空っぽの部屋(虚静恬淡に生きる)

荘周菩薩品(抄)、老子、中庸、大学の仏教的解釈を掲載しています。荘周菩薩品、続、補は電子書籍(シナノブック)に。

5)常楽我浄とは

2016年12月08日 | 幸せについて
 涅槃(ねはん)経(哀嘆品)に常楽我浄(じょうらくがじょう)について説かれています。十句観音経では常楽我浄がこの経の徳目として説かれています。
 涅槃教では常楽我浄について、無常を常と考え、苦を楽と考え、無我(生死)を我(如来の真我)と考え、自分は不浄であるのに自分は浄らかである考えること、これら四つの誤った解釈を、則ちこれ四転倒であると説いています。この中で無我は生死のこと、我(が)は如来の真我として説かれているのですが、これが解釈を混乱させています。四つ目の浄についても仏教では般若心経に説かれているように不垢不浄(ふくふじょう)と説かれていますから、さらに意味を解りにくくさせているように思います。
 この四転倒こと常楽我浄について私的に、まず字釈を試みますと、
1)常:この世の中は無常、すなわち常なるものは無いのに寿命の有ることも忘れ、名誉や地位や財産も失うことが無いと考えることです。
2)楽:一切苦厄のこの輪廻の世界の中で世間の知、すなわち出世してたくさんの給料を得るために勉強し、たくさん有名な企業に入り、財貨と名誉や地位を得ることが自分にとって安楽を得ることだと考えることです。
3)我:自分の身体ですら天から借り物であるのに、自分の得た名利や土地や財貨、はては妻や子供まで自分のものだと考えることです。
4)浄:世間の知に惑わされ、貪欲な社会に生きているのに、名誉や地位や財貨を得た自分こそは一番正しいと考える傲慢なことです。この四番目の浄は諍(いさかい)が本来の教えだったように観じられます。不垢不浄という仏教的な教えにはそぐわないように思います。
 観音経の偈文に諍訟経官処(じょうしょうきょうかんしょ)とあるのですが、その”諍”、すなわち争いのことと考えれば、水の流れのように決して先を争わず(不争)という教えを、世間の中で人と争い、相手を蹴落としてでも名利や財を増やそうとしていることあると解釈できます。まさに、常なる楽しを求めて我は争う、この方が四転倒の意味が素直に理解できると思います。
 以上は字釈ですが、次にこの常楽我浄を徳目として説く十句観音経は観音菩薩の深い教えについて考えてみたいと思います。
 この十句観音経ですが五世紀には広く中語に伝えられていたようで、北魏と宋の戦いの時、このお経を称えることで北魏に敗れた将軍が死罪を免れたという言い伝えも残っています。それで後に延命十句観音経と名付けられたようです。短いお経ですので以下に全文を掲載したいと思います。
 観世音南無仏、与仏有因、与仏有縁、仏法僧縁、常楽我浄、朝念観世音、暮念観世音、
 念念従心起、念念不離心。
 私的に観心釈をしてみますと、
 私は観世音菩薩に帰依して身も心も委ねます(信)。私は輪廻の究極の目的である魂の浄化を成就するために、過去世、前世からの因縁所生によりこの地球の大地に転生して来ました。慈(慈悲心)、倹(謙虚に小欲知足の生活を送ること)、不争先(流るる水、先を争わず)の三宝(老子道徳経六十七)を心に刻み、精進して生きます(仏教で言われている三宝(仏法僧)を荘子の説く三宝として解釈をします)。そして、
1)常:この無常の世界を仮の世と観じて、常に心を平らかに保ち、怒り嫉みを起こさないように勤めて行きます。
2)楽:一切苦厄の輪廻の渦から解脱するために、観世音菩薩を信じ、すべてを委ね、則ち自然の摂理に身を委ね、大自然と一体化して心の安楽、安寧(法悦)を得たいと思います(華厳経の賢首菩薩本の説く信楽(しんぎょう)のことです)。
3)我:貪欲の因である我欲、我執、則ち我を滅し、煩悩習の縁である種々の因縁を断尽して一なる無分別の境地に至れるように精進して行きます。華厳経では還元清浄心であり、荘子のいうところの天分の本性に、涅槃経や神智学の語る所の真我に還ることです。
4)浄:そして失った魂の翼(天使の翼)を再び得ることが出来るように陰徳を積んで魂の浄化に勤めて行きます。その目的のために、常に如来の教え(真如)を信じる悦び(法悦)を朝に夕に戴きながら、己をも捨てて身も心も如来の御心に委ね、再び魂が翼を持つことが出来るように(羽化)、無上の菩薩道を歩めるように勤めて行きます、と説いていると思います。
 これは古来ヒッタイトから伝えられた高次元の教えです。この高次元の教えを後世に伝えた人はプラトンや荘子、キリストなどです。キリストの教えは残念ながら改ざんされしまいましたが、その教えは仏教の中にしっかりと残されています。
 私たちは天の子どもたちです。まさに羽を失った天使が地球の大地まで落ちて来てしまいました。再び羽を持つには長い年月が必要です。そのための方法がまさにヒッタイトからの高次元の教えです。この十句観音経の中には真の意味での常楽我浄の教えが説かれていると観じました。自我滅尽、断尽因縁、仏性開華、去去来来。
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4)一隅を照らす

2016年10月01日 | 幸せについて
一隅(いちぐう)を照らす、この言葉は天台宗の寺院へ行くと必ず掲示板などによく書かれています。天台宗の祖といわれてる最澄(さいちょう)さんが国宝とは何なのかについて書いた書物、山家学生式(さんげがくしょうしき)に載っている言葉です。一部掲載してみますと、
 国宝とは何物ぞ。
 宝とは道心なり。
 道心のある人を国宝と為す。
 故に古人(こじん)曰く、
 径寸(けいすん)十枚
 是れ国宝に非ず。
 一隅を照らす、
 此れ則ち国宝なり。
一隅とは一般的には一方の角のことですが、ここでは一方向しか見えない考え方のことです。如何ににして儲けようかと常に欲得のことばかり考えている偏った考え方のことを指しています。
道心とは菩薩の道を歩もうとする心、すなわち発心(ほっしん)し、如来の教えこと大自然の摂理に身を委ねて精進修行の道を歩むことです。
径寸十枚は中国春秋戦国時代の故事に載っている話で、ある時、斉の威王と当時の強国である魏の恵王が会いました。そのとき魏王が斉王に尋ねます。「あなたは何か家宝をお持ちですか」と尋ねると、いいえ、持っておりません」と斉王が答えます。魏王は「私のような小国の王でさえ、大きな光り輝く珠を十個は持っています。あなたが持っていないはずは無いでしょう」と言いますと、斉王は「あなたの言うところの宝と私の宝は違いますが、我が国には有能な四人の家臣が居り、よくこの国を治めてくれています。私にとっては彼らがまさに我が国の宝です」と答えました。魏王はそれを聞いて恥ずかしくなって退散した、という話ですが、魏王は誰かに斉の国にはすごい家宝が有ると聞いていたのでしょう。それを自慢をしてくれれば魏王はそれを力で奪うつもりだったのでしょうが、当てが外れてしまったようです。
 山家学生式の一節を要約しますと、
 己の魂を浄化するために悟りの境地に向かって精進修行する人たちこそが、当に国の宝なのです。金銀財宝などをたくさん集めた所で、そのような物は国宝どころか、不幸せをもたらす根源なのです。菩薩道を歩み、自分の魂を浄化し、かつ慈悲心を持って欲得の道で迷っている人々に対して、ほのかな燈でも照らして正しい道を示してあげることが出来れば、それが当に国宝、すなわち功徳を積むことであり、自分の宝蔵(チャクラ)を開くことなのです、と語っています。
この後で忘己利他(ぼうきりた)について語る一節が続きます。
  古哲また曰く、
よく言って行うことの能わざる者は国の師なり。
よく行い、言うことの能わざる者は国の用(ゆう)なり。
よく行い、そして言うの者は国の宝なり。
三品のうち、言うこと能わず、行うことも能わざる者を国賊と為すなり。
則ち、道心ある仏子、西には菩薩と称し、東には君子と称す。
悪事は己に迎え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。
この一節はたいへん誤解を招きやすい所です。国とは己のことで、国を治めるとは自分を治めることですから、則ち自我を滅することです。この一節は荘子書同様に、誤解を招きやすい所です。私訳してますと、
 古の成人は次のように語っています。、経典を学び、世間から離れて精進修行をしている人は師、すなわち先生と呼ばれています。師から経典の教えを聞き、そして学び、それを世間のために役立たせようとして実践する人は国の用、すなわち利他行に勤める人です仏典を学び、真義を習得して己の宝蔵を開き、世間の人々に輪廻からの解脱の道のあることを示そうと、精進、修行の生活送る人は、当に国の宝、菩薩道を歩む人です。仏典や師より智慧を授かること無く、己の欲得のために世間の知を学んで出世栄達をはかる人は国賊、すなわち己のせっかく積んだ功徳をかすめ取る盗賊団のようなものです。
 経典を学び、自然の摂理に順い、精進修行を実践しする人は仏子と呼ばれる。西方では菩薩と呼ばれ、東では君子とも呼ばれています。自己の利益を考えること無く、難事には自分で率先して臨機応変に対処し、また柔和忍辱の心をもって教典を説き、人々に抜苦与楽の行を施すこと、すなわち己を忘れて他を利すること、これが菩薩の慈悲行なのです、と語っています。
 ここでいう国の師とは国の計画を考える人、戦いの時の軍師とか、国の用とは建てられた計画を実行する人で、国の維持に役立つ人のことなどと解釈をすると、仏教の話とはかけ離れてしまいます。
 世間の知を学び、名利を得んして欲得にまみれ、道を見失った人たちからは、木偶の坊と呼ばれようとも、その人たちに対して目には見えませんが輪廻からの解脱の道があることを大慈悲心と柔和忍辱の心を以て指し示すこと、それが一隅を照らすことであり、菩薩道の実践です。菩薩道を歩むこと、それが則ち、幸せの道を歩むことです。
 以上、”一隅を照らす”について私的に解釈を試みました。荘周菩薩品抄(45~47)の「無功用(むくゆう)の妙用(みょうゆう)」を参照していたければ幸いです。
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3)足るを知る者は富む

2016年09月15日 | 幸せについて
 老子は紀元前六世紀頃の人というだけで出生も不明です。荘子書の中では老聃の名前で出てきますが、この方は精進食を取ることが無かったようで、荘子が名前を仮に用いたようです。荘子書の中に孔子に道を説いたという説話が載っていますので,いつの間にか道教の太上老君などと呼ばれ、三清の一人の如くされたようです。荘子は架空の人の名を用いて経典の偈文のように荘子書の概略を述べたもの、則ち荘周菩薩品の偈文(げもん)が老子書だったようです。荘子書同様、多くの改ざんが為されたために真意を誤解されている所が多く認められます。
 この「足を知るものは富む」は老子道徳教の第三十三節の弁徳(べんとく)に説かれている一節ですので、その読み下し文を掲載しますと、
「人を知るは智なり。自らを知るは明なり。人に勝(すぐ)るは有力(うりき)なり。自らに勝れるは強し。足るを知る者は富み、強いて行う者は志有り。その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」
説かれています。
 弁徳は徳について語ることです。文字がかなり省略さていますので私的に文字を補いながら、荘子の教えに随い解釈をしてみますと、
 「人を知るは智なり」は人を知る、すなわち世間の知とは分別知であると説いています。
「自らを知るものは明なり」は、天から与えられた天分の本性たる高位の魂の智慧は明、すなわち無分別智であると述べています。
「人に勝るは有力なり」は、人に勝れるといえども、それはただ力が勝っているだけである、則ち、富や権力などで得た力こそがすべてだと思い違いをしていることです。不幸を知らない不幸の教えです。
「自らに勝つ者は強し」とは五欲を離れ、自我を滅尽する者は畏れるもの無しと語っています。
「足るを知る者は富む」とは遺教経の”足るを知る者は貧しといえども富めり”のことです。
「強いて行う者は志有り」は強いて学問などを詰め込んで立身出世を志しても,内なる清浄心を損なっているこのに気がつかないとです。
「その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」とは、道を歩む者は富楽安穏にして、魂の不滅を知るものは寿、すなわち幸いなりと締めています。
通釈をしてみますと、
 世間の知を学ぶとは、立身出世をして地位や名誉や財貨を得るための知識を学ぶことです。自分を知るということは、欲を離れて我欲を滅し、生死や是非などの世間の分別知から離れ、無分別の一なる境地に至る智慧を学ぶことです。しかし、世間で勝れた人と言われているのは権力や財力のある人です。これが世間の知です。自分に勝るというのは自我を滅して欲を離れていますから何も失う物も有りませんから何も恐れることが有りません。己を知り足を知る者は分相応に住し、自然の摂理に順って小欲知足に生きていますので何事にも束縛されることは有りません。ですから身も心も安穏富楽に保てるのです。それなのに、世間の知に惑わされ、学問に精を出し、立身出世を志すのは自分のことをわざわざ自分の手で縛っているようなものです。道を歩む者は魔界をも超越し、富楽安穏の境地に安住することが出来るのです。欲を離れ、生死を離れ、分別知を離れて、魂の不滅を知る者、それがまさに寿、則ち幸せ者なのです、と説かれています。
 子供や孫の立身出世を願うのはこの世間では当たり前のことのように考えられていますが、それが世間の知なのですと語っています。それは、両親や祖父や祖母までみんなで揃って、すなわち家族が揃って皆で縛りあいをしているようなものだと教えています
 このブログの老子道教、弁徳第三十三も参照していたければ幸いです。
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2)富むといえども貧し

2016年09月08日 | 幸せについて
 お釈迦様の最後の教えとされている遺教経(ゆいきょうぎょう)の一節に説かれている言葉です。
 仏教はお釈迦様の教えとされていますが、ヒッタイトからの教えを仏教として広めるために、インドの仏教を信奉する人々の想念が作り出したものですのですから、実際にはお釈迦さまはこの輪廻の世界には生まれて来ていません。しかし、二十一世紀に入り、天上界の会議でお釈迦ざまは神の一員として認められてようです。イエスキリストはインドまで訪れてこのヒッタイトからの高次元の教えを説いていたのは事実のようです。
 それでは遺教経の第二節の出世間法要に説かれている「知足の功徳」ですが、短い一節ですので全文の読み下し文を記載します。
「汝ら比丘よ、もし諸々の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は,即ちこれ富楽安穏の教えなり。知足の人は大地の上に臥すといえどもなお安楽とするも、不知足の人は天堂に住すといえども、また意に叶わず。不知足の人は富むといえども貧し。知足の人は貧しといえども富めり。不知足の人は常に五欲のために牽(ひ)かれ、知足の人に憐愍(れんみん)せらるる。これを知足と名づくなり」
 と説かれています。不知足の人は五欲、すなわち五感(眼耳鼻舌意)を満足するための欲望が絶えることが無いので、自ら苦悩を招いて苦しんでいる。いくらお金を持っていて良い住まいに住んだとしても、もっと良い所に住みたくなって、欲望の止まる事が無いから、年中、悶々とした生活を送っている。それがすべての患いの元であることも知らないで、自分は成功者で幸せ者だと思っている。知足の人はそのことに気づかない不知足の人を憐れんでいる、と説かれています。
 ヘラクレスの冒険の中の修道院長の言葉が思い浮かびます。不幸であることを知らない人のことを一言で語っています。「その方はお金持ちなんですね」
 遺教経のこの前の一節、無求(むぐ)の功徳では小欲について説かれています。全文を掲載しますと、
「汝ら比丘、多欲の人は利を求めることが多きが故に苦悩もまた多し。小欲の人は利を求めること無く、欲も無ければこの患(うれ)い無し。ひたすら小欲を修習すべし。小欲なることの諸々の功徳を生ずるは語るまでもなし。小欲の人は諸根、すなわち五欲のために牽かれず、すなわち諂曲(てんごく)して以て人の意を求めず(人を欺してまで自分の利益を得ようとはしない)。小欲を行ずる者は心担然(たんねん)として憂畏(うい)するところ無く、事にあたりても余裕有りて、常に足らざること無し。これ則ち、涅槃行(ねはんぎょう)なり。これを小欲と名ずくなり」と説かれています。遺教経では小欲知足の話を二つに分けて説いています。
 不幸を知らない不幸、そして富むといえども貧し、これらすべての原因は貪欲さであることが説かれています。これらの苦悩を逃れる方法は、離欲、すなわち小欲知足に生きることが功徳を生ず、すなわち魂の浄化のための精進修行であることが説かれていると思います。
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1)不幸を知らない不幸

2016年09月06日 | 幸せについて
 世間では、思いが叶ったり、お金が儲かったり、恋が叶ったりすると自分のことを幸せ者だとよく言いいます。世間の言うところの幸せは本当の幸せなのでしょうか。
 ポワロの晩年を描いた「ヘラクレスの冒険」(アガサクリスティ著)の第十一話のなかに不幸について書かれているところが有りますので、それを一部引用して紹介したいと思います。
 ある時、ヘラクレスことエルキュール・ポワロは太い眉、酷薄そうな唇、貪欲そうなあごの線、相手の心の底を見透かすような鋭いまなざしをもつ、財界の権力者の所へ呼ばれ、ある依頼を受けます。それは、十年ほど前、三万ポンドで競い落としたエメラルドでできたリンゴのついた金の酒杯が自分の所へ届く前に盗難にあってしまったので、それをいくらかかってもいいから探して欲しいという依頼でした。ポワロはプロメテウス役の探偵社や刑事たちの情報を元に推理を進め、盗賊団の主犯格はすでに死亡したが娘がアイルランドの田舎の修道院に勤めていることを知ります。そこでポワロは人里離れた修道院をなんとか訪ねたのですが、その娘はすでに二年前に無くなっていました。いったん町へ引き返したポワロはアトラスという競馬の予想屋を雇い、再度そこを訪れます。その修道院の塀を乗り越える時、アトラスに案内代としれ5ポンド紙幣を二枚与えて天球の代わりに屈んでポワロを支える役をさせます。こっそり修道院に侵入したポワロは教会の聖火台の上に置かれてた酒杯を、本来はオークションで手に入れた依頼主のものなのですが、失敬して戻ります。アトラスにはお礼として、明日の競馬で手数料の十ポンドを大穴のヘラクレスにつぎ込むようにと教えます。
 ポワロは聖杯をもって財界の権力者の所を訪れます。机の上に小包を置き、きれいに紐解いてていねいに黄金の酒杯を取り出します。富豪は満面の大喜びで、「代金はあなたの言う値段を支払うよ」と言うのですが、ポワロは「代金はいらない」と言います。「それじゃ株の情報が欲しいのか」と言ったのですが、「それもいらない」と言います。「では何が欲しいのか」と言われ、ポワロは机の上の黄金の酒杯を指さして、おもむろに「それが欲しいのです」と言います。あまりのことに呆れかえる財界の権力者ですが、ポワロは「実は酒杯の底は二重に成っており、そこには小さな穴が隠されています。昔はそこに毒を入れて持ち主を殺害したようです」とその仕掛けを見せます。このような物はあなたが持つより教会に飾って祈りで浄めてもらうのが一番良いと思います。修道院の尼僧たちがあなたの魂のためにミサの祈りを捧げてくるでしょう」と言ってなんとか納得させようとします。富豪は貪婪(どんらん)な笑みを満面に浮かべて、「これは私の最善の投資だ」と言って酒杯を返すことに同意しました。
 ポワロは修道院の小さな応接間の中で院長に一部始終を語り、聖杯を返します。修道院長は、
「その方に感謝の祈りを捧げるとお伝え下さい」ポワロはうなずいてしみじみと言います。
「あの方にはあなた方の祈りが必要なのです」
「では、その方は不幸なのですか」
「あまりに不幸であったために幸福とは何であるかを忘れてしまったのです。自分が不幸であることを知らないほどの不幸なんです」修道院長は優しく言います。
「ああ、お金持ちなんですね」
ポワロは何も言わなかった。助加えるべきコトが何も無いことを知っていたからだ。
 以上がヘラクレスの冒険の第十一話の概略です。是非一読をお勧めします。
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