気の毒で、涙なしでは見ていられませんでした。ああ、人間として生きて来て、六十年か七十年、生きて来て、その、とどのつまり死んでから、獣の様な姿をとって生き続ける位なら、いっそひと思いに、生命など消失してしまえばよいのに、と思いました。
人間に、永遠の生命がある、というのは、立派な人生を生きている人にとっては、本当に掛け替えのない、素晴らしい事であるし、他方、地獄で、のたうち回っている人にとっては、まさしく、永遠の責め苦でしかありません。人間は、本当の意味での利己主義者に、ならねばならない、と、小桜は、つくづくと思いました。本当の意味での利己主義者、とは、永遠の生命を、幸せに生きようとする人間です。
昔の、中国の諺(ことわざ)に、「朝三暮四」というのがあった、と、小桜は、聞いた事がある様に思います。これは、昔、中国の偉い人が、栃(とち)の実を、猿に与えるのに、朝に三つ、日暮れに四つ、与えようとしたら、大いに怒ったので、朝に四つ、暮れに三つ与える、と言ったら、猿が大喜びをした、という故事から出た言葉、だそうですが、人間も猿も同じですね。目先の、数十年の、肉体人生だけが快楽だったら、後の生命の事なんか、考えていないんですから。
さて、この、畜生地獄に来ている人は、人間としての尊厳を忘れて生きて来た人達です。肉体即我、という自覚のままに生き、本能と欲望の赴くままに生きて来た人達の行く末です。猜疑心(さいぎしん)の強い人は、ヘビの様な、欲望を抑え切れない人間は、犬の様な、人を騙(だま)し続けて来た人は、キツネの様な姿になって、畜生地獄を造っているのです。
そして、もっとも注目すべき所は、彼らの大部分は、何百年も、この地獄に居るうちに、自分を、その動物そのもの、だと思い込んでしまう点です。
これが、実は、動物霊の憑依、と言われている事実の、真相なのです。自分をヘビだと思い込んでいる地獄霊、自分をキツネだと思い込んでいる地獄霊が、生きている人間に憑依しては、人間を苦しめているのです。ですから、霊能者が、現象を行なうと、ヘビの様に身をくねらせたり、キツネの真似をする霊が、人間の言葉でしゃべったりするのは、殆んど、畜生地獄に堕ちた人間霊だからです。本当の動物霊も、確かに存在はしますが、人間の言葉をしゃべるのは、よほど古い霊に限られ、霊障といっても、軽度なものが多い様です。彼らは、こうして憑依をする事によって、増々、人間の道を大きく外れて行き、明るい天上界に還って来ることが、難しくなって来るのです。
6.焦熱地獄
さて、では、第五番目の地獄、焦熱地獄にご案内致しましょう。読んで字の如く、この地獄では、大変な高熱で人々の肉体(と思われているもの)が焼け爛れています。水を求めて、ゆらゆらと陽炎の立ち昇る砂漠を、腰に布一枚を巻いただけで、やせて骨だけになった男女が、彷徨(さまよ)っています。
この地獄を特色付けているものは、「渇望(かつぼう)」という言葉です。(自分以外の)人々に布施することを忘れて、貪欲に貪り、求める事ばかり考えて人生を送って来た人々の、末路なのです。物欲が強く、常に、不足と不満ばかりを心に思って生きて来た人々です。そうした人々の心が、熱風の吹き付ける灼熱の砂漠、という心的風景を作り出しているのです。
実在界(霊界)という世界は、己の心に嘘のつけない世界です。即ち、その人の容貌も、その人を取り巻く環境も、その人の心の真実の姿を、正確に反映してしまうのです。心の中で、邪悪な事を考えつつ、正直者の群れに居る事は出来ないのです。地上の世界では、羊の群れの中に狼が忍び込む事は、よくある事ですが、実在界においては、心清き人々の集団に、心悪しき人々は、入ることが出来ないのです。それというのも、こちらの世界では、お互いの心の中は、まるでガラス張りで、嘘偽りが、一切、効かないからなのです。
ですから、よく宗教家達は、反省の大切さを説きますが、反省が大切なのは、その事によって、自分の心の曇りを発見し、取り除く事が出来るからなのです。あなた方、喩え、どんな大悪党であっても、その悪党が、心から神に詫(わ)び、深く反省している姿を見たならば、思わず、駆け寄って、肩に手を掛けてやりたくはないですか。反省の姿は、常に美しいのです。真実の反省の姿は、どの様な大天使に見られたとしても、決して恥ずかしい事はないのです。
神は、盲目の人間、神理に対して盲目である衆生に対して、一度なりとも、罪を犯すな、とは、決して言っていないのです。罪を犯したとしても、反省という行為によって、その罪は消える様に、神は、その様な完全なものとして、人間を、お創りになったのです。それはそうです。バケツの水をこぼしたなら、雑巾で、ちゃんとふきなさい、という事なのです。これが「反省」という宗教的行為の持つ意味なのです。
この焦熱地獄にいる人々は、二つの事さえ実行したなら救われるのです。その一つは、布施という事、つまり、他人に対して愛の行為をする、という事です。いま一つは、欲望に振り回されない、足る事を知った心で日々生きる、という事なのです。足る事を知り、自らの使命を自覚して、日々着実に生きる人には、地獄というものは無縁のものなのです。あれが欲しい、これが手に入れたい、と、山の様な欲望に振り回されて、自分で自分を苦しめているのが、愚かな人間の姿なのです。
ですから、この焦熱地獄というものは、決して、神が、罪を与え給う為に、お創りになったものではないのです。まさに、その環境こそが、その世界にいる人々にとっては、悟りへの近道となっているのです。迷っている霊達は、なぜ自分が焦熱地獄に居るのか、を、考えることによって、悟ることが出来る様になっているのです。
7.悪魔界
今まで述べて来ましたのは、一般的な地獄ですが、今日は、もう一段、地獄らしい地獄を、ご紹介しようと思います。
ここは、一般に、悪魔界、と、呼ばれています。通常の悪霊よりも、一層、凶悪な霊達が集まっている所です。
彼らの活動内容は、大別すると、二つに分れます。その一つは、地獄界の中で、手下共をたくさん作って、各所で、縄張りというか、権力者の地位に就こうとしています。
いま一つは、この地上界に逃れ出て、他の悪霊共も使いながら、悪事を働く、という事です。
まず、最初の場合を考えてみますと、小桜は、無頼漢地獄、土中地獄、擂鉢地獄、畜生地獄、焦熱地獄を挙げましたが、その他にも、色情地獄だとか、無間地獄などの有名な地獄がありますが、こういった各地獄において、やはり、魔王といいますか、やくざの親分の様な存在、がいるのです。こういった役目を業(なりわい)としているのが、悪魔界の人々なのです。彼らは彼らなりに、自分達の暗黒世界を支配しているつもりで、あわよくば、神の、光の天使達にも、一矢(いっし)報いてやりたい、と思っているのです。
彼らを特徴付けているもの、は何か、というと、〈力〉への信仰、と言いますか、飽くなき権力欲、物も人も欲しいままにしたい、とする気持ちです。一度、権力欲という美酒に酔ってしまうと、人間は、なかなか、その味を忘れることが出来ないものです。人間の、神性が麻痺してしまうのです。神の子の人間にとって、大切なものは、謙虚さと、慎ましやかさです。悪魔界の人々には、これが全くないのです。
第二の場合、についても、申し上げると、彼らは、積極的に、地上界を混乱と破壊に導こう、ともしています。地上の団体の中にも、抗争ばかりを繰り返している狂気の集団には、必ず、彼らが関わっています。闘争心を激しく燃やしている極端な右翼や左翼の人々や、悪質な組合運動家達の背後には、必ず、彼らが暗躍しています。
彼らは、この地上を混乱させるのに、最も効率のよい方法を、心得ています。即ち、彼らは、狂った宗教指導者達を作り出して、世の中を迷わせているのです。光の天使達が、神法を説きに、この地上界に舞い降りる時、魔が競い立つ、というのも、こういった事なのです。
この、後者の悪魔界の人達、地上界を、霊的に混乱に陥れ、何が本物で、何が偽物であるか、を、分からなくしようとしている彼らと、いかにして闘い、いかにして、彼らをも天上界へ導くか、という事が、地上に降りた光の指導霊達の仕事です。これは、恐らく、小桜の任を超えているものと思われますので、この事に関しては、もっと上級の、神霊の方々にお聴きになればよいと思います。
以上で、「霊界における地獄の救済」というテーマは、とり敢えず、終わりにします。
(1986年)
(ここから)
(こうして、)あなた(チャネラー)の頭の中の言葉を使わせて頂きながらも、私自身の考えは、何百年も前の、古色蒼然(こしょくそうぜん)たるものですので、我ながら呆れてしまいます。
でも、どうか、分かって頂きたいのです。今回、私が、こうして通信を送る理由は、ただ単に、小桜が、でしゃばりだから、だけではないのです。
昨年(当時)、(地上の)〇〇社さんから「小桜姫物語」というのを、出(版)させて頂いておりますが、その編著者であられた浅野和三郎さんが「〇〇さんに通信を送って、『小桜姫物語』の続編を出しなさい。あのままでは、霊界通信としては、とても未熟、未完であって、後世の人々に申し訳がない。小桜よ、ご苦労だが、もう一度、現界に舞い戻って、通信を送り、せめて『神霊界入門』程度の書物を遺(のこ)しておいて欲しい。」と、こうおっしゃったのです。
私は、浅学非才の小桜では、どうも任に耐えません、と、ご辞退申し上げたのですが、浅野さんがおっしやるには、自分が遺した仕事と、〇〇、〇〇両氏のお仕事との間には、あまりにも飛躍があるので、この飛躍を埋める、中継ぎになる何かを、出しておきたい、とのことなのです。
浅野さんも、お二方の活動の、日本での先駆者として、お生まれになられた方ですから、そのお言葉も、もっともであり、私の様な者の霊界通信も、日蓮聖人や天照大神の様な、偉大な方々の霊言との、隙間(すきま)を埋めるものとして、何らかのお役に立てはしまいか、と考えたのです。
そういう意味で、この小桜も、今後、神霊界での、浅野和三郎さんのご指導を仰ぎながら、通信をお届け致しますので、次第次第に、内容も向上して行くものと思われます。
浅野さんが、(霊界の)どの辺りにおられるか、疑問をお持ちの様ですが、浅野さんは、近年、こちらの世界でも、神界から菩薩界へとお上がりになられた所で、霊格も、大変ご立派になられているので、そのご経験を、この小桜を通じて、お伝えしたい、とのことです。浅野さんのお弟子様方も、まだ存命なので、自らの通信となると、ご自分のお弟子様が、〇〇さんや〇〇さんをご批判なされるのを、大変、心配しておられるので、この小桜が、媒介役を買って出た、という事なのです。
さて、私が、これからお話しようとする内容は、「魂の進歩に資するものは何か」という内容についてです。
神様が、人間に転生輪廻を許しておられる理由は、異なった環境下、異なった時代に生まれて、様々な人生経験を踏まえて、人間の魂を、一層、向上させようとしておられる点にあります。
けれども、肉体を持った人間は、この神様のご慈悲を忘れて、自分の人生はこの世限り、だと思い込んで、出来るだけ贅沢三昧、快楽三昧で生きたい、と願っております。
結局のところ、人間が利己主義で、自分の利益しか考えず、他の人の為に尽くさない理由は、人生はこの世限り、だと思っているからなのです。でも、本当は、そうではありません。人生は一回きりではありません。人生が一回きりで、それだけで人間というものが、魂というものが、雲散霧消してしまうものであるならば、私達は何の為に苦労し、何の為に努力して来たのでしょうか。人生は一回きりのものではありません。そして、個人の魂は、死後も、その個性を保っているのです。そうでなくて、個人の魂が、群魂の様なものに、吞み込まれてしまうなら、何の為に、個々人が、苦労して人生経験を得るのか、そのわけが分からなくなってしまいます。
動物とか植物とかの魂は、群魂に帰属してしまう事もあります。彼らは、人間の様な、知性的、理性的な、魂の経験というものがないので、よく似通った魂同士で、経験を共有する事もあるのです。
ですから、私達は、人間の魂として、神様が創って下さったこと自体を、喜ばなくてはなりません。私達は、個性ある、人間の魂として生まれた、からこそ、その個人個人の努力や経験や知識が、全て、自分のものになるのです。その意味で、人間として生まれたこと自体が幸福である、ということです。
ともすれば、私達は、他人と引き比べて、自分に足りない面ばかりを考えて、劣等感を持ち、或いは、不遇感や不幸感を持ちますが、人間として生まれたこと自体が、奇跡とも呼びうる幸福である事に感謝せねばなりません。そうではありませんか。善い事をすれば、全て自分の心の宝物となる。悪い事をしても、それも、全て自分の責任となる。こんな明快な原理が、あるからこそ、人間は、永遠の転生輪廻に、生きがい、やりがいを見出す事が出来るのではないでしょうか。
神様が、なぜ、様々な動物や植物や、人間の魂を、お創りになったのか、その根本の理由は、小桜には、分かりかねます。けれども、恐らく、これだけは確かでしょう。神様は、宇宙を進化・発展させる事を是(よ)し、と思われ、その中に、創造の美を見出しておられる、という事です。
人間の役割というものは、定かではありませんが、神様の、宇宙創造の芸術の一端を担っている事だけは確かで、だから、私達も、しっかりと、やらねばならない、のだと思います。
さて、今回は、少々難しい題を選んでみました。「魂の進歩に資するものは何か」なんて、小桜には、あまりにも、大上段過ぎる様に思われるのですが、浅野さんの言われるには、この程度の内容の通信は、最低限度、送らなければ駄目だ、との事なので、非力ながら頑張ってみます。
私は、既に、人間は、神様の宇宙創造の芸術の構成員だと述べました。ですから、魂の進化とは、神様が是(よ)しと思われている方向に、私達が努力して行く事だと思うのです。
私は、次のような場合に、人間の魂は進化すると思うのです。
〈反省〉
第一番目は、自分の現在の心境が、いかに神様から離れているか、を実感した時です。
私達は、毎日が順調にいっていると、ともすれば、自分自身を、振り返る機会がなくなってしまいます。宗教や道徳は、「反省」を大切にしていますが、これは、神様と自分との距離を考えてみる、という事なのです。向上の為には、反省がなければなりません。自分が、いかに迷っており、いかに低迷しているか、が、分からなければ、また向上への道を辿ることも出来ません。自らを省み、自らの足らざる所を補おうとした時、初めて、人間は、魂の進歩という第一歩を、精神史に記すのではないでしょうか。月並みではありますが、魂が進歩する時は、みずからの心境を反省した時だと言えると思います。
〈感謝〉
魂が進化する、第二番目の時は、感謝という事を、実感した時だと思います。よほど立派な方で、多くの人々から尊敬を受けている様な人でさえ、この感謝という事が、なかなか出来ないものです。優れた宗教家でありながら、道を踏み誤る人々の大部分は、この感謝が足りないのだ、と思うのです。人間が自分一人で出来る事は、限られた事なのです。それは、とてもとても、限られた事なのです。ですから、あなた方、一人一人を助けて下さる、他の人々の好意や、暖かいまなざしを、常々、投げかけている、天上界の高級霊や、あなたを生かしめる、神様の力、に対して、感謝する気持ちを持たねばなりません。
たくさんの地獄霊・悪霊達がおりますが、、彼らの大部分の特徴は、自分の利益ばかり考えて、他人に対する愛がない、言葉を換えると、他の人々や、偉大なもの、に対する、感謝の念がない、という事です。感謝の気持を持って日々生きている人は、地獄には、一人も居ないのです。ですから、心の底から、感謝の気持ちが湧いて来た時、ああ、今、自分の魂は進歩しているのだ、と思って頂きたいのです。感謝は感謝を生み、喜びは喜びを生むものです。
〈謙虚な気持〉
魂が進歩する、第三の時は、謙虚な気持ち、になった時です。自分が、不平不満で一杯の時、自分が、劣等感で一杯の時、他人に対する、反発や、反抗心で一杯の時、他人の悪口、陰口を、言いたくて仕方のない時、人間は、決して謙虚な気持ちにはなれないものです。謙虚になれる時というのは、かなり、心に余裕が出来た時であり、自分の中の、良い面が、悪い面に勝っている時なのです。
では、謙虚さは、なぜ美徳なのでしょうか。それは、謙虚さ自体が、非常に霊的なもの、だからです。三次元的な、ものの考え方とは、結局、他人より優れたい、他を凌駕(りょうが)したい、他を見下したい、という思いなのです。自分の国が、この世しかない、と思うからこそ、「オラガ天下」に、したくなるのです。ですから、広大無辺な、神の世界に気付いたならば、自分が築いた地位や名誉や権力というものが、いかに無力で、いかに空しい、のかが、はっきりと分かるのです。
そうです、偉大な神様の前には、人間は、謙虚でなければ居られないのです。大霊界の存在、に気付いた人間は、身を低くして、頭(こうべ)を垂れるしか、なくなるのです。また、この神霊世界には、数知れず、偉大な方々がいらっしゃるのです。例えば、この世で、会社の社長だとか総理大臣とか、いう人が、天照大神の前で、威張れるでしょうか。天之御中主之神の御前で、何を自慢出来るでしょうか。霊的に目覚めれば、目覚めるほど、偉大なる神霊の力に気付けば、気付くほど、人間は、謙虚にならざるを得ないのです。自分が、謙虚になったな、と思った時、人間は、自分の魂が、大いに進歩している事実に気付くのです。
〈優しさ〉
次に、魂が進歩する第四の場合、について、述べたいと思います。それは、ひと言でいえば「優しさ」です。他人に対する、優しさ、思いやりです。優しさは、神の国と、この世の国に架けられた黄金の橋です。人間として生きる以上、神様の子供として生きる以上、一日に一回は、他人に対する優しさ、を、持ちたいものです。
この優しさは、神様のお気持ち、そのものなのです。あなた方人間は、日常生活で、様々な、嫌な人に会うことでしょう。憎らしい、と思う人にも会うでしょう。金輪際(こんりんざい)、顔を見たくない、と思う人にも会うでしょう。けれども、一度、立ち止まって考えてみて頂きたいのです。完全無欠な、神様の眼から見たら、人間は、いかに低劣で不完全であるかを。そんな、低劣で、不完全で、宇宙のゴミにしか過ぎない人間をも、神様は、限りなく優しいまなざしで、見て下さっている、の、ではないでしょうか。限りない思いやりの中に、人間を育んで下さっている、の、ではないでしょうか。
そうであるなら、お互いに不完全である人間同士が、お互いの欠点を責めあったり、嫌ったりするのは、やめようではありませんか。神様に見ならって、限りなく優しい眼で、他の人々を見守ろうではありませんか。
その優しさ、こそが、神様のお心そのものであり、つまりは、私たちの魂が、神様に向かって進歩している時、ではないでしょうか。
〈向上心〉
私は、魂の向上進歩する五番目の時、として、向上心、を、挙げたいと思います。人生には、様々の出来事、様々の試練や災難があります。時折、あまりの試練に耐えかねて、波間に揺れる小舟の様に、人間は、自らの自信を、なくす時が来ます。けれども、その時こそ、神様が、本当に、救いの手を差し伸べている時なのです。神様は、もう、救いの手を差し伸べておられるのです。ただ、あなた方人間が、手を伸ばして、(その)神様の救いの手を、握り締めるかどうか、なのです。この様に、人間の側からも、手を伸ばす事が大切です。
この手、こそが、向上心です。親は、我が子の成長を喜びます。神様も同じです。我が子の成長を、限りなく、喜んでおられるのです。この成長の原動力、こそが、向上心ではないでしょうか。向上心のある人間は、いつかは、山の頂上を窮(きわ)めるのです。その歩みは、遅々としたものでも、よいのです。一日一日を、神様の方へ向いて、着実に歩んで行くことです。
人生は、ある意味において、激流の川を小舟で漕(こ)ぎ上る、のにも、似ているでしょう。けれども、神様は、その激流を漕ぎ切った時、大きな手を開いて、あなた方人間を抱きしめようと待っておられるのです。いかに流れが急であり激しかろうとも、舟を漕ぐのを、やめてはいけません。それが、向上心、という事ではないでしょうか。それが、人間の側の、努力、というものではないでしょうか。
〈忍耐〉
私は、魂の向上する六番目の時、として、耐え忍ぶ、という事を、挙げたいと思います。この世の指導者の中には、よく、とにかくやれ、とにかく行動せよ、と言われる方があります。勇ましく、自分の途(みち)を切り拓く事は、とても大切な事です。けれども、私は、ここに、忍耐の美徳、を、挙げておきたい、と思うのです。
神様は、とても忍耐強い方です。あなたも、そう思われませんか。人間は、何千年、何万年も転生輪廻して来ても、一向に、神様の方へ歩んで来ようとせず、知識人の顔をして、堂々と無神論を説いている人も、たくさんいます。こんな、ばかげた無神論者でさえ、優しく育んでおられ、その成長を待っておられる神様は、とても辛抱強い方であり、耐え忍ぶ事に慣れておられる方の様です。
ですから、あなた方人間も、自分に対して、短気を起こさず、また、他人に対しても、短気を起こさず、どうか、忍耐強くあって欲しい、と思うのです。耐える事を知った魂、というものは、いぶし銀の様な光を放つものです。じっと耐えている人の姿は、岩間に咲いた、つつじの生命力を見た時の様な感動を、人々に呼び起こします。どの様な環境にあっても、どの様な逆境にあっても、挫(くじ)けず、美しい花を一輪咲かせ、その花を守り育てて行こうではありませんか。そうした、辛抱強さの中にこそ、神の子としての、じっくりと、よく練れた成長が、あるのではないでしょうか。
成功のみを追い求め、耐えることを忘れた人間は、脆弱(ぜいじゃく)です。私達は、魂の足腰を鍛えましょう。どの様な夏の暑さにも、どの様な冬の厳しさにも耐えて行ける様な、逞しい魂、というものを、築いて行こうではありませんか。
〈祈り〉
最後に、第七番目として、魂の進歩する時、それは、祈りの時、であると、私は言っておきたいと思います。人間は、ともすれば、平凡な日常生活に埋もれて行ってしまいます。ですから、その精神生活の、どこかで、超俗的な場面を、持つ必要があります。それが、祈りの時である、と、私は思います。祈りとは、神様との、一対一での対話です。人間は、神様と一対一で対話する時、初めて、澄んだ心に、なれるのです。
祈りについては、誤解されている面が、随分とあるように思われます。人々は、健康だとか、合格だとか、結婚だとか、を、祈っている様です。それも、確かに、悪い事ではありませんが、神様に、アメ玉をおねだりしている子供の様で、いまひとつの成長、が、望まれるところです。祈り、というのは、神様との対話です。普通の人々が、宇宙創造の神様と対話するのは、とても無理ですが、しかし、祈りは、その人の霊的波長に応じた、高級神霊に、必ず届くものなのです。ですから、答えのあるなしに関わらず、祈りは、必ず、誰か、には聴かれている、と思って下さい。
後は、その祈りの正当さ、妥当さが、高級霊によって判断され、また、その祈りを聴き届けることによって、その人に、いかなる運命の修正がなされるのか、が、守護・指導霊達の間で検討されるのです。人間は、自分一人だけで生きて行くわけではありません。その人に関係する、様々の守護・指導霊達が、見守っているのです。ですから、祈りというのは、守護・指導霊の、日頃の厚意に、感謝すると共に、自らを正す機会でもあるのです。守護・指導霊も、祈りの時を待っています。
残念なのは、地獄にいる人達です。彼らの内の、大半は、祈りという事を、全く忘却してしまっているのです。彼らに、祈りという事が、分かっていたなら、もっと早く、救いの機会が訪れたであろうと、とても残念に思われます。祈りとは、また、帰依(きえ)の姿、でもあるからです。偉大なる神霊への、帰依でもあるからです。出来れば、一日に一度は、反省も兼ねて、祈りというものを、実行して頂きたいと思います。この時こそ、人間は、偉大なる、他力の光明によって、大いに、魂が進歩しているのです。
以上、一番目から七番目まで、「魂の進歩に資するものは何か」という事を、お伝えしました。
さて、今度は、「霊界における地獄霊の救済」というテーマで、ご報告を致したいと思います。難しい事を書くことを苦手とする小桜にとっての、唯一の強みは、こちらの世界に来てからの、体験、だと思います。これだけは、他の誰にも、お譲りする事が出来ない、私だけの宝物です。でも、この宝物を、皆様にお見せしたからといって、少しも値打ちが減るものではありません。ですから、今回も、小桜の体験を、中心に、語ろうと思います。体験だけでは、間延びした文章になりかねませんので、時折、小桜らしい教訓を付け加える非礼を、お許し下さい。
ここで皆様にお話しする事は、ここ百年位の間に、小桜が、何度か、指導霊に連れられて、地獄の世界に行った時の話です。地獄の世界が、どんなものなのかは、地上におられる皆様も、昔話には聞いておられましょうが、本当の所はどんなものか、と、随分、興味をお待ちでしょう。或いは、もう、人生の大半を生きて来て、年齢的にも、信仰深くなって来ている人は、もしかして、自分は、地獄に堕(お)ちるんじゃないか知らん、と、ソワソワと、し始めた頃かも知れません。
ここで述べるのは、飽くまで、小桜の見聞した地獄であって、地獄も広大無辺の様ですから、何千年かかっても、分かってしまう事は出来ない様です。
ではお待ちかね、第一の地獄に、ご案内致します。
2.無頼漢(ぶらいかん)地獄
ここは、地獄でも、まだ浅い地獄です。空は、薄墨色で、日没後か、夜明け前の様な感じです。周りの景色は、薄らぼんやりは、していますが、かなり、はっきりしています。近くには川が流れています。ちょっと悪臭のある川で、あまり、いい気侍ちはしません。それもそのはず、浅瀬には、人間の死体が何体も沈んでおり、中には、片手だけ虚空に伸ばしている死体もあります。
しかし、近付いてみると、この、死体だと思っていたものが、実は、まだ水の中で蠢いている事が分かりました。彼らは、まだ、生きているのです。
そうこう、しているうちに、川の上流の方から、ワーッという声が上がりました。見ると、二十人位の人々が、二人の男女を追いかけて、こちらに来ます。どうやら、橋のたもとの所で、二人とも捕まったようです。荒縄で橋のたもとに縛りつけられてしまった様です。男も女も、二人とも、すり切れて、泥まみれになった着物を、一枚着たきりです。男の額の傷からは、血がしたたり落ちています。
と、その時、雷音の様な声が、轟きました。追手の中で一番大きな男です。身長は、ゆうに三メートルはあります。また、その腕の太い事、小桜の太腿を二本合わせた位あります。かがり火に照らし出された、男の、その顔は、話に聞く赤鬼そっくりです。ないのは角(つの)ぐらいで、口からは、確かに、キバと思しきものが生えております。
この大男の号令で、川岸で、五人の男どもが刀を研ぎ始めました。大きな青竜刀の様な刀です。川でジャブジャブ刀を洗いながら、砥石(といし)で刀を研ぐのです。シャリン、シャリンという、とても嫌な金属音が、冷え冷えとした空気を通して伝わって来ます。
その可哀想な男女は、赤鬼の奴隷の様にして、こき使われていたのですが、とうとう、二人で逃げ出してしまい、追っかけて来た彼らに捕まってしまったのです。
それから、二人が、青竜刀で切り刻まれて、川の中に死体の如く投げ込まれたシーンは、ご想像に任せるとしましょう。
小桜の、指導霊のお爺様が言うには、可哀想なカップルは、江戸時代の頃、村の掟に背いて駆け落ちし、結局は情死してしまった男女だそうです。彼ら自身は、実際は、村人に追われて殺されたわけではありませんが、追いかけられて、村人に殺されるのではないか、という、恐怖心で一杯だったのです。その恐怖心が、死後の世界でも続いており、こうして、また、人殺しの好きな連中に、捕まっているのです。
どうやら、この世界は、肉体的な恐怖心の支配している、無頼漢地獄の様です。この地獄では、いつ、自分の生命が奪われるか、という事が分からない恐怖の世界なのです。今様に言うなら、サドとマゾの世界、とでも言いましょうか。ここで、小桜が、指導霊から教えられた事は、人間を不幸にする最大の敵は、恐怖心、だという事でした。恐怖心の大部分は、本当はありもしない恐怖に怯えているのです。自分は死ぬんじゃないか、迫害されるんじゃないか、という恐怖心ほど、バカバカしいものはありません。なぜなら、人間は、生き通しの生命であり、本当の実相(霊的エネルギー)の世界は、互いに愛し合う、大調和の世界だからです。
ここで殺された若い男女は、自分達の生命が、永遠に不滅だ、という事を悟るまで、何回でも、鬼達に殺されることになります。その意味で、鬼たちは、彼らの教師なのです。また一方、鬼達は、怒りに燃えて人を殺すことの空しさに気付くまで、何回でも、同じ人を殺すことになります。この意味で、殺される男女の側も、鬼どもにとっては教師役なわけです。
この無頼漢地獄で、小桜は、つくづく思いました。人間は、恐怖心を取り除かないと幸福になれないのではないかと。そして、恐怖心を抱いて、その人が不幸になるのは、決して、他人のせいではない、という事を。恐怖心というものも、ある意味では、他人は皆んな自分を害そうと思っている、とする、利己主義者の心なのです。
人間は、互いに愛しあい、信じあってこそ、神の子なのです。他人が、自分をいつも害している、と思っている様な人は、大抵、自分も他人を害しているものです。他人から傷つけられた、と思っている人も、それ以上に、他人を傷つけているかも知れません。
この地獄でも、人間は神の子で、生き通しの生命、だと気付くまで、彼等は、二、三百年は、殺し合いを続けます。その後は、殺し合いに飽きて、ある者は、悟って、天上界に、ある者は、さらに残忍さを帯びて、一層深い地獄へと堕ちて行きます。この無頼漢地獄では、四百年も五百年も暮らす人は稀で、大抵は、この様に、二、三百年で、他の境涯へと移って行くのです。
ですから、この世界にいる地獄霊を救うには、この、二、三百年目位に来る節目を、逃さない様にしなければなりません。彼らが、殺戮(さつりく)に飽き飽きし疑問を感じ始めた時に、光の天使達が、彼らの説得に駆けつけるのです。この世界でも、神様は、自力救済というものを、ある程度、重視しておられる様で、本人の心が、神に向き始めた時に、初めて、天使達が彼らを救う、という様な仕組みにしている様です。
3.土中(どちゅう)地獄
では、引き続き、第二番目の地獄に、ご案内致しましょう。この地獄は、まだ、あまり、文献その他には出ていませんが、「土中地獄」と呼ばれます。その名の通り、土の中の、真暗闇の中に閉じ込められたまま、息も絶え絶えで、窒息しかかった人が、大勢苦しんでいます。よく見ると、彼らは、モグラと同じで、一人一人が自分の穴を持っており、目の前の、僅か一メートル位の空間の中で、息をしたり、手で土を掘ったりしていますが、穴が狭いため、向きを変えることも出来ず、足も膝を突いたままです。
小桜が驚いた事は、この土中地獄には、現代のサラリーマンが多い事です。ネクタイ姿で、白いワイシャツを着て、穴ぐらの中で這いつくばい、何やら、悶え苦しんでいるのです。どうやら、この地獄は、現代の息づまる様な管理社会が生み出した地獄の様です。ここに居る人の特徴は、要するに、対人恐怖、いやな上役や部下から逃れたい、という気持ちで一杯の人が多いという事です。
一人っきりで、真っ暗の中で蹲っている姿は、まさに現代サラリーマンの姿、そのものでした。彼ら、一人一人は、お互いの姿を見る事は出来ないのですが、小桜の眼には、彼らが、土中の穴で住んでいる姿は、どこかの都市のワン・ルーム・マンションを、そのまま地下に埋め込んだ、かに見えます。
この地獄は、ここ数十年の内に出来た、新しい地獄なので、まだ、どうやって、この地獄に居る人々を救い出したらよいのか、その方法論が、光の天使達の間でも、盛んに議論されております。彼らの内の大部分は、誰とも口を利きたくない、といった態度なので、まったく困ってしまいます。
ここに居るサラリーマンは、職場では、面従腹背のイエスマン、家庭は、残業や度重なる出張、単身赴任などで、まるで、氷の様で、妻や子とも、ロも利かない状態、そういった長年の生活に疲れ果て、モグラの様に、誰も居ない真暗の所で、じっとしていたい、と望んでいるのです。読者の中には、この描写を読まれて、自分も、もしかしたら、同じ地獄に堕ちるのでは、と思っている方も、いらっしゃるでしょう。
私達が、心から望むのは、人間として生きていた時に、なぜ、心を打ち明ける友人を持つ様に、努力しなかったのか。その身体は、管理社会に束縛されているとしても、なぜ、心は、自由に空を飛ぶヒバリの様に、精神世界を飛び回ることが出来なかったのか、という事です。
彼らは、自分の心が、本来、自由自在であり、光に満ちた神の子である事に気付くまで、この土中地獄から出ることはないでしょう。彼らが、独りで悩んでいる事の、バカバカしさ、に気付くまで、私達は、手の下し様がないのです。だって、彼らは、一人っきりにして欲しいと、心から願っているのですから。どうか、これ以上、孤独な人が増えない事を祈るばかりです。
4.擂鉢(すりばち)地獄
第三番目の地獄に、ご案内いたします。この地獄も、恐怖満点といいますか、意地悪な言い方をすれば、スリル満点です。
見ると、阿蘇山の火口の様な、大きな、すりばち状の穴があります。直径は、かなり大きく、ゆうに百メートルはあります。すりばちの底は、熱湯が煮えたぎっており、ときおり、硫黄(いおう)臭い煙が、中央から立ち昇って来ます。見方によっては、溶岩がフツフツと湧いている様にも見えます。何千人もの人が、まるで蟻の様に群れをなして、この巨大なすりばちから逃げ出そうとして、崖(がけ)をよじ登っているのですが、我れ先に、と思っている人ばかりで、自分の上をよじ登っている人の足首を握っては、引き摺(ず)り下ろしています。永遠に、それを繰り返していますから、いつまでたっても、一人も、この擂鉢地獄から、抜け出すことが出来ないのです。岩肌を、石と共に、ゴロゴロと、次々と転落して行きます。
この哀れな人達は、どうやら、生きていた時に、慈悲も愛もなく、他人を蹴(け)落として来た、エゴイストの集まりの様です。けれども、蟻の様に、必死になって、油汗をかいて、よじ登っている人、一人ひとりを見るならば、大会社の重役風の人や、学者風のインテリ顔をした人が、結構いるのに驚きます。
受験戦争や、出世競争で、他人を、情け容赦なく蹴落として来た人達が、そのツケを、ここで払っているのです。崖の傾斜そのものは、それほど急でもなく、皆で助け合えば、次々と、このすりばちからは、逃れることが出来るのに、その「助け合う」という事が、何十年、何百年たっても、分からない人達が多いのです。小桜から見れば、たった、それだけの事、どうして分からないのか、と思うのですが、彼らは、自分が助かる事で、頭が一杯なので、小桜の言葉になど、耳を傾けてくれません。「この忙しい時に、そんな下らないたわ言を言わないでくれ。」と言って、撥(は)ねつけられてしまうのです。
他の地獄霊の方々も、同じですが、結局、本人の自覚が進むまで、どうしようもないのです。小桜達も、呆然(ぼうぜん)として、この亡者達の群れを、眺めるだけでした。人間として生きていた時に、どの様な人生観を持つか、という事が、いかに大切か、しみじみと思われたことでした。
5.畜生地獄
さて、次は、第四番目の地獄です。これは、昔からお馴染みの地獄で、畜生道とか動物界と、言われています。ここにいる人達は、顔だけは人間で、身体は、馬であったり、牛であったり、鳥であったり、ヘビであったり、豚であったりと、様々です。それぞれ、自分の心性に合った、獣の姿をしています。中には、空を飛ぶ蝙蝠(こうもり)の様になって、洞穴に、逆さにぶら下がっている人も、います。人間として生まれて、死んで、これでは、全く可哀想です。
小桜は、この地獄に来て、恐ろしいより、むしろ、気の毒で、涙なしでは見ていられませんでした。ああ、人間として生きて来て、六十年か七十年、生きて来て、その、とどのつまり死んでから、獣の様な姿をとって生き続ける位なら、いっそひと思いに、生命など消失してしまえばよいのに、と思いました。
人間に、永遠の生命がある、というのは、立派な人生を生きている人にとっては、本当に掛け替えのない、素晴らしい事であるし、他方、地獄で、のたうち回っている人にとっては、まさしく、永遠の責め苦でしかありません。人間は、本当の意味での利己主義者に、ならねばならない、と、小桜は、つくづくと思いました。本当の意味での利己主義者、とは、永遠の生命を、幸せに生きようとする人間です。
昔の、中国の諺(ことわざ)に、「朝三暮四」というのがあった、と、小桜は、聞いた事がある様に思います。これは、昔、中国の偉い人が、栃(とち)の実を、猿に与えるのに、朝に三つ、日暮れに四つ、与えようとしたら、大いに怒ったので、朝に四つ、暮れに三つ与える、と言ったら、猿が大喜びをした、という故事から出た言葉、だそうですが、人間も猿も同じですね。目先の、数十年の、肉体人生だけが快楽だったら、後の生命の事なんか、考えていないんですから。
さて、この、畜生地獄に来ている人は、人間としての尊厳を忘れて生きて来た人達です。肉体即我、という自覚のままに生き、本能と欲望の赴くままに生きて来た人達の行く末です。猜疑心(さいぎしん)の強い人は、ヘビの様な、欲望を抑え切れない人間は、犬の様な、人を騙(だま)し続けて来た人は、キツネの様な姿になって、畜生地獄を造っているのです。
そして、もっとも注目すべき所は、彼らの大部分は、何百年も、この地獄に居るうちに、自分を、その動物そのもの、だと思い込んでしまう点です。
これが、実は、動物霊の憑依、と言われている事実の、真相なのです。自分をヘビだと思い込んでいる地獄霊、自分をキツネだと思い込んでいる地獄霊が、生きている人間に憑依しては、人間を苦しめているのです。ですから、霊能者が、現象を行なうと、ヘビの様に身をくねらせたり、キツネの真似をする霊が、人間の言葉でしゃべったりするのは、殆んど、畜生地獄に堕ちた人間霊だからです。本当の動物霊も、確かに存在はしますが、人間の言葉をしゃべるのは、よほど古い霊に限られ、霊障といっても、軽度なものが多い様です。彼らは、こうして憑依をする事によって、増々、人間の道を大きく外れて行き、明るい天上界に還って来ることが、難しくなって来るのです。
6.焦熱地獄
さて、では、第五番目の地獄、焦熱地獄にご案内致しましょう。読んで字の如く、この地獄では、大変な高熱で人々の肉体(と思われているもの)が焼け爛れています。水を求めて、ゆらゆらと陽炎の立ち昇る砂漠を、腰に布一枚を巻いただけで、やせて骨だけになった男女が、彷徨(さまよ)っています。
この地獄を特色付けているものは、「渇望(かつぼう)」という言葉です。(自分以外の)人々に布施することを忘れて、貪欲に貪り、求める事ばかり考えて人生を送って来た人々の、末路なのです。物欲が強く、常に、不足と不満ばかりを心に思って生きて来た人々です。そうした人々の心が、熱風の吹き付ける灼熱の砂漠、という心的風景を作り出しているのです。
実在界(霊界)という世界は、己の心に嘘のつけない世界です。即ち、その人の容貌も、その人を取り巻く環境も、その人の心の真実の姿を、正確に反映してしまうのです。心の中で、邪悪な事を考えつつ、正直者の群れに居る事は出来ないのです。地上の世界では、羊の群れの中に狼が忍び込む事は、よくある事ですが、実在界においては、心清き人々の集団に、心悪しき人々は、入ることが出来ないのです。それというのも、こちらの世界では、お互いの心の中は、まるでガラス張りで、嘘偽りが、一切、効かないからなのです。
ですから、よく宗教家達は、反省の大切さを説きますが、反省が大切なのは、その事によって、自分の心の曇りを発見し、取り除く事が出来るからなのです。あなた方、喩え、どんな大悪党であっても、その悪党が、心から神に詫(わ)び、深く反省している姿を見たならば、思わず、駆け寄って、肩に手を掛けてやりたくはないですか。反省の姿は、常に美しいのです。真実の反省の姿は、どの様な大天使に見られたとしても、決して恥ずかしい事はないのです。
神は、盲目の人間、神理に対して盲目である衆生に対して、一度なりとも、罪を犯すな、とは、決して言っていないのです。罪を犯したとしても、反省という行為によって、その罪は消える様に、神は、その様な完全なものとして、人間を、お創りになったのです。それはそうです。バケツの水をこぼしたなら、雑巾で、ちゃんとふきなさい、という事なのです。これが「反省」という宗教的行為の持つ意味なのです。
この焦熱地獄にいる人々は、二つの事さえ実行したなら救われるのです。その一つは、布施という事、つまり、他人に対して愛の行為をする、という事です。いま一つは、欲望に振り回されない、足る事を知った心で日々生きる、という事なのです。足る事を知り、自らの使命を自覚して、日々着実に生きる人には、地獄というものは無縁のものなのです。あれが欲しい、これが手に入れたい、と、山の様な欲望に振り回されて、自分で自分を苦しめているのが、愚かな人間の姿なのです。
ですから、この焦熱地獄というものは、決して、神が、罪を与え給う為に、お創りになったものではないのです。まさに、その環境こそが、その世界にいる人々にとっては、悟りへの近道となっているのです。迷っている霊達は、なぜ自分が焦熱地獄に居るのか、を、考えることによって、悟ることが出来る様になっているのです。
7.悪魔界
今まで述べて来ましたのは、一般的な地獄ですが、今日は、もう一段、地獄らしい地獄を、ご紹介しようと思います。
ここは、一般に、悪魔界、と、呼ばれています。通常の悪霊よりも、一層、凶悪な霊達が集まっている所です。
彼らの活動内容は、大別すると、二つに分れます。その一つは、地獄界の中で、手下共をたくさん作って、各所で、縄張りというか、権力者の地位に就こうとしています。
いま一つは、この地上界に逃れ出て、他の悪霊共も使いながら、悪事を働く、という事です。
まず、最初の場合を考えてみますと、小桜は、無頼漢地獄、土中地獄、擂鉢地獄、畜生地獄、焦熱地獄を挙げましたが、その他にも、色情地獄だとか、無間地獄などの有名な地獄がありますが、こういった各地獄において、やはり、魔王といいますか、やくざの親分の様な存在、がいるのです。こういった役目を業(なりわい)としているのが、悪魔界の人々なのです。彼らは彼らなりに、自分達の暗黒世界を支配しているつもりで、あわよくば、神の、光の天使達にも、一矢(いっし)報いてやりたい、と思っているのです。
彼らを特徴付けているもの、は何か、というと、〈力〉への信仰、と言いますか、飽くなき権力欲、物も人も欲しいままにしたい、とする気持ちです。一度、権力欲という美酒に酔ってしまうと、人間は、なかなか、その味を忘れることが出来ないものです。人間の、神性が麻痺してしまうのです。神の子の人間にとって、大切なものは、謙虚さと、慎ましやかさです。悪魔界の人々には、これが全くないのです。
第二の場合、についても、申し上げると、彼らは、積極的に、地上界を混乱と破壊に導こう、ともしています。地上の団体の中にも、抗争ばかりを繰り返している狂気の集団には、必ず、彼らが関わっています。闘争心を激しく燃やしている極端な右翼や左翼の人々や、悪質な組合運動家達の背後には、必ず、彼らが暗躍しています。
彼らは、この地上を混乱させるのに、最も効率のよい方法を、心得ています。即ち、彼らは、狂った宗教指導者達を作り出して、世の中を迷わせているのです。光の天使達が、神法を説きに、この地上界に舞い降りる時、魔が競い立つ、というのも、こういった事なのです。
この、後者の悪魔界の人達、地上界を、霊的に混乱に陥れ、何が本物で、何が偽物であるか、を、分からなくしようとしている彼らと、いかにして闘い、いかにして、彼らをも天上界へ導くか、という事が、地上に降りた光の指導霊達の仕事です。これは、恐らく、小桜の任を超えているものと思われますので、この事に関しては、もっと上級の、神霊の方々にお聴きになればよいと思います。
以上で、「霊界における地獄の救済」というテーマは、とり敢えず、終わりにします。
(1986年)
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